――<願いを書いた手紙を桜の木の根元に埋めると、『守り神の部屋』への扉が現れて、守り神が願いを叶える手助けをしてくれる>――

 その噂は、全国的に有名とはいえないものの、地元での評判は上々な私立学校、森神学園に広まる噂だった。入学してまだ一月ほどの俺の耳にも入ってくる程に有名な噂だ。いや、俺の場合、身近な人間がそういう事に異様に詳しいので、そのせいなのかもしれない。幼馴染のサエは、今もその噂について淡々と語っていた。
「桜の木といっても、どこでもいいわけではないらしいよ。特定の木があるんだってさ。桜はほとんど校門とか目に付きやすいところに配置されてるんだけど、裏手に一本だけぽつんと桜があるらしい。その桜が、正解だそうだ」
 幼馴染はいつものように笑顔で、そしていつものように声には抑揚がなかった。昔からそうなのだ。大体笑っているくせに、声はいつでも淡々としている。それだけでも十分に変人と呼べると思うのだが、更に怪談や都市伝説なんてものに興味を持っているので、ますます磨きがかかってしまっている。悪い奴ではないのだけれど、小学校までは敬遠されがちだった。どういうわけか、この中学校に上がってからはそれ程避けられてはいない、というより、むしろ馴染んでいる。
「ユウシ、実際にやってみたらどうかな? 扉は中高共同の『架け橋館』に出現するそうだよ」
「……別に、願い事なんてないしな……」
「それじゃ、いつか願いができたらやってみてよ」
「自分でやれよ」
 軽くサエの頭を叩いて時計を見上げた。そろそろ始業のチャイムが鳴るだろう。そう思うと少し憂鬱になる。けれどそれは、いつも通りの日常の一部だった。
 この時までは、何の変化もない日常だったのだ。



 始業のベルが鳴って暫くしても、担任の葛木先生は来なかった。いつもは時間に遅れるような事はまずない。
「先生休みなのかな」
「だったら、他の先生が変わりに来るんじゃないの?」
「あ、そっか」
 教室中でざわざわとそんな言葉が交わされていく。少しばかりうるさいと思ったものの、先生が気がかりなのは俺も同じだった。
「――お前達、何を騒いでるんだ?」
 少し怒鳴るようにして顔を覗かせたのは、隣のクラスの担任の青沢先生。いかにも体育会系で少々気が短いところがある。見るからに細身で常に温和な葛城先生とはとことん対照的な人だが、わりと仲はいいらしい。
「あ、青沢センセー。葛木センセーが来なくって……今日、休みなんですか?」
 廊下側の席、一番前の席の女子がそう言うと、青沢先生は形容しがたい表情になった。それほど関わりの深い先生ではないので、それがどんな感情を表現しようとしたものなのかはわからない。
「……いや、朝、職員会議の時にはいたぞ。何か職員室に忘れ物でもしたんじゃないか? 仕方のない奴だな」
 青沢先生はそう言うが、それにしても遅すぎる。その時、廊下から甲高い悲鳴が響いてきた。教室は一瞬だけ静まり、すぐに先程よりも騒がしくなる。そしてそれは、ここだけの話ではないようだった。
 青沢先生は眉をひそめ、廊下に出て行った。生徒の内の何人かもそれを追う。そして俺とサエも、その『何人か』の一員だった。
「こら、お前達……!」
 先生の説教が聞こえていないふりをして、悲鳴の方に駆けていく。まず見えたのは、非常勤の唐川先生が座り込んでいる姿。そしてその視線の先を見て、思わず足が止まった。我が目を疑うような光景だった。
「……先生……?」
 誰かがポツリと呟いた。頭から血を流して倒れていたのは、何度見直しても担任の葛木先生だった。青沢先生も呆然としている中、サエが桂木先生に駆け寄った。首に指を当てて、頷いている。
「……誰でもいいから、一一九番に電話を。八重子先生を呼んできて下さい。手当てをしないと」
「手当て?」
「怪我をしている人がいたら手当てをするものだろう? 大丈夫か?」
 サエは相変わらず淡々と言った。その声で、ようやく頭が回り始める。俺はてっきり、葛木先生が死んでしまったのかと思っていた。我ながら、縁起でもない事を考えたものだ。
「それなら、担架で運んだ方が……」
「頭を怪我してるから、変に動かさない方がいいと思う。だから救急車を呼んで、その間に八重子先生に来てもらって処置してもらおう。あんまり出血すると危ないかもしれないし」
 冷静なサエのおかげで理性を取り戻したのか、青沢先生達が動き始めた。
「先生、大丈夫?」
「先生……!」
 クラスメイト達は先生に声をかけている。こういう時は呼びかけって有効なのだろうか。わからないけれどとりあえず悪影響という事はないだろう、多分。
「先生、しっかり……」
 肩を揺すったりしたら流石にまずそうなので、とりあえず顔を覗き込んで声をかける。いつもより遥かに白い顔は、見ていて不安になる。
 そうしている間に、唐川先生が八重子先生を連れてきた。八重子先生は救急箱のような物を持っている。
「後は先生達でやるから、あなた達はクラスに戻ってて」
「でも……」
 何か言おうとしたが、結局何も言えなかった。サエが八重子先生をまっすぐ見る。
「葛木先生をよろしくお願いします」
 そう言ってぺこりと頭を下げた。俺やクラスメイトもそれに続く。
 ここにいても、俺達には何もできない。沈んだ気持ちで、教室に戻った。



 それからは大変だった。先生が誰かに殴られたらしい事がわかって、それが学校中に広まって。命に別状はないという知らせを聞くまで、クラスメイト達はいつものような活気など欠片もなかった。それは俺も同じ事だったけれど。
「葛木先生を襲った不審者が学園内にいるかもしれないので、気をつけるように」
 その言葉に、教室が騒然とする。俺は少し、引っかかるものを感じていた。
 こんな状況では普段通りに過ごすわけにもいかないので、授業は午前で切り上げられる事になった。なるべく人の少ないところは通らないように、とか、できるだけ何人かでまとまって帰るように、とかそういった説明を受けて、帰り支度をする。
「……なあ、サエ。先生を襲ったのって、不審者なのかな」
「さぁ、そんなのはわからないな。ただ、身内を疑いたくないんだろう。先生が目を覚ませば何かわかるかもしれない。私達が今ここで話していたって仕方ないよ」
「……ま、そうだな」
 サエの言う事は尤もなので、頷くしかない。とにかく、先生は生きているのだから、それだけでいいと思おう。
 自分に言い聞かせて、鞄を肩にかけた。



 昨日の事で憂鬱になりながら、始業のチャイムを待つ。チャイムが鳴った時、教室に入ってきたのは唐川先生だった。何だか少し嬉しそうな顔をしている。
「まず、今朝病院から、葛木先生が目を覚ましたという連絡がありました」
 その言葉に、心からほっとした。唐川先生が続ける。
「暫くは入院が必要ですが、病院に迷惑をかけない範囲で、お見舞いには行けるそうです。詳しい決まり事は、帰りの会で伝えますね」
 それから、他の伝達事項を告げた。ただ、そっちは俺にとっては割りとどうでもいいことだった。多分、ほとんどのクラスメイトにとってもそうだっただろう。



「先生は、殴られる前の事はよく覚えていないそうだよ」
 登校するなり、サエが告げた。何故突然、と思ってから、そういえばサエは昨日お見舞いに行ったのだと思い出した。
「……誰に殴られたのかって聞いたのか?」
「『先生を殴った奴を殴りに行くので教えてください』と頼んだだけだよ」
 それは、覚えていたとしても、覚えていないと言うしかないような気がする。
「一緒に行った生徒からは共感してもらえたんだけど」
「そりゃそうだろうけど……」
 サエは、いつものように笑みを浮かべていた。
「……私はね、怒っているんだよ」
 告げる声も、いつものように淡々としている。しかし、だからこそ、というべきか、妙な迫力に満ちていた。
「本気で言ったんだよ、殴りに行きたいと。今でも思ってる。殴りたい」
「……俺だってそうだよ」
 そう、俺だって、いつも通り平静ってわけじゃない。決して、いつも通りなんかじゃない。いつも通りにしか見えない幼馴染とて、そうなのだ。
「それでも、できる事は限られている。一人の人間……いや、中学生が何かしようとしたところで、高が知れている」
 笑みを浮かべたままで、サエは目を細めた。その言葉に、俺は現実を改めて思い知らされたような気分になった。
 そう、大人だって一人でできる事はさほどない。一人前と見なされる事のない中学生など、その狭い範囲がもっと狭められているのだ。あまりに無力で非力だ。
 小学生だった頃は、中学生はあんなに大人に思えたのに。
 四月に門をくぐった時は、まだ希望を抱いていたのに。
 入学したばかりの頃、まだ咲き誇っていた桜は今では花をつけていた姿を思い出す事が難しい。桜の木を窓から見下ろして、ため息をついた。
「……望むだけでは世界は動かない、か」
 サエの言葉が、何だか悲しかった。桜を暫く見つめて、ふと思い出した。
「……なあ、サエ。試してみないか?」
「何を?」
「噂を」
 言ってから、これでは伝わらないかもしれないと思った。だがサエは、笑みを深くした。
「いいね、このままよりは、ずっといいよ」
 このまま、何もできないよりは、少しでも、無駄でも、動いていたかった。



 サエに何度かダメ出しをくらったものの、ようやく手紙が書けた。それをそっと裏手の方にある桜の木の根元に埋めた。人に見つからないようにするのが少し緊張した。別に見られたら効力がなくなるとかそういう話があるわけではなかったけれど、何となく知られない方がいい事のように思えた。
「……で、『架け橋館』に行くんだっけか」
「そうだよ。行こう」
 途中で一応手を洗って、『架け橋館』の前に立った。サエに続いて中に足を踏み入れながら、ぼんやりと思う。どうして自分は、こんな事をしているんだろう。言い出したのは確かに自分だけれど、これでどうにかなるような気にはなれなかった。それでも、他に縋るものがあるわけでもない。
 黙って歩きながら、そういえば『架け橋館』に入った事があまりなかったな、と思った。中高共同なので、当然高校生もいる。それで何となく気が引けてしまっていたのだった。そういえば、高校生の先輩に色々と聞いてみるといい、と誰かが言っていた。それが誰だったか、と思い出して、後悔した。それは、葛木先生に言われた事だった。他にも、色々な事を教えてもらった。それは先生が担任だから当然だったのかもしれない。だったら俺はその当然に感謝しよう。
「……葛木先生……」
 先生なら、こういう時はどうするのだろう。どう言ってくれるのだろう。こんな状態にならなければ、こんな事は考えなかったのかもしれない。
「え……?」
 サエの声で、顔を上げた。その視線の先にあったのは、扉だった。他の部分との違いは明白だった。普通の教室に使われているような引き戸じゃなく、扉だったのだ。シンプルな印象がする。そしてそれ以上に、何だか不思議な感じがした。
 気が付くと、手を伸ばしていた。ノブを掴む手に、サエの手が重なる。別にどきりとはしなかった。ただ驚きはした。
「行こう」
 サエはどこまでも淡々としていた。ノブを回して、扉を引いた。その途端に、白い光に包まれた。反射的に目を閉じる。


「いらっしゃい」


 柔らかな声。目を開けると、そこには一人の少女がいた。



<続>




長くなるのでつづきます。