ひらひらと舞い落ちる桜の花弁。
薄く色づいたそれを捉えようと、子供達が特有の甲高い声ではしゃぎまわっている。微かな風にも舞ってしまう花弁を捉えるのは容易ではなく、小さな挑戦者達は苦戦していた。
そんな微笑ましい光景を眺めてから、傍らに立つ男へと視線を戻す。抜けるような白い肌、柔らかな春の陽光を受けて輝く金色の髪。やけに整った造作の顔には、穏やかな微笑が張り付いている。
現在の俺の相棒。名前は、知らない。
当然のように、相棒も俺の名は知らない。だが、それでもよかった。不便なときもあったが、大抵のことは知らなくても何とかなる。もし教えてもらっても、俺はきっとすぐに忘れてしまうだろう。俺たちにとって名前など、その程度の物だった。
不意に、風が駆け抜けた。
それなりに長い前髪が弄られ、光を浴びても透けもしない黒い髪が目の前で暴れた。
「相棒。そろそろいくぞ。」
「待って、もう少し。」
相棒は薄めの茶色の瞳を細め、桜を眺めていた。こうなったとき、相棒に何を言っても無駄だ。
この公園に来てから、既に一時間は経過していた。自販機で買った茶はもう空っぽで、最初は熱かった缶は、今では手を冷やすだけだった。
相棒を置いて先に帰る、というのも考え、実行しようともしたが、『もう少しだから待って』という言葉で止められた。時間で言えば三〇分ほど前からその系統の台詞で待たされ続けている。いい加減黙って帰ってしまおうか、なんて考えた俺を責める権利など、誰にも無い。と信じたい。
「桜って、素敵だね。」
唐突に相棒がそんなことを言う。組んだ当初こそいちいち困惑していたが、今ではこいつのこういう行動には慣れた。
「その台詞、去年も聞いた。っていうか、一昨日と三日前にも聞いた。」
「だって、あまりに綺麗だから、つい。」
「『つい』で、一時間も人を待たせるのか、お前は。」
「ごめん。」
一応詫びを口にしているが、その声には『誠意』というものが1ミリグラムも含まれていない。もしかしたら、水素分子の質量程度にはあるかもしれないが、その程度なら0と殆ど変わらないのでスルーしておく。
「そういえばこんな話があったな。桜の木の根元には死体が埋まっている。だから桜の花は薄紅色なんだって話。」
「え、そうなの?」
「あのな・・・・・。もしこの話が本当だとしたら、日本の地面は死体でいっぱいだぞ。」
「そっか。そうだよねぇ・・・・・。あ、でもそれもいいかも・・・・・やっぱりよくないかな、どうだろう・・・・・?」
こいつ、頭大丈夫だろうか。一度医者に診せたほうがいいかもしれない。真剣に病院を検討し始めた俺の思考を引き戻したのは、その患者候補だった。
「でも、そのお話素敵だね。俺はそういうの好きだな。」
「そうか。」
どの病院に診てもらおう。嗚呼、相棒の為にここまで真剣に考えてやる俺って、なんて優しい人間なんだろう!自分で言ってて(というか、思ってて)寒気してきた。
「だってさ、その話を聞いたら、納得できることもあるんだよ。」
「へぇ、そりゃなんだ?」
「桜がどうしてあんなにも狂おしいのかってこと。」
『狂おしい』とか素で言うな。聞いてるこっちが恥ずかしい。
喉までせり上がった言葉たちを強引に飲み込む。言っても無駄だ、と合理的な判断を下した理性からの忠告に従って。
空気を震わせることなく散っていった言葉たちの代わりに、ため息を一つついた。
何気なく時計を見て、そろそろヤバイ時間だと気づいた。
「そろそろ行くぞ。依頼人との待ち合わせが近い。桜は仕事終わってから見ろ。そしたら俺に急かされずにのんびりと見れるぞ。」
「そっか。そうだね。うん、いこう。」
のんびりと言う相棒を見て、自然とため息が出てきた。ため息をつくと幸せが逃げる、なんて言葉があるが、もともと無い物は逃げようがない気もする。
それなりに広い店内にゆったりとしたあまり聴いたことの無い、従って題名も作者も分からないクラシックがかかっているなかなかいい雰囲気の喫茶店で、一人の男と向かい合っていた。
いかにもビジネスマンといった風貌。午後3時というこの時間帯に俺たちのような輩と喫茶店にいるには、少し不釣合いな感じだ。この男が依頼人。名前は知らないし、今のところは知る気もない。
相方は隣で珈琲に砂糖を投下している。その表情を見るに、苦かったらしい。苦いのが苦手なんだから、おとなしくジュースでも頼んでおけと言ったのに。
もう5分も沈黙が続いている。出そうになるため息を慌てて押しとどめる。一応、依頼人の前だ。
この沈黙がいつまで続くか分からないので、とりあえず思考にふけることにする。
俺と相棒が営んでいるのは、俗に言う『何でも屋』だ。とはいっても、本当に何でも受けるわけではない。割に合わない仕事はやらないし、どっかの組を潰すだとかそういう厄介なものは受けつけない。
現代日本において、何故こんな漠然としすぎて、わけの分からない仕事をしているのか、時々自分でも分からなくなる。まぁ一種の便利屋のようなものだと考えれば、納得できなくも・・・・・いや、やっぱり納得できないな。しかも、割と裏方専門。警察だとかそういった表立ったところに頼めないような依頼が多い。そうでないのも一応あるが、かなり稀だ。もう少し平和に生きようぜ、俺。
「相棒〜・・・・・。」
相棒が、情けない声を出した。見たくないが、相手をしないと後で五月蠅い。仕方なく視線を相棒に向けると、困ったような顔で珈琲を指している。だからやめとけって言ったのに。
「自業自得。」
相棒にやっと聞こえるくらいの声で咎めながら、俺の頼んだだけで口もつけていない紅茶を渡した。ありがとう、と言う言葉が返ってきたが、そんなものはどうでもいい。
何気なく窓の外を覗くと、桜の木が見えた。電線にかからないように、邪魔にならないようにと枝を切断されている為に、かなり不恰好な桜の木だ。
それでも、咲く花は同じ色だった。
しばらくそれを眺めていると、依頼人がおずおずと話し始めた。桜から依頼人へと視線を移動させる。
その1時間後。俺達は、険しいというほどではないが、緩やかと呼べるほどでもない、というなんとも中途半端な山を登っていた。ぴぃぴぃと鳥たちが元気に鳴いている。のどかな光景だ。
この山の頂上に生えている桜の写真を夜に撮ってくること。
それが、今回の依頼だった。
「よかったな、相棒。桜が見れるぞ。」
「うん。」
もうだいぶ登っているが、嬉しそうな相棒の顔には、疲労の色は窺えない。一応それなりに鍛えている為、この程度の山なら走っても制覇できる。流石に疲れるだろうからやらないけど。
「その桜ってそんなに綺麗なのかな?」
「さぁな。」
答えながらも、俺の思考は別のところに飛んでいる。
依頼人が何故わざわざ俺たちに頼んだのか。ただ単に、仕事が忙しくて開花時期に見に行けない。夜に行ったら翌日の仕事に耐えられない。それもあるかもしれない。だが、それだけであそこまで言うのを躊躇うだろうか。勿論、これはただの深読みのし過ぎかもしれない。わざわざ頼むのも恥ずかしかったと言われてしまえばそれで終わりだ。だが、何故だかそんな気にはなれない。
「もう少しで頂上着きそうだけど、相棒は夜までどうする?」
「本でも読むさ。お前はどうせ桜眺めてるんだろ?」
「うん。」
子どものようにはしゃぐ相棒を見ていると、何故だか無性に疲れる。
諦めて周囲を見渡すると、奇妙な感じがした。だが、それが何なのかはわからなかった。
「どうかした?」
「いや、別に。」
答えながらも、俺の目は周囲を探ることをやめなかった。ぴぃぴぃと喧しい鳥の声が、鼓膜を震わせていた。
名も分からぬような広葉樹林が広がっていたそれまでと違い、頂上付近は見事なまでに拓けていた。
そして、本当に一番てっぺんだと思われる所に、一本だけ大きな桜が生えていた。
近くで見たとき、俺は声すら出なかった。あまりに驚愕したからだ。まず美しさに。そして次に、その迫力に。
幹も枝も非常識にでかいのに、はらはらと舞う花弁はやはり同じだった。見るものを惹きつけてやまない色と大きさ。
どれだけ昔から存在すれば、こんなにでかくなるのだろう?自然とそんな考えが出てくる自分が何故か滑稽だった。
その美に感動しながらも、頭のどこかが急速に冷えていく。
(それは、駄目だ。)
警告。
本能からか理性からか、はたまた両方からか。
わからないが、とにかくそう思った。
そしてそれを忠告として受け入れた瞬間に、取るべき行動を『観賞』から『観察』へと切り替える。
何かが変だ。
その『何か』はわからない。いや、分からないというか説明が出来ないといった方が正しいだろう。それはあまりにも感覚的なものだった。
漠然と感じる、得体の知れない感情。鳥の声が、何処か遠くに行ってしまったように聞こえた。
違う、そうじゃない。実際に、この近くには鳥がいない。
それに気づくと同時に、視線を地面に落とす。どれだけ一生懸命に探しても、蟻(あり)一匹も見つけられなかった。
(・・・・・この桜の周辺には、生き物がいない――――?)
それに気づいたとき、得体の知れない感情は恐怖へとすり替わった。
「相棒。気づいてるか?」
「うん・・・・・ここの桜、綺麗だけど・・・・・。」
言いよどむ相棒の腕を引っつかんだ。
「依頼は依頼だ。こなさなきゃならないが・・・・・とりあえず、夜になるまで離れた所から観察していよう。近くにいたら危険な気がする。」
「わかった。」
素直に頷きながらも、相棒は桜から目を離さなかった。じっと桜に視線を注ぎ続けている。悲しげに、寂しげに。
そして日が暮れて、太陽に照らされた月が地上を照らす。
桜は、昼間とはまた違った美を誇っていた。そしてそれは、昼間よりもずっと危うい気がした。
危ういと分かっているのに、目を逸らせない。よくわからない感情が渦巻き、それが恐怖を誘う。
暗い空から降り注ぐ青白い月光。照らされる花弁は薄紅。風が舞い、花弁は舞い散る。俺の近くにも、何枚かが舞を見せに現れた。
ただ墜ちていくだけの舞を見て、得体の知れない感情の正体に気づく。そして、何故それが恐怖へと繋がったのかも。
ポケットからカメラを取り出して、何枚か写真を撮った。
そして、桜を眺める。
寂しさと悲しみと哀れみを無理やり混ぜ合わせたような気分だった。
それは漠然とした想い。しかしそれと同時に、この上なくはっきりとした想いでもある。
相棒はただじっと桜を見つめていた。こいつは、この桜を見て何を感じているのだろうか。そんなことを思っていると、唐突に相棒が口を開いた。
「あのね、相棒。昼間、俺は桜がどうしてあんなに狂おしいのかわかったって言ったよね。」
「・・・・・ああ、言ったな。」
「この桜見てたら、何となく確信できた。」
「そうか。」
相棒が出した答えなど、興味は無かった。そもそもそんな答えなんて物は、個人の自己満足に過ぎない。そういうわけだから相棒。ただ自己を満たしていろ。
「帰るか?」
どうせまたもうちょっと、だとか言うんだろう。そう思いながら、それでも口にした言葉だった。
「うん、そうだね。帰ろう。」
あっさりとした言葉に、一瞬思考がついていかなかった。言葉を何度も租借して、ようやく理解できた。
あぁヤバイ。寝不足だろうか。いや、それとも疲労か?思考能力が著しく低下してる。
「やけにあっさりしてるな。」
「桜は好きだけど、ここの桜は寂しすぎるから、いいの。」
なんだかよく分からない理屈だった。けれど。
(ここの桜は寂しすぎる、か・・・・・。)
一度だけ桜を振り返る。寂しげに、悲しげに佇む桜。はらはらと花弁が舞い落ちていく。
そして、俺達はその場を後にした。
写真を依頼人に渡したその帰り。あの公園で、俺達は桜を眺めていた。昨日よりも散る数が増えている気がする。
子供達はやはり楽しそうに、舞い散る花弁を一生懸命に追っている。
力いっぱい掴もうとすればするほど、捉えにくくなると気づいていない。
桜は、もうそろそろ終わりを告げるだろう。それまでに、この相棒はどれだけ桜を見るつもりなのだろうか。
今も楽しそうに、嬉しそうに、桜を眺めていた。
何を言っても無駄だ、と判断して、俺もおとなしく桜を観賞する。
風に吹かれてただ地面へと向かうだけの舞を舞う薄紅色の花弁。目の前で舞い始めた一枚をそっと手で掴んだ。
今は盛りといわんばかりに咲き、そして散っていく桜花。また次の春を迎えたときへの、再会を願いながら、手を開いた。掌から飛び立ったたった一枚の花弁は、風と共に舞い始めた。
―終―
部誌に載せた話です。
ちょこっとだけ変えましたが、多分気づかれない程度です。
今UPすると物凄く季節はずれ・・・・・。
薄く色づいたそれを捉えようと、子供達が特有の甲高い声ではしゃぎまわっている。微かな風にも舞ってしまう花弁を捉えるのは容易ではなく、小さな挑戦者達は苦戦していた。
そんな微笑ましい光景を眺めてから、傍らに立つ男へと視線を戻す。抜けるような白い肌、柔らかな春の陽光を受けて輝く金色の髪。やけに整った造作の顔には、穏やかな微笑が張り付いている。
現在の俺の相棒。名前は、知らない。
当然のように、相棒も俺の名は知らない。だが、それでもよかった。不便なときもあったが、大抵のことは知らなくても何とかなる。もし教えてもらっても、俺はきっとすぐに忘れてしまうだろう。俺たちにとって名前など、その程度の物だった。
不意に、風が駆け抜けた。
それなりに長い前髪が弄られ、光を浴びても透けもしない黒い髪が目の前で暴れた。
「相棒。そろそろいくぞ。」
「待って、もう少し。」
相棒は薄めの茶色の瞳を細め、桜を眺めていた。こうなったとき、相棒に何を言っても無駄だ。
この公園に来てから、既に一時間は経過していた。自販機で買った茶はもう空っぽで、最初は熱かった缶は、今では手を冷やすだけだった。
相棒を置いて先に帰る、というのも考え、実行しようともしたが、『もう少しだから待って』という言葉で止められた。時間で言えば三〇分ほど前からその系統の台詞で待たされ続けている。いい加減黙って帰ってしまおうか、なんて考えた俺を責める権利など、誰にも無い。と信じたい。
「桜って、素敵だね。」
唐突に相棒がそんなことを言う。組んだ当初こそいちいち困惑していたが、今ではこいつのこういう行動には慣れた。
「その台詞、去年も聞いた。っていうか、一昨日と三日前にも聞いた。」
「だって、あまりに綺麗だから、つい。」
「『つい』で、一時間も人を待たせるのか、お前は。」
「ごめん。」
一応詫びを口にしているが、その声には『誠意』というものが1ミリグラムも含まれていない。もしかしたら、水素分子の質量程度にはあるかもしれないが、その程度なら0と殆ど変わらないのでスルーしておく。
「そういえばこんな話があったな。桜の木の根元には死体が埋まっている。だから桜の花は薄紅色なんだって話。」
「え、そうなの?」
「あのな・・・・・。もしこの話が本当だとしたら、日本の地面は死体でいっぱいだぞ。」
「そっか。そうだよねぇ・・・・・。あ、でもそれもいいかも・・・・・やっぱりよくないかな、どうだろう・・・・・?」
こいつ、頭大丈夫だろうか。一度医者に診せたほうがいいかもしれない。真剣に病院を検討し始めた俺の思考を引き戻したのは、その患者候補だった。
「でも、そのお話素敵だね。俺はそういうの好きだな。」
「そうか。」
どの病院に診てもらおう。嗚呼、相棒の為にここまで真剣に考えてやる俺って、なんて優しい人間なんだろう!自分で言ってて(というか、思ってて)寒気してきた。
「だってさ、その話を聞いたら、納得できることもあるんだよ。」
「へぇ、そりゃなんだ?」
「桜がどうしてあんなにも狂おしいのかってこと。」
『狂おしい』とか素で言うな。聞いてるこっちが恥ずかしい。
喉までせり上がった言葉たちを強引に飲み込む。言っても無駄だ、と合理的な判断を下した理性からの忠告に従って。
空気を震わせることなく散っていった言葉たちの代わりに、ため息を一つついた。
何気なく時計を見て、そろそろヤバイ時間だと気づいた。
「そろそろ行くぞ。依頼人との待ち合わせが近い。桜は仕事終わってから見ろ。そしたら俺に急かされずにのんびりと見れるぞ。」
「そっか。そうだね。うん、いこう。」
のんびりと言う相棒を見て、自然とため息が出てきた。ため息をつくと幸せが逃げる、なんて言葉があるが、もともと無い物は逃げようがない気もする。
それなりに広い店内にゆったりとしたあまり聴いたことの無い、従って題名も作者も分からないクラシックがかかっているなかなかいい雰囲気の喫茶店で、一人の男と向かい合っていた。
いかにもビジネスマンといった風貌。午後3時というこの時間帯に俺たちのような輩と喫茶店にいるには、少し不釣合いな感じだ。この男が依頼人。名前は知らないし、今のところは知る気もない。
相方は隣で珈琲に砂糖を投下している。その表情を見るに、苦かったらしい。苦いのが苦手なんだから、おとなしくジュースでも頼んでおけと言ったのに。
もう5分も沈黙が続いている。出そうになるため息を慌てて押しとどめる。一応、依頼人の前だ。
この沈黙がいつまで続くか分からないので、とりあえず思考にふけることにする。
俺と相棒が営んでいるのは、俗に言う『何でも屋』だ。とはいっても、本当に何でも受けるわけではない。割に合わない仕事はやらないし、どっかの組を潰すだとかそういう厄介なものは受けつけない。
現代日本において、何故こんな漠然としすぎて、わけの分からない仕事をしているのか、時々自分でも分からなくなる。まぁ一種の便利屋のようなものだと考えれば、納得できなくも・・・・・いや、やっぱり納得できないな。しかも、割と裏方専門。警察だとかそういった表立ったところに頼めないような依頼が多い。そうでないのも一応あるが、かなり稀だ。もう少し平和に生きようぜ、俺。
「相棒〜・・・・・。」
相棒が、情けない声を出した。見たくないが、相手をしないと後で五月蠅い。仕方なく視線を相棒に向けると、困ったような顔で珈琲を指している。だからやめとけって言ったのに。
「自業自得。」
相棒にやっと聞こえるくらいの声で咎めながら、俺の頼んだだけで口もつけていない紅茶を渡した。ありがとう、と言う言葉が返ってきたが、そんなものはどうでもいい。
何気なく窓の外を覗くと、桜の木が見えた。電線にかからないように、邪魔にならないようにと枝を切断されている為に、かなり不恰好な桜の木だ。
それでも、咲く花は同じ色だった。
しばらくそれを眺めていると、依頼人がおずおずと話し始めた。桜から依頼人へと視線を移動させる。
その1時間後。俺達は、険しいというほどではないが、緩やかと呼べるほどでもない、というなんとも中途半端な山を登っていた。ぴぃぴぃと鳥たちが元気に鳴いている。のどかな光景だ。
この山の頂上に生えている桜の写真を夜に撮ってくること。
それが、今回の依頼だった。
「よかったな、相棒。桜が見れるぞ。」
「うん。」
もうだいぶ登っているが、嬉しそうな相棒の顔には、疲労の色は窺えない。一応それなりに鍛えている為、この程度の山なら走っても制覇できる。流石に疲れるだろうからやらないけど。
「その桜ってそんなに綺麗なのかな?」
「さぁな。」
答えながらも、俺の思考は別のところに飛んでいる。
依頼人が何故わざわざ俺たちに頼んだのか。ただ単に、仕事が忙しくて開花時期に見に行けない。夜に行ったら翌日の仕事に耐えられない。それもあるかもしれない。だが、それだけであそこまで言うのを躊躇うだろうか。勿論、これはただの深読みのし過ぎかもしれない。わざわざ頼むのも恥ずかしかったと言われてしまえばそれで終わりだ。だが、何故だかそんな気にはなれない。
「もう少しで頂上着きそうだけど、相棒は夜までどうする?」
「本でも読むさ。お前はどうせ桜眺めてるんだろ?」
「うん。」
子どものようにはしゃぐ相棒を見ていると、何故だか無性に疲れる。
諦めて周囲を見渡すると、奇妙な感じがした。だが、それが何なのかはわからなかった。
「どうかした?」
「いや、別に。」
答えながらも、俺の目は周囲を探ることをやめなかった。ぴぃぴぃと喧しい鳥の声が、鼓膜を震わせていた。
名も分からぬような広葉樹林が広がっていたそれまでと違い、頂上付近は見事なまでに拓けていた。
そして、本当に一番てっぺんだと思われる所に、一本だけ大きな桜が生えていた。
近くで見たとき、俺は声すら出なかった。あまりに驚愕したからだ。まず美しさに。そして次に、その迫力に。
幹も枝も非常識にでかいのに、はらはらと舞う花弁はやはり同じだった。見るものを惹きつけてやまない色と大きさ。
どれだけ昔から存在すれば、こんなにでかくなるのだろう?自然とそんな考えが出てくる自分が何故か滑稽だった。
その美に感動しながらも、頭のどこかが急速に冷えていく。
(それは、駄目だ。)
警告。
本能からか理性からか、はたまた両方からか。
わからないが、とにかくそう思った。
そしてそれを忠告として受け入れた瞬間に、取るべき行動を『観賞』から『観察』へと切り替える。
何かが変だ。
その『何か』はわからない。いや、分からないというか説明が出来ないといった方が正しいだろう。それはあまりにも感覚的なものだった。
漠然と感じる、得体の知れない感情。鳥の声が、何処か遠くに行ってしまったように聞こえた。
違う、そうじゃない。実際に、この近くには鳥がいない。
それに気づくと同時に、視線を地面に落とす。どれだけ一生懸命に探しても、蟻(あり)一匹も見つけられなかった。
(・・・・・この桜の周辺には、生き物がいない――――?)
それに気づいたとき、得体の知れない感情は恐怖へとすり替わった。
「相棒。気づいてるか?」
「うん・・・・・ここの桜、綺麗だけど・・・・・。」
言いよどむ相棒の腕を引っつかんだ。
「依頼は依頼だ。こなさなきゃならないが・・・・・とりあえず、夜になるまで離れた所から観察していよう。近くにいたら危険な気がする。」
「わかった。」
素直に頷きながらも、相棒は桜から目を離さなかった。じっと桜に視線を注ぎ続けている。悲しげに、寂しげに。
そして日が暮れて、太陽に照らされた月が地上を照らす。
桜は、昼間とはまた違った美を誇っていた。そしてそれは、昼間よりもずっと危うい気がした。
危ういと分かっているのに、目を逸らせない。よくわからない感情が渦巻き、それが恐怖を誘う。
暗い空から降り注ぐ青白い月光。照らされる花弁は薄紅。風が舞い、花弁は舞い散る。俺の近くにも、何枚かが舞を見せに現れた。
ただ墜ちていくだけの舞を見て、得体の知れない感情の正体に気づく。そして、何故それが恐怖へと繋がったのかも。
ポケットからカメラを取り出して、何枚か写真を撮った。
そして、桜を眺める。
寂しさと悲しみと哀れみを無理やり混ぜ合わせたような気分だった。
それは漠然とした想い。しかしそれと同時に、この上なくはっきりとした想いでもある。
相棒はただじっと桜を見つめていた。こいつは、この桜を見て何を感じているのだろうか。そんなことを思っていると、唐突に相棒が口を開いた。
「あのね、相棒。昼間、俺は桜がどうしてあんなに狂おしいのかわかったって言ったよね。」
「・・・・・ああ、言ったな。」
「この桜見てたら、何となく確信できた。」
「そうか。」
相棒が出した答えなど、興味は無かった。そもそもそんな答えなんて物は、個人の自己満足に過ぎない。そういうわけだから相棒。ただ自己を満たしていろ。
「帰るか?」
どうせまたもうちょっと、だとか言うんだろう。そう思いながら、それでも口にした言葉だった。
「うん、そうだね。帰ろう。」
あっさりとした言葉に、一瞬思考がついていかなかった。言葉を何度も租借して、ようやく理解できた。
あぁヤバイ。寝不足だろうか。いや、それとも疲労か?思考能力が著しく低下してる。
「やけにあっさりしてるな。」
「桜は好きだけど、ここの桜は寂しすぎるから、いいの。」
なんだかよく分からない理屈だった。けれど。
(ここの桜は寂しすぎる、か・・・・・。)
一度だけ桜を振り返る。寂しげに、悲しげに佇む桜。はらはらと花弁が舞い落ちていく。
そして、俺達はその場を後にした。
写真を依頼人に渡したその帰り。あの公園で、俺達は桜を眺めていた。昨日よりも散る数が増えている気がする。
子供達はやはり楽しそうに、舞い散る花弁を一生懸命に追っている。
力いっぱい掴もうとすればするほど、捉えにくくなると気づいていない。
桜は、もうそろそろ終わりを告げるだろう。それまでに、この相棒はどれだけ桜を見るつもりなのだろうか。
今も楽しそうに、嬉しそうに、桜を眺めていた。
何を言っても無駄だ、と判断して、俺もおとなしく桜を観賞する。
風に吹かれてただ地面へと向かうだけの舞を舞う薄紅色の花弁。目の前で舞い始めた一枚をそっと手で掴んだ。
今は盛りといわんばかりに咲き、そして散っていく桜花。また次の春を迎えたときへの、再会を願いながら、手を開いた。掌から飛び立ったたった一枚の花弁は、風と共に舞い始めた。
―終―
部誌に載せた話です。
ちょこっとだけ変えましたが、多分気づかれない程度です。
今UPすると物凄く季節はずれ・・・・・。
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