授業が終わり、ホームルームで簡単な知らせを聞いて、別れの挨拶をする。今日は掃除当番ではないので鞄を抱えて真っ直ぐに図書室を目指した。本を返して、新しく本を借りる。帰宅部の私はこれ以上学校にいる必要はない。
今日は真っ直ぐに家に帰ろうか、という時に、思い出してしまった。レターセットを昨日で使い切ってしまったから、新しいのを買わなくては。
ため息をついて、財布の中身を確認した。レターセットを買うには十分な金額が入っている。
思い出さなければ、買わずに終わっていたかもしれない。それでも私は思い出してしまっていて、そうなったら買わないわけにはいかなかった。もう一度ため息をついて、だらだらと昇降口へと向かった。
家の近所にある、いつもの文房具屋で、いつも通りごくシンプルなレターセットを買う。たまには違う物にしようと思うのだけど、いつも思うだけで終わってしまっている。こういう物は相手の趣味に合わせるべき物なのだろうが、相手の趣味を知らない。変な物よりはシンプルな方がいいだろうと思っていた。それは結局ただの言い訳でしかない事は、私自身がよくわかっていた。
月に三回は来て、毎回同じものを買うからか、店員にはすっかり顔を覚えられている。たまに話しかけられる事もあるが、私はまともに返答できた覚えがない。
「文通、続いているんだね」
そんな事を言いながらレジを打つ店員に、「ええ、まあ」と短く答えた。他に何と言えばいいのかわからなかったし、いつもこの調子の私にこの店員もそれ以上を期待してはいないだろう。
「……ありがとうございましたー」
店員の声に送り出されるように店を出て、軽いビニール袋を軽く振り回すようにして歩く。傾いてきた陽が眩しい。思わず漏れたため息は、夕陽のせいではなかったけれど。
ただいま、と声をかけて自室に戻る。鞄を置いて制服から着替えて、レターセットを手に机に向かった。中学生の時、技術の時間に作った小さく無骨なポストが机の上に置いてある。変色してきてしまったから塗り直した方がいいかもしれない。ポストとしては小さいけれど机の上に置くにはかなり邪魔な大きさの物だったが、床に置いておくと誤って蹴り倒しそうで怖かった。ポストを少しだけずらして、便箋を広げた。
ペン立てにはそれなりに色鮮やかなペンが並んでいたけれど、その中から引き抜くのは決まって書き心地のいい黒のボールペンだった。くるりとペンを回して、手紙の内容を考える。この作業がなかなか時間のかかるものだった。書き出しの言葉にさえ、いつも悩み迷ってしまう。
とりあえず、と一行目に『お兄ちゃんへ』と書いた。書いてから、今度こそ『親愛なる』だとか『Dear』だとか、そういった言葉をつけようと思っていた事を思い出した。書いてしまってから思い出すくらいなら、いっその事ずっと思い出さなければいいのに。ため息をついて、書いてしまった文字列を眺める。無理にくっつけるのは不恰好だし、修正液を使うのも何となく気が引ける。次に気を付ければいいか、と結論付けて、また内容を考える。
ああでもない、こうでもないと考えている内に扉がノックされて、夕飯ができたと知らせる声が聞こえてきた。
甘く焼いた卵焼き、唐揚げ、サラダ、味噌汁。統制がとれているのかどうかわからないおかずに手をつける。
「唐揚げばかり食べちゃ駄目でしょ」
「んー……」
窘められて、卵焼きに箸を伸ばした。私はあまり甘い卵焼きが好きではない。嫌いとまではいないが、出汁入りの方が好みだ。それでもそれを口に出して伝えた事はほとんどない。
「卵焼き、美味しい?」
母が問いに、笑顔を作った。
「うん、美味しいよ」
焼き加減だとかは別に悪くないのだと思う。私がただ個人的に好きではないだけで、多分甘い卵焼きが好きな人物だったら美味しいと言える代物なのだろう。そう、きっと兄なら、こう言った筈だ。
「そう、よかった」
微笑む母が目線を別のところにやる。私もそれを追うように視線を動かして、箸を突き刺した白米の入ったお茶碗を眺めた。
風呂に入って、歯を磨いて、自室に戻ってきた。机の上に便箋が置きっ放しになっている。改めて机に向き直った。ペンも手にせず、机上を見つめる。
兄が亡くなってから、三年の月日が経った。
私と兄は三つ離れていたから、私は兄の年齢に追いついた事になる。三年前は三つ年上の兄がとても大人びて見えていたけれど、同じ年齢になってみるとまだまだ大人には遠いのだとわかる。あれはただ単に私が今よりずっと幼かっただけなのだ。
比較的仲の良い兄妹ではあったのだと思う。喧嘩をした覚えはあまりない。あのおとなしい兄は、他の誰かとでも喧嘩になる事は滅多になかったけれど、一緒に遊んでいたような記憶もあるから、きっとそこそこ仲は良かったのだ。そんな事を思い出しただけで胸が痛くなる程度には、私は兄を好きだったのだろう。
三年というのは記憶がおぼろげになる程度には長く、痛みが抜け落ちない程度には短い。
『お兄ちゃんへ』としか書かれていない便箋をぼんやりと眺める。今もきっと兄が生きていたら、『お兄ちゃん』なんて呼んでいなかったかもしれない。『兄さん』だとか、もしかしたら『兄貴』なんて呼んでいたかもしれない。考えても仕方のないような、仮定の話。
ペンを手にとって、また何を書こうかと悩み始める。結局、いつもと同じでいいかという結論に落ち着いて、ペンのキャップを外した。
『お元気ですか? 私は元気です。』といういつもの書き出しの後に、今日学校であった事や夕食に卵焼きが出たというような事を書く。何でもないような日常の出来事ばかりを連ねて、『それでは、お元気で。』といつも通りに文章を終わらせる。
なるべく丁寧にたたんだ便箋を宛先と宛名を書いた封筒に入れて、糊できちんと止めた。切手は貼らずに、そのまま机上のポストに入れる。音が遠かったから、まだそれ程手紙は溜まっていないだろう。
伸びをして電気を消し、ベッドに入る。目を閉じてもすぐに眠気が訪れる事はない。ぼんやりと考えるのは、奇妙な習慣の事。
兄に手紙を書いている事は、誰にも言っていない。三年前から続いている、私だけの秘密だった。
書き始めた時はどうしようもないくらい悲しく寂しい気持ちを紛らわせようとしていたのだと思う。けれど今はどうなのだろう。惰性で続けているだけのような気もする。それならばいっそこんな習慣はやめた方がいいのかもしれないが、ふんぎりがつかない。レターセットを買うのを忘れてしまえば、それを言い訳にやめられるのかもしれない。
そんな事をぐるぐると考えている内に、眠気が燻ってきた。
ただいま、と声をかけて自室に戻って、鞄を置いて着替える。机の引き出しを開けたところで、思い出した。
そういえば昨日レターセットを使い切ってしまったのだった。
空っぽの引き出しを見て、ぼんやりと考える。忘れてしまったのは、もういない兄に手紙を書くのをやめたいという意識の現われなのかもしれない。それならば、もうやめた方がいいのだろうか。
意味を見出せない習慣などやめてしまえ、と声が聞こえた気がした。それは尤もだと思う。思う、けれど。
鞄から財布を取り出して、ポケットに突っ込む。あの文房具屋は何時までやっていただろうか。窓の外を見る限り、まだ日は暮れていないようだ。きっとまだ開いているだろう。
部屋の扉を乱暴に開けて乱暴に閉めて、廊下を走る。
「ちょっといってきます」
いってらっしゃい、の声を聞く前に、玄関の扉を開けた。
夕陽に染められた道を、軽いビニール袋を手に歩いた。今日はいつもと違う物にしようかと思ったけれど、私が買ったのは、結局いつもと同じごくシンプルなレターセットだった。
おわり
サークルの提出用に書くような話を目指して。いつもはもっとホラーっぽいのを書くんですが、ノリはこんな感じです。
今日は真っ直ぐに家に帰ろうか、という時に、思い出してしまった。レターセットを昨日で使い切ってしまったから、新しいのを買わなくては。
ため息をついて、財布の中身を確認した。レターセットを買うには十分な金額が入っている。
思い出さなければ、買わずに終わっていたかもしれない。それでも私は思い出してしまっていて、そうなったら買わないわけにはいかなかった。もう一度ため息をついて、だらだらと昇降口へと向かった。
家の近所にある、いつもの文房具屋で、いつも通りごくシンプルなレターセットを買う。たまには違う物にしようと思うのだけど、いつも思うだけで終わってしまっている。こういう物は相手の趣味に合わせるべき物なのだろうが、相手の趣味を知らない。変な物よりはシンプルな方がいいだろうと思っていた。それは結局ただの言い訳でしかない事は、私自身がよくわかっていた。
月に三回は来て、毎回同じものを買うからか、店員にはすっかり顔を覚えられている。たまに話しかけられる事もあるが、私はまともに返答できた覚えがない。
「文通、続いているんだね」
そんな事を言いながらレジを打つ店員に、「ええ、まあ」と短く答えた。他に何と言えばいいのかわからなかったし、いつもこの調子の私にこの店員もそれ以上を期待してはいないだろう。
「……ありがとうございましたー」
店員の声に送り出されるように店を出て、軽いビニール袋を軽く振り回すようにして歩く。傾いてきた陽が眩しい。思わず漏れたため息は、夕陽のせいではなかったけれど。
ただいま、と声をかけて自室に戻る。鞄を置いて制服から着替えて、レターセットを手に机に向かった。中学生の時、技術の時間に作った小さく無骨なポストが机の上に置いてある。変色してきてしまったから塗り直した方がいいかもしれない。ポストとしては小さいけれど机の上に置くにはかなり邪魔な大きさの物だったが、床に置いておくと誤って蹴り倒しそうで怖かった。ポストを少しだけずらして、便箋を広げた。
ペン立てにはそれなりに色鮮やかなペンが並んでいたけれど、その中から引き抜くのは決まって書き心地のいい黒のボールペンだった。くるりとペンを回して、手紙の内容を考える。この作業がなかなか時間のかかるものだった。書き出しの言葉にさえ、いつも悩み迷ってしまう。
とりあえず、と一行目に『お兄ちゃんへ』と書いた。書いてから、今度こそ『親愛なる』だとか『Dear』だとか、そういった言葉をつけようと思っていた事を思い出した。書いてしまってから思い出すくらいなら、いっその事ずっと思い出さなければいいのに。ため息をついて、書いてしまった文字列を眺める。無理にくっつけるのは不恰好だし、修正液を使うのも何となく気が引ける。次に気を付ければいいか、と結論付けて、また内容を考える。
ああでもない、こうでもないと考えている内に扉がノックされて、夕飯ができたと知らせる声が聞こえてきた。
甘く焼いた卵焼き、唐揚げ、サラダ、味噌汁。統制がとれているのかどうかわからないおかずに手をつける。
「唐揚げばかり食べちゃ駄目でしょ」
「んー……」
窘められて、卵焼きに箸を伸ばした。私はあまり甘い卵焼きが好きではない。嫌いとまではいないが、出汁入りの方が好みだ。それでもそれを口に出して伝えた事はほとんどない。
「卵焼き、美味しい?」
母が問いに、笑顔を作った。
「うん、美味しいよ」
焼き加減だとかは別に悪くないのだと思う。私がただ個人的に好きではないだけで、多分甘い卵焼きが好きな人物だったら美味しいと言える代物なのだろう。そう、きっと兄なら、こう言った筈だ。
「そう、よかった」
微笑む母が目線を別のところにやる。私もそれを追うように視線を動かして、箸を突き刺した白米の入ったお茶碗を眺めた。
風呂に入って、歯を磨いて、自室に戻ってきた。机の上に便箋が置きっ放しになっている。改めて机に向き直った。ペンも手にせず、机上を見つめる。
兄が亡くなってから、三年の月日が経った。
私と兄は三つ離れていたから、私は兄の年齢に追いついた事になる。三年前は三つ年上の兄がとても大人びて見えていたけれど、同じ年齢になってみるとまだまだ大人には遠いのだとわかる。あれはただ単に私が今よりずっと幼かっただけなのだ。
比較的仲の良い兄妹ではあったのだと思う。喧嘩をした覚えはあまりない。あのおとなしい兄は、他の誰かとでも喧嘩になる事は滅多になかったけれど、一緒に遊んでいたような記憶もあるから、きっとそこそこ仲は良かったのだ。そんな事を思い出しただけで胸が痛くなる程度には、私は兄を好きだったのだろう。
三年というのは記憶がおぼろげになる程度には長く、痛みが抜け落ちない程度には短い。
『お兄ちゃんへ』としか書かれていない便箋をぼんやりと眺める。今もきっと兄が生きていたら、『お兄ちゃん』なんて呼んでいなかったかもしれない。『兄さん』だとか、もしかしたら『兄貴』なんて呼んでいたかもしれない。考えても仕方のないような、仮定の話。
ペンを手にとって、また何を書こうかと悩み始める。結局、いつもと同じでいいかという結論に落ち着いて、ペンのキャップを外した。
『お元気ですか? 私は元気です。』といういつもの書き出しの後に、今日学校であった事や夕食に卵焼きが出たというような事を書く。何でもないような日常の出来事ばかりを連ねて、『それでは、お元気で。』といつも通りに文章を終わらせる。
なるべく丁寧にたたんだ便箋を宛先と宛名を書いた封筒に入れて、糊できちんと止めた。切手は貼らずに、そのまま机上のポストに入れる。音が遠かったから、まだそれ程手紙は溜まっていないだろう。
伸びをして電気を消し、ベッドに入る。目を閉じてもすぐに眠気が訪れる事はない。ぼんやりと考えるのは、奇妙な習慣の事。
兄に手紙を書いている事は、誰にも言っていない。三年前から続いている、私だけの秘密だった。
書き始めた時はどうしようもないくらい悲しく寂しい気持ちを紛らわせようとしていたのだと思う。けれど今はどうなのだろう。惰性で続けているだけのような気もする。それならばいっそこんな習慣はやめた方がいいのかもしれないが、ふんぎりがつかない。レターセットを買うのを忘れてしまえば、それを言い訳にやめられるのかもしれない。
そんな事をぐるぐると考えている内に、眠気が燻ってきた。
ただいま、と声をかけて自室に戻って、鞄を置いて着替える。机の引き出しを開けたところで、思い出した。
そういえば昨日レターセットを使い切ってしまったのだった。
空っぽの引き出しを見て、ぼんやりと考える。忘れてしまったのは、もういない兄に手紙を書くのをやめたいという意識の現われなのかもしれない。それならば、もうやめた方がいいのだろうか。
意味を見出せない習慣などやめてしまえ、と声が聞こえた気がした。それは尤もだと思う。思う、けれど。
鞄から財布を取り出して、ポケットに突っ込む。あの文房具屋は何時までやっていただろうか。窓の外を見る限り、まだ日は暮れていないようだ。きっとまだ開いているだろう。
部屋の扉を乱暴に開けて乱暴に閉めて、廊下を走る。
「ちょっといってきます」
いってらっしゃい、の声を聞く前に、玄関の扉を開けた。
夕陽に染められた道を、軽いビニール袋を手に歩いた。今日はいつもと違う物にしようかと思ったけれど、私が買ったのは、結局いつもと同じごくシンプルなレターセットだった。
おわり
サークルの提出用に書くような話を目指して。いつもはもっとホラーっぽいのを書くんですが、ノリはこんな感じです。
目当ての本が既に借りられていた。ぶつけどころのない怒りを抱きながら図書館を後にする。そんな時に、のんびりとした声がかけられた。
「あ、リィン。丁度よかった」
振り向いた先にいる友人は相変わらず無駄に見た目麗しく、無駄に美声だった。
「何の用だ?」
「神様達から贈り物があったんだけど、リィン宛に本があるんだ。手が空いてるなら、ちょっと取りに来て」
「……何故突然?」
「手紙も受け取ってるから、そっちに書いてあるんじゃないかな」
理由はわからないが、とりあえず行く価値はありそうだ。広間に出ると、『贈り物』が見えた。装飾品や奇妙な像、何に使うのかよくわからない道具もある中に、見慣れない箱があった。何故か箱の上に手紙が貼り付けてある。イルがその箱を白い指で示した。
「これがリィン宛の荷物だよ。重くて俺じゃちょっと持ち上げられないんだけど」
箱に触れてみると、紙に似た手触りがした。木箱ではないのは確かだろう。箱にはでかでかと『本』と記されていた。一抱えほどの箱を持ち上げてみると、確かにイルには厳しいであろう重さだった。但し全く鍛えていない一般人と比べても遥かに脆弱なイルには厳しい、程度のものなので、俺には大して苦にならない。
「部屋に行かないの? 逆だよね」
「部屋は清浄中で入れない」
「珍しいね。旅に出る前とか図書館に行く前とかにやるのに」
清浄は手間はさほどかからないが、時間がかかる。とはいえ、定期的に清浄しないと虫が寄り付きかねない。
「図書館で長居する予定だったが、予定が変わったからな。ま、今の時間なら休憩所が空いてるだろう。そこでいい。どうせお前も見るんだろう?」
「うん、見たい」
「……そういえば平然とついてきているが、あの『贈り物』は放置でいいのか?」
一応こいつは神殿の最高責任者とかそういう立場だった気がする。そんな友人は迷う事なく首肯した。
「スノウさんから『像とか重いからイルは触っちゃ駄目だよ』って言われて」
「像に関してはお前は戦力外だから仕方がないな。存在するだけ邪魔だ」
非力な上に怪我をしたら周りが困り果てる羽目になる人間だ。そんな奴には危なっかしくて触らせたくはないだろう。というか、こいつに何かあったら俺に面倒事が回ってきそうで嫌だ。
「そこまで言わなくても……で、ジャスさんから『手を挟むと危ないから道具には触れるなよ』って念押しされて」
「お前はやりそうだな」
「そんなに不器用じゃないよ。それで、シリウスさんから『装飾品の中にはジャスが用意したのもあるから念の為に触らないように』って注意された」
「あの神達の信頼関係がわからないな」
「ジャスさんならきっと何かをしているだろうっていう期待がこめられてるんじゃないかな」
それを『期待』と表現できる程度には、こいつの頭の中は平和のようだ。
「だから、俺が触っちゃ駄目って言われてないのってリィンの荷物だけなんだよ。まあ、重くて持ち上がらなかったけど」
「見張りでもしたらどうだ?」
「ブライトから、『慣れてない連中が緊張するのでじっと見つめるのはやめてやってください』って言われた。俺ってそんなに怖いかな」
怖いとはまた違うような気もするが、とりあえず放っておこう。そうしたところで俺に害はない。
狙い通り利用者の少ない休憩所の適当な机に箱を下ろして、手紙を剥がした。封を破って、一枚だけ入っている便箋を取り出す。文面には、たったの一行。
「『イルがいつもお世話になっているお礼です』、だそうだ」
「え? そうなの? それじゃ、いつもお世話してくれてありがとう、リィン」
「世話をした覚えはあまりないが……貰える物は貰っておくか」
変な物なら送り返すところだが。箱を開けると、中には確かに本が入っていた。見覚えのない文字が表紙に綴られている。だが、その意味は理解できた。
「言語を解する力というのは、異世界の文字にも通用するのか」
「異世界の人と話もできるんだし、文字にも対応してるんじゃないかな」
曖昧な発言だが、いいのだろうか。一応こいつにつけられた能力なのだが、その当人がわかっていないというのはどうなのだろう。考えても仕方がないか。
気を取り直し、箱の中身に目をやる。見た目も、題名から予想しうる内容もバラバラだった。
「何を基準に選ばれた本なんだ?」
「レイト君とかリュースイ君が読まなくなった本らしいよ。新しく買おうかと思ったらしいけど、リィンがどんな本が好きかわからないから、とりあえず適当に送りつけようって事らしいけど」
色々と言いたい事はあったが、イルに言ってもどうしようもない事なのは確かで、そんな行動をいちいち取るほど時間を持て余してはいない。上の方に乗っていた本を一冊掴んだ。イルがひょこりと覗き込んできた。
「『よくわかる錬金術』……レンキンジュツ? どんなものなんだろ」
「これを読んだらわかるんじゃないのか? 『よくわかる』などと言っているんだ」
「あ、それもそうか。それにしても色々あるなぁ。……あ、『世界史』だって。レイト君達の世界の歴史が載ってるのかな」
「だろうな」
イルが示した本を見ながら適当に返す。世界の歴史を纏めた割には、本の厚さはそれほどでもないように見える。
「うちの世界でもそういうの作る? 多分神殿の記録とか繋いでいけばできると思うけど」
「確か、創られて以来、ずっと神殿が中心にいるって話だったな。ならそれで作れるだろうが……面白みのない世界だ」
「だから他の世界がどんな風なのか、結構気になるんだよ」
「それなら、お前はそれ読んでろ。俺は……これでも読むか」
イルが興味を持った本の下に隠れていた本。一部だけ見えた題名に、何となく気が引かれた。『殺人事件』なんて単語が含まれるとは、なかなか穏やかでない本だ。手にとって、右側に背表紙がある事に気付く。
「これは縦書きなのか、珍しいな」
「レイト君の国だと縦書きの本が多いらしいよ。って、うわぁ、何か物騒な本読むね」
「実際に起こった事件でも集めたのかもな」
「それは怖い……あれ、後ろになんか書いてあるよ?」
「あ?」
本をひっくり返すと、確かに数行文章が続いていた。それに目を通して、肩をすくめた。
「何だ、推理小説か」
「推理小説って……ああ、人が死んだりする物語だっけ」
「端的に言えばな。しかし、率直な題名だな」
こんな題名をした推理小説は見た事がない。やはり世界が違えば決まり事も違うのだろう。
推理小説は特別好きなわけではないが、嫌いでもない。本を開いて文字を目で追い始めた。
一冊目を読み終えた頃、イルが首を傾げた。
「そういえば、俺が見たいって言ってもリィン嫌がらなかったね」
「ああ、お前は人避けになるからな」
「うわ、リィン酷い!」
ついでにこいつならば本を乱暴に扱う事もないと思っての事でもあるのだが、それは言わないでもいいだろう。
そんな事を考えながら、二冊目に手を伸ばした。
<おわり>
「あ、リィン。丁度よかった」
振り向いた先にいる友人は相変わらず無駄に見た目麗しく、無駄に美声だった。
「何の用だ?」
「神様達から贈り物があったんだけど、リィン宛に本があるんだ。手が空いてるなら、ちょっと取りに来て」
「……何故突然?」
「手紙も受け取ってるから、そっちに書いてあるんじゃないかな」
理由はわからないが、とりあえず行く価値はありそうだ。広間に出ると、『贈り物』が見えた。装飾品や奇妙な像、何に使うのかよくわからない道具もある中に、見慣れない箱があった。何故か箱の上に手紙が貼り付けてある。イルがその箱を白い指で示した。
「これがリィン宛の荷物だよ。重くて俺じゃちょっと持ち上げられないんだけど」
箱に触れてみると、紙に似た手触りがした。木箱ではないのは確かだろう。箱にはでかでかと『本』と記されていた。一抱えほどの箱を持ち上げてみると、確かにイルには厳しいであろう重さだった。但し全く鍛えていない一般人と比べても遥かに脆弱なイルには厳しい、程度のものなので、俺には大して苦にならない。
「部屋に行かないの? 逆だよね」
「部屋は清浄中で入れない」
「珍しいね。旅に出る前とか図書館に行く前とかにやるのに」
清浄は手間はさほどかからないが、時間がかかる。とはいえ、定期的に清浄しないと虫が寄り付きかねない。
「図書館で長居する予定だったが、予定が変わったからな。ま、今の時間なら休憩所が空いてるだろう。そこでいい。どうせお前も見るんだろう?」
「うん、見たい」
「……そういえば平然とついてきているが、あの『贈り物』は放置でいいのか?」
一応こいつは神殿の最高責任者とかそういう立場だった気がする。そんな友人は迷う事なく首肯した。
「スノウさんから『像とか重いからイルは触っちゃ駄目だよ』って言われて」
「像に関してはお前は戦力外だから仕方がないな。存在するだけ邪魔だ」
非力な上に怪我をしたら周りが困り果てる羽目になる人間だ。そんな奴には危なっかしくて触らせたくはないだろう。というか、こいつに何かあったら俺に面倒事が回ってきそうで嫌だ。
「そこまで言わなくても……で、ジャスさんから『手を挟むと危ないから道具には触れるなよ』って念押しされて」
「お前はやりそうだな」
「そんなに不器用じゃないよ。それで、シリウスさんから『装飾品の中にはジャスが用意したのもあるから念の為に触らないように』って注意された」
「あの神達の信頼関係がわからないな」
「ジャスさんならきっと何かをしているだろうっていう期待がこめられてるんじゃないかな」
それを『期待』と表現できる程度には、こいつの頭の中は平和のようだ。
「だから、俺が触っちゃ駄目って言われてないのってリィンの荷物だけなんだよ。まあ、重くて持ち上がらなかったけど」
「見張りでもしたらどうだ?」
「ブライトから、『慣れてない連中が緊張するのでじっと見つめるのはやめてやってください』って言われた。俺ってそんなに怖いかな」
怖いとはまた違うような気もするが、とりあえず放っておこう。そうしたところで俺に害はない。
狙い通り利用者の少ない休憩所の適当な机に箱を下ろして、手紙を剥がした。封を破って、一枚だけ入っている便箋を取り出す。文面には、たったの一行。
「『イルがいつもお世話になっているお礼です』、だそうだ」
「え? そうなの? それじゃ、いつもお世話してくれてありがとう、リィン」
「世話をした覚えはあまりないが……貰える物は貰っておくか」
変な物なら送り返すところだが。箱を開けると、中には確かに本が入っていた。見覚えのない文字が表紙に綴られている。だが、その意味は理解できた。
「言語を解する力というのは、異世界の文字にも通用するのか」
「異世界の人と話もできるんだし、文字にも対応してるんじゃないかな」
曖昧な発言だが、いいのだろうか。一応こいつにつけられた能力なのだが、その当人がわかっていないというのはどうなのだろう。考えても仕方がないか。
気を取り直し、箱の中身に目をやる。見た目も、題名から予想しうる内容もバラバラだった。
「何を基準に選ばれた本なんだ?」
「レイト君とかリュースイ君が読まなくなった本らしいよ。新しく買おうかと思ったらしいけど、リィンがどんな本が好きかわからないから、とりあえず適当に送りつけようって事らしいけど」
色々と言いたい事はあったが、イルに言ってもどうしようもない事なのは確かで、そんな行動をいちいち取るほど時間を持て余してはいない。上の方に乗っていた本を一冊掴んだ。イルがひょこりと覗き込んできた。
「『よくわかる錬金術』……レンキンジュツ? どんなものなんだろ」
「これを読んだらわかるんじゃないのか? 『よくわかる』などと言っているんだ」
「あ、それもそうか。それにしても色々あるなぁ。……あ、『世界史』だって。レイト君達の世界の歴史が載ってるのかな」
「だろうな」
イルが示した本を見ながら適当に返す。世界の歴史を纏めた割には、本の厚さはそれほどでもないように見える。
「うちの世界でもそういうの作る? 多分神殿の記録とか繋いでいけばできると思うけど」
「確か、創られて以来、ずっと神殿が中心にいるって話だったな。ならそれで作れるだろうが……面白みのない世界だ」
「だから他の世界がどんな風なのか、結構気になるんだよ」
「それなら、お前はそれ読んでろ。俺は……これでも読むか」
イルが興味を持った本の下に隠れていた本。一部だけ見えた題名に、何となく気が引かれた。『殺人事件』なんて単語が含まれるとは、なかなか穏やかでない本だ。手にとって、右側に背表紙がある事に気付く。
「これは縦書きなのか、珍しいな」
「レイト君の国だと縦書きの本が多いらしいよ。って、うわぁ、何か物騒な本読むね」
「実際に起こった事件でも集めたのかもな」
「それは怖い……あれ、後ろになんか書いてあるよ?」
「あ?」
本をひっくり返すと、確かに数行文章が続いていた。それに目を通して、肩をすくめた。
「何だ、推理小説か」
「推理小説って……ああ、人が死んだりする物語だっけ」
「端的に言えばな。しかし、率直な題名だな」
こんな題名をした推理小説は見た事がない。やはり世界が違えば決まり事も違うのだろう。
推理小説は特別好きなわけではないが、嫌いでもない。本を開いて文字を目で追い始めた。
一冊目を読み終えた頃、イルが首を傾げた。
「そういえば、俺が見たいって言ってもリィン嫌がらなかったね」
「ああ、お前は人避けになるからな」
「うわ、リィン酷い!」
ついでにこいつならば本を乱暴に扱う事もないと思っての事でもあるのだが、それは言わないでもいいだろう。
そんな事を考えながら、二冊目に手を伸ばした。
<おわり>
イルが杖を呼び出して数秒目を閉じた。イルが目を開けた瞬間に、扉が現れた。
「……よし、成功。手間がかかった割にはあっさり終わったね。まあいいや」
杖を手にしたまま、扉に手をかけた。その肩をブライトが掴む。
「だから率先して開けようとしないで下さい。扉を開けた途端に矢が飛んでくる罠なんて珍しくもないですよ。底に槍を仕込んだ落とし穴とか」
とりあえず、二人の立場を考える限り、ブライトの主張は間違ってない。こういう状況でなければ。一応突っ込んでおくか。
「作成者を考えると、そんな盗賊が仕掛けるような罠は無いと思うがな」
「そういうもんか?」
「神々によれば、神殿長というのはほとんどがおとなしい気性の人物らしいな。神殿長の中では、イルがかなり攻撃的な部類に入るとまで言われているんだから相当だろう」
「……それは相当だな」
杖を片手に完璧な角度で首を傾げるイルを見て、『攻撃的な人間』と断ずる者はいないだろう。まあ、相手を傷つける事は嫌いだが、傷をつけない範囲でなら戦う事もある。いや、『戦う』という表現が正しいのかはわからないが。今は関係が無いか。
「……ブライトは神殿に来るまで何してたんだ?」
「……ライト達が知るにはまだ早いな」
ブライトは微妙に目を逸らした。
「悪人面を見ればわかるだろ」
「いや、別に民間人を襲ったりはしなかったさ。弱い奴に興味はねえしな。……まあ、各地の盗賊とかとはちょっとやりあった事もあるが、そのくらいだ。多分な」
ブライトは軽く笑ってそう流した。子どもが見たら怯えそうな悪人面だが、妙にこういう表情が似合う。顔立ちと顔つきは違うという事か。
「ま、どっちにしろ、俺じゃないと開かないよ。ほら、扉に紋様が浮かんでるのが見える? あれがね……」
「見えない」
「見えないですね」
「見えません」
「あう、見えないよ?」
イルが驚いたような顔をした。腹が立ったので頬を引き伸ばしておく。ハザードに比べると伸びが物足りない。ライトが口を開く前に手を離した。非難の目を向けられるがとりあえず無視しておく。セイが首を傾げた。
「え? 俺、見えるよ。ぼんやりしてるけど、青いのだよね」
「そうだよ。うーん、見えにくいのか、これ……。皆もそんなに鈍いわけじゃないよね。リィンは結構鋭い方だろうし……って事は、やっぱりセイは皆と比べてもかなり感受性が高いのかな。歌人族は感受性が高いとは聞いてたけど」
「それは興味深いが、今はいい。で、その紋様とやらが何なんだ?」
「ああ、それで、ここの部分がね……」
目の高さ辺りを指で示し出した辺りで、決めた。
「やはり説明はいらん。とっとと開けろ」
「え? うん、わかった」
見えないものの説明をされても無意味でしかない。こいつの事だから多分『ここの部分をこうしてみるとこうなるから……』とか抜かすだろう。
扉の先には、暗い通路が続いていた。その通路も神殿と似たような雰囲気だが、ここまでとは少し違う感じがした。単なる雰囲気、というより、もう少し強い何かがある。それを上手く表す事はできなかった。奇妙な感覚だ。
イルを先頭に扉を潜る。通路は暗いが、さほど狭くはない。ブライトが中に入った途端、その手にあった松明の火がまるで空気中にとけるように、消えた。通路は暗いが、何も見えないほどではない。多少不便だがこうなったら何をしても火はつかないだろう。これも何かの仕掛けと考えた方がいい。
イルなら明かりを出せるかもしれないが、目が慣れてくれば別に照明が必要なほどではないとわかる。
「……この先だね」
呟いて、イルは歩き始めた。特に言葉も無くそれに続く。先頭がイルというのは安心材料とはとても言えないが、仕方ないだろう。
普段は騒がしいセイとハザードも黙っている。俺も黙っていた。特に言う事もない。
暫く歩くと、青い光がぼんやりと見え始めた。奇妙な感覚も強くなってきた。
「ああ、あれかな」
イルはそう言うと歩調を速めた。何が何だかわからないが、イルには何かがわかっているようだ。正直言って腹が立つので、後で変な髪形にしてやろう。
青白い光を中心とするように、広い空間がある。通路よりも、違和感のある感覚に満ちていた。
青白い光は人の頭ほどの大きさで、ふわふわと浮いていた。イルがそれを数秒眺めて、口を開いた。
「どうも、こんにち……あれ? まだおはようの時間だっけ?」
「出発してから大分経った感じはするが」
「それじゃ、こんにちはで合ってるよね。あ、こんばんはかもしれないか。どうしよう?」
「……それは今重要な事か?」
「挨拶は重要だよ」
「『ごきげんよう』とかでいいんじゃないですか? これならいつでもいいですし」
まさかライトからそんな発言が出るとは思わなかった。だが考えてみると、最初の頃こいつの標準語はかなり固いものだった。挨拶も型どおりのものならいくつも習得していたのかもしれない。
「あ、そうか。それはいいね。……あ、やっぱり今は向かないかも。うーん……あ、そうだ!」
何か閃いたらしく、イルが笑みを浮かべた。
「俺はえーと……何代目だっけ? とりあえず、何代か先の神殿長をやってるインペリアルです。――初めまして、かつての神殿長」
その途端、光が揺らめいた。そして光はやがて、人の姿を結んだ。青白く発光するその姿は、華奢な青年だった。整った面立ちだが、あまり目立たない印象だ。
「……君達は?」
青年、否、イルの言葉によれば『かつての神殿長』が、こちらを見回した。イルを見て、ぱちりと目を瞬かせている。
「迎えに来ました……って感じなのかなぁ」
イルの自信なさげな声に、また首を傾げた。
突然声をかけられたと思ったら、何だか綺麗な人間がいた。一瞬人形かと思うくらいに、非人間的なくらい綺麗だった。もし人形なら、どれだけの人が欲しがるのだろう。そんな事を考える。
「迎えに来ました……って感じなのかなぁ?」
美人の言葉に首を傾げた。声からすると一応男かな。ちょっと残念だ。
それにしても、『迎え』というのはどういう事だろう。僕はどこかに来ていたのだっけ。長い間眠っていた時みたいに、頭がぼんやりしている。眠っていた時みたいに、というか、多分眠っていたのだろう。
「んー……何だっけ……?」
そういえば、彼が声をかけてきた時、何て言っていた? 確か……。
思い出して、一気に目が覚めた。
「え? 神殿長? 何代も先って事は……僕は死んだんだっけ? うーん……あ、そうそう、確か死んだんだ」
段々と思い出してきた。正確には一般的な『死ぬ』という事とは、少し違うのかもしれない。だけど、僕にとってはあれは僕の『死』なのだから、別に構わないだろう。
そう、確か僕は魂だけになって、その後どこかに行ったのだ。どこだっただろう。考えようとして、気付いた。そういえば、今ここには僕以外の人がいるのだ。聞いてみた方が早いかもしれない。
「ここはどこかな?」
「えーと、あなたの療養所から飛ばされて、台座がある丸い部屋に、そこからもう一度転移した部屋から暗い通路を通ってきたのがここです」
「その説明でわかるのか?」
「あ、思い出した」
そう、折角『力』があるのだからと、冒険小説に憧れて、療養所にちょっとした仕掛けを仕込んだ。当時のお目付は呆れていたけど、何だかんだで許してくれたっけ。晩年はほとんど寝込んでいたから、哀れに思っていたのかもしれない。何だかんだで、あの人は厳しかったけど優しかった。今思うと懐かしい。
「そう、思い出してきた。確か、この場所がゴールで、宝箱を置こうとしたんだよ。ああ、でもどうして宝箱を置かなかったんだっけ?」
「そういえば、日記で『宝箱の実物を見た事が無いから、今度資料を探そう』とか『何を宝にすればいいのかわからないから、思いつくまで保留』って書いてあったけど……」
「え? 日記読んだの? まあいいけど……僕の日記なんてつまらなかったでしょう。ごめんね」
「いえ、こちらこそ勝手に読んでごめんなさい」
「あ、大丈夫大丈夫。本当に嫌だったら、『日記全部処分して』って頼んだから」
そう、だから見られたのは恥ずかしいけど、そこまで嫌じゃない。今はそれより内容が重要だし。うん、段々思い出してきた。
「そうそう、結局思いつくまで何もないままにしようと思って、最期まで何も思いつかなかったんだよ。悔しかったなぁ」
今思い出しても悔しい。でも、適当なもので誤魔化すのも嫌だったのだ。
「ねえ、君。やっぱり、冒険なら何かちゃんとした宝物があった方が、楽しいだろう」
ああ、そうだ。一度そう思うと、宝物を忘れたこの療養所の仕掛けが、全部徒労に思えたのだ。寝床から動けなくて、ぼんやりと本を読んでいる内に考えた、沢山の仕掛け。
「結構頑張ったんだよ。ほら、冒険って、力を合わせてやったりするじゃない。だから、二箇所で同時に取っ手を引かないと扉が現れないようにする仕掛けとか、一番お気に入りなんだ。声でやりとりがやりにくから、息の合う二人じゃないとなかなか成功しないだろうと思って」
熱弁すると、眉間に皺を寄せていた子と金髪の子が揃って嫌そうな顔をした。もしかしたら、この二人はその仕掛けで苦労したりしたんだろうか。
「あれ? でもどうして僕はここに来たんだろう? 今更ここに来たって、宝箱なんて置けないのに」
「宝箱を置けなかった事が気になっていたから、自然と魂がここにひかれてしまったんじゃないかな。スノウさんが言ってたけど、そういう事があるみたいだし」
「スノウ、さん……? ああ、霊魂の神様。あの神様が言うなら、多分それが正解だね。あの人達、じゃなくて、あの神様達、元気そうだった? 多分、元気だと思うけど。あの神様達の事だから」
あの神様達に会うと、少し明るい気分になれた。
「心配してた。あなたがどこに行ったかわからないからって」
「そうなの?」
「スノウさんによると、迷子扱いになってるみたい」
「迷子かぁ。それは恥ずかしいな」
もう迷子という年齢はとっくに越えてる。だから行くべき場所に行きたいけど、まだ宝物が決まってない。
「ねえ、宝物って何がいい? 考えたけど思いつかないんだ。何がいいのかな? 綺麗な石? それとも、お金がいいのかな? あ、やっぱり伝説の武器とか? ああでも、武器なんて持ってないし、見た事もあんまりないや」
何ならいいんだろう。誰でも喜ぶような宝物って、何だろうか。
「……宝物を決めるまでは、ここを動けない?」
「だって、気になるじゃないか。誰でも喜ぶ物がいいんだけど、君は何がいい?」
「うーん……とりあえず、『誰でも喜ぶ物』は、多分ないと思う」
美人の言葉に、驚いた。
「そうなの?」
「例えば俺はもっと友達がいたら楽しいって思うけど、リィンは絶対喜ばないし」
「当たり前だ。第一宝箱に入ってる人間を友人にしたいか?」
眉間に皺を寄せている少年が、うんざりした顔をした。
「それじゃ、君は何が欲しいの?」
「本」
「いつも本だな、お前は」
「君だったら何が欲しい?」
怖そうな顔をした子に聞いてみる。彼は堂々と言った。
「強い奴と戦う権利」
「……みんなバラバラだね」
僕が悩んでいたのは、どうやらかなりの難問だったらしい。皆が喜びそうなものって、こんなに難しいものなんだ。これじゃ答えなんか当分出そうにない。
「……あ、じゃあね、『お願いを叶えてくれる』っていうのは?」
「え?」
「そういう物語読んだんだ。『一つだけ何でも願いを叶える』っていうごほうび!」
「ああ、それはいいね」
それならみんな、自分で好きなものを願える。けど、問題があった。
「それ、今の僕でもできるかなぁ」
いや、多分できない。そう思った時、美人が言った。
「それじゃ、一番乗りだから代表で俺の願いを叶えて欲しいな」
「今の僕じゃ大した事できないよ?」
一応言うと、にっこりと笑った。見惚れるような笑顔だ。
「あの部屋にあった本、貰ってもいいですか?」
「……そんなのでいいの?」
「あれがどうしても欲しいんです。今の神殿、読書家が多いんで、皆喜んでくれるかも」
「そう? いいよ、あげる。どうせ僕はもう読めないから」
答えると、彼は嬉しそうに笑った。それを見ると、ふっと身体が軽くなる。ああ、もう魂だから身体じゃないんだ。けど、なんだかふわふわしていて心地いい。こんなに身体が軽いのは初めてだ。
行くべきところはもうわかってる。早く行かないと。迷子扱いのままは恥ずかしい。
ああでも、ちゃんとお別れを言わないと。
「――じゃあね」
彼は小さく手を振ってくれた。これから行くところに、いつか彼も来るのだろう。その時はたくさんたくさん話をしよう。これから行くところでまで、寝込んでばかりじゃないといいな。ああ、そういえば、あの人は待っていてくれているだろうか。待たせすぎたって怒るかな。それでもいいや。会った時に謝ろう。
視界が白く染まる瞬間、あの人の顔が見えた気がした。
消えた光を見送って、イルが一つ息をついた。
「……とりあえず、帰ろうか」
その意見に、異議は出なかった。
<終わり……?>
「……よし、成功。手間がかかった割にはあっさり終わったね。まあいいや」
杖を手にしたまま、扉に手をかけた。その肩をブライトが掴む。
「だから率先して開けようとしないで下さい。扉を開けた途端に矢が飛んでくる罠なんて珍しくもないですよ。底に槍を仕込んだ落とし穴とか」
とりあえず、二人の立場を考える限り、ブライトの主張は間違ってない。こういう状況でなければ。一応突っ込んでおくか。
「作成者を考えると、そんな盗賊が仕掛けるような罠は無いと思うがな」
「そういうもんか?」
「神々によれば、神殿長というのはほとんどがおとなしい気性の人物らしいな。神殿長の中では、イルがかなり攻撃的な部類に入るとまで言われているんだから相当だろう」
「……それは相当だな」
杖を片手に完璧な角度で首を傾げるイルを見て、『攻撃的な人間』と断ずる者はいないだろう。まあ、相手を傷つける事は嫌いだが、傷をつけない範囲でなら戦う事もある。いや、『戦う』という表現が正しいのかはわからないが。今は関係が無いか。
「……ブライトは神殿に来るまで何してたんだ?」
「……ライト達が知るにはまだ早いな」
ブライトは微妙に目を逸らした。
「悪人面を見ればわかるだろ」
「いや、別に民間人を襲ったりはしなかったさ。弱い奴に興味はねえしな。……まあ、各地の盗賊とかとはちょっとやりあった事もあるが、そのくらいだ。多分な」
ブライトは軽く笑ってそう流した。子どもが見たら怯えそうな悪人面だが、妙にこういう表情が似合う。顔立ちと顔つきは違うという事か。
「ま、どっちにしろ、俺じゃないと開かないよ。ほら、扉に紋様が浮かんでるのが見える? あれがね……」
「見えない」
「見えないですね」
「見えません」
「あう、見えないよ?」
イルが驚いたような顔をした。腹が立ったので頬を引き伸ばしておく。ハザードに比べると伸びが物足りない。ライトが口を開く前に手を離した。非難の目を向けられるがとりあえず無視しておく。セイが首を傾げた。
「え? 俺、見えるよ。ぼんやりしてるけど、青いのだよね」
「そうだよ。うーん、見えにくいのか、これ……。皆もそんなに鈍いわけじゃないよね。リィンは結構鋭い方だろうし……って事は、やっぱりセイは皆と比べてもかなり感受性が高いのかな。歌人族は感受性が高いとは聞いてたけど」
「それは興味深いが、今はいい。で、その紋様とやらが何なんだ?」
「ああ、それで、ここの部分がね……」
目の高さ辺りを指で示し出した辺りで、決めた。
「やはり説明はいらん。とっとと開けろ」
「え? うん、わかった」
見えないものの説明をされても無意味でしかない。こいつの事だから多分『ここの部分をこうしてみるとこうなるから……』とか抜かすだろう。
扉の先には、暗い通路が続いていた。その通路も神殿と似たような雰囲気だが、ここまでとは少し違う感じがした。単なる雰囲気、というより、もう少し強い何かがある。それを上手く表す事はできなかった。奇妙な感覚だ。
イルを先頭に扉を潜る。通路は暗いが、さほど狭くはない。ブライトが中に入った途端、その手にあった松明の火がまるで空気中にとけるように、消えた。通路は暗いが、何も見えないほどではない。多少不便だがこうなったら何をしても火はつかないだろう。これも何かの仕掛けと考えた方がいい。
イルなら明かりを出せるかもしれないが、目が慣れてくれば別に照明が必要なほどではないとわかる。
「……この先だね」
呟いて、イルは歩き始めた。特に言葉も無くそれに続く。先頭がイルというのは安心材料とはとても言えないが、仕方ないだろう。
普段は騒がしいセイとハザードも黙っている。俺も黙っていた。特に言う事もない。
暫く歩くと、青い光がぼんやりと見え始めた。奇妙な感覚も強くなってきた。
「ああ、あれかな」
イルはそう言うと歩調を速めた。何が何だかわからないが、イルには何かがわかっているようだ。正直言って腹が立つので、後で変な髪形にしてやろう。
青白い光を中心とするように、広い空間がある。通路よりも、違和感のある感覚に満ちていた。
青白い光は人の頭ほどの大きさで、ふわふわと浮いていた。イルがそれを数秒眺めて、口を開いた。
「どうも、こんにち……あれ? まだおはようの時間だっけ?」
「出発してから大分経った感じはするが」
「それじゃ、こんにちはで合ってるよね。あ、こんばんはかもしれないか。どうしよう?」
「……それは今重要な事か?」
「挨拶は重要だよ」
「『ごきげんよう』とかでいいんじゃないですか? これならいつでもいいですし」
まさかライトからそんな発言が出るとは思わなかった。だが考えてみると、最初の頃こいつの標準語はかなり固いものだった。挨拶も型どおりのものならいくつも習得していたのかもしれない。
「あ、そうか。それはいいね。……あ、やっぱり今は向かないかも。うーん……あ、そうだ!」
何か閃いたらしく、イルが笑みを浮かべた。
「俺はえーと……何代目だっけ? とりあえず、何代か先の神殿長をやってるインペリアルです。――初めまして、かつての神殿長」
その途端、光が揺らめいた。そして光はやがて、人の姿を結んだ。青白く発光するその姿は、華奢な青年だった。整った面立ちだが、あまり目立たない印象だ。
「……君達は?」
青年、否、イルの言葉によれば『かつての神殿長』が、こちらを見回した。イルを見て、ぱちりと目を瞬かせている。
「迎えに来ました……って感じなのかなぁ」
イルの自信なさげな声に、また首を傾げた。
突然声をかけられたと思ったら、何だか綺麗な人間がいた。一瞬人形かと思うくらいに、非人間的なくらい綺麗だった。もし人形なら、どれだけの人が欲しがるのだろう。そんな事を考える。
「迎えに来ました……って感じなのかなぁ?」
美人の言葉に首を傾げた。声からすると一応男かな。ちょっと残念だ。
それにしても、『迎え』というのはどういう事だろう。僕はどこかに来ていたのだっけ。長い間眠っていた時みたいに、頭がぼんやりしている。眠っていた時みたいに、というか、多分眠っていたのだろう。
「んー……何だっけ……?」
そういえば、彼が声をかけてきた時、何て言っていた? 確か……。
思い出して、一気に目が覚めた。
「え? 神殿長? 何代も先って事は……僕は死んだんだっけ? うーん……あ、そうそう、確か死んだんだ」
段々と思い出してきた。正確には一般的な『死ぬ』という事とは、少し違うのかもしれない。だけど、僕にとってはあれは僕の『死』なのだから、別に構わないだろう。
そう、確か僕は魂だけになって、その後どこかに行ったのだ。どこだっただろう。考えようとして、気付いた。そういえば、今ここには僕以外の人がいるのだ。聞いてみた方が早いかもしれない。
「ここはどこかな?」
「えーと、あなたの療養所から飛ばされて、台座がある丸い部屋に、そこからもう一度転移した部屋から暗い通路を通ってきたのがここです」
「その説明でわかるのか?」
「あ、思い出した」
そう、折角『力』があるのだからと、冒険小説に憧れて、療養所にちょっとした仕掛けを仕込んだ。当時のお目付は呆れていたけど、何だかんだで許してくれたっけ。晩年はほとんど寝込んでいたから、哀れに思っていたのかもしれない。何だかんだで、あの人は厳しかったけど優しかった。今思うと懐かしい。
「そう、思い出してきた。確か、この場所がゴールで、宝箱を置こうとしたんだよ。ああ、でもどうして宝箱を置かなかったんだっけ?」
「そういえば、日記で『宝箱の実物を見た事が無いから、今度資料を探そう』とか『何を宝にすればいいのかわからないから、思いつくまで保留』って書いてあったけど……」
「え? 日記読んだの? まあいいけど……僕の日記なんてつまらなかったでしょう。ごめんね」
「いえ、こちらこそ勝手に読んでごめんなさい」
「あ、大丈夫大丈夫。本当に嫌だったら、『日記全部処分して』って頼んだから」
そう、だから見られたのは恥ずかしいけど、そこまで嫌じゃない。今はそれより内容が重要だし。うん、段々思い出してきた。
「そうそう、結局思いつくまで何もないままにしようと思って、最期まで何も思いつかなかったんだよ。悔しかったなぁ」
今思い出しても悔しい。でも、適当なもので誤魔化すのも嫌だったのだ。
「ねえ、君。やっぱり、冒険なら何かちゃんとした宝物があった方が、楽しいだろう」
ああ、そうだ。一度そう思うと、宝物を忘れたこの療養所の仕掛けが、全部徒労に思えたのだ。寝床から動けなくて、ぼんやりと本を読んでいる内に考えた、沢山の仕掛け。
「結構頑張ったんだよ。ほら、冒険って、力を合わせてやったりするじゃない。だから、二箇所で同時に取っ手を引かないと扉が現れないようにする仕掛けとか、一番お気に入りなんだ。声でやりとりがやりにくから、息の合う二人じゃないとなかなか成功しないだろうと思って」
熱弁すると、眉間に皺を寄せていた子と金髪の子が揃って嫌そうな顔をした。もしかしたら、この二人はその仕掛けで苦労したりしたんだろうか。
「あれ? でもどうして僕はここに来たんだろう? 今更ここに来たって、宝箱なんて置けないのに」
「宝箱を置けなかった事が気になっていたから、自然と魂がここにひかれてしまったんじゃないかな。スノウさんが言ってたけど、そういう事があるみたいだし」
「スノウ、さん……? ああ、霊魂の神様。あの神様が言うなら、多分それが正解だね。あの人達、じゃなくて、あの神様達、元気そうだった? 多分、元気だと思うけど。あの神様達の事だから」
あの神様達に会うと、少し明るい気分になれた。
「心配してた。あなたがどこに行ったかわからないからって」
「そうなの?」
「スノウさんによると、迷子扱いになってるみたい」
「迷子かぁ。それは恥ずかしいな」
もう迷子という年齢はとっくに越えてる。だから行くべき場所に行きたいけど、まだ宝物が決まってない。
「ねえ、宝物って何がいい? 考えたけど思いつかないんだ。何がいいのかな? 綺麗な石? それとも、お金がいいのかな? あ、やっぱり伝説の武器とか? ああでも、武器なんて持ってないし、見た事もあんまりないや」
何ならいいんだろう。誰でも喜ぶような宝物って、何だろうか。
「……宝物を決めるまでは、ここを動けない?」
「だって、気になるじゃないか。誰でも喜ぶ物がいいんだけど、君は何がいい?」
「うーん……とりあえず、『誰でも喜ぶ物』は、多分ないと思う」
美人の言葉に、驚いた。
「そうなの?」
「例えば俺はもっと友達がいたら楽しいって思うけど、リィンは絶対喜ばないし」
「当たり前だ。第一宝箱に入ってる人間を友人にしたいか?」
眉間に皺を寄せている少年が、うんざりした顔をした。
「それじゃ、君は何が欲しいの?」
「本」
「いつも本だな、お前は」
「君だったら何が欲しい?」
怖そうな顔をした子に聞いてみる。彼は堂々と言った。
「強い奴と戦う権利」
「……みんなバラバラだね」
僕が悩んでいたのは、どうやらかなりの難問だったらしい。皆が喜びそうなものって、こんなに難しいものなんだ。これじゃ答えなんか当分出そうにない。
「……あ、じゃあね、『お願いを叶えてくれる』っていうのは?」
「え?」
「そういう物語読んだんだ。『一つだけ何でも願いを叶える』っていうごほうび!」
「ああ、それはいいね」
それならみんな、自分で好きなものを願える。けど、問題があった。
「それ、今の僕でもできるかなぁ」
いや、多分できない。そう思った時、美人が言った。
「それじゃ、一番乗りだから代表で俺の願いを叶えて欲しいな」
「今の僕じゃ大した事できないよ?」
一応言うと、にっこりと笑った。見惚れるような笑顔だ。
「あの部屋にあった本、貰ってもいいですか?」
「……そんなのでいいの?」
「あれがどうしても欲しいんです。今の神殿、読書家が多いんで、皆喜んでくれるかも」
「そう? いいよ、あげる。どうせ僕はもう読めないから」
答えると、彼は嬉しそうに笑った。それを見ると、ふっと身体が軽くなる。ああ、もう魂だから身体じゃないんだ。けど、なんだかふわふわしていて心地いい。こんなに身体が軽いのは初めてだ。
行くべきところはもうわかってる。早く行かないと。迷子扱いのままは恥ずかしい。
ああでも、ちゃんとお別れを言わないと。
「――じゃあね」
彼は小さく手を振ってくれた。これから行くところに、いつか彼も来るのだろう。その時はたくさんたくさん話をしよう。これから行くところでまで、寝込んでばかりじゃないといいな。ああ、そういえば、あの人は待っていてくれているだろうか。待たせすぎたって怒るかな。それでもいいや。会った時に謝ろう。
視界が白く染まる瞬間、あの人の顔が見えた気がした。
消えた光を見送って、イルが一つ息をついた。
「……とりあえず、帰ろうか」
その意見に、異議は出なかった。
<終わり……?>
「あ、みんなここにいたんだ」
明快な声が響いた。光から現れたのは予想通り、セイとブライトだった。
「ああ、丁度良かった。全員揃ったね。一つ聞きたいんだけど、こういう手紙を途中で見つけなかった?」
イルが手にしているのは、白い封筒。それが三通分あった。あんなものは途中で見た覚えが無い。
「俺は見ませんでした」
「俺も見てないですね」
「あ、俺見たよ! これ?」
セイがポケットから白い封筒を取り出した。封がしてあって、開けたような形跡はない。
「そう、それ。ちょっと貸してくれる?」
「うん。けど、その手紙……」
イルが封を開けた途端、セイの言葉が止まった。
「……あれ? さっき全然開かなかったのに」
セイは首を傾げているが、封筒を見る限り糊付けされたような形跡もない。だが、先程見た時は封がしてあったように見えた。恐らく、かつての神殿長の仕掛けだろう。何故そんな真似をしたのかはわからないが。
イルは中に入っていた紙に目を通して、一つ頷いた。
「うん、なるほど。ブライト、盗賊の元アジトからあの丸い部屋に来たのかな?」
「え? ああ、そうですけど」
「その時、どうやってあの部屋に飛ばされたかわかる?」
「うーん……やっぱりあの鏡、かなぁ。ね?」
盗賊の元アジトを探索していた面々が頷いた。
「変な音がする鏡だったな」
「そうそう。壁に埋め込まれてたんだよね。……けどどうやって埋め込んだんだろう? 普通の洞窟だったよね?」
「……そういえばそうだな。普通の岩っぽい壁だったし、鏡を割らずにめり込ますなんて普通は無理だよな」
ブライトはそう言うが、鏡が割れる事を覚悟しても、岩にめり込ますのは無理だろう、普通。
「それじゃ、間違い無さそうだね。俺も調査の時に一応見たし。その鏡はかつての神殿長が仕込んだ仕掛けの一つだね。盗賊が住み着くずっと昔に仕掛けたんだと思う」
「けど、調査した時は何も無かったって……」
「多分、他の条件を満たしてから発動するようにしてたんだろうね」
その条件に、一つ思い至るものがあった。
「あの療養所に入る事、か?」
「多分ね。あの丸い部屋は、二つの場所の術が発動してからもう一つの仕掛けが作動する仕組みになってたんだと思うよ」
それを聞いて、嫌な想像にいきつく。とりあえず気になるし聞いておこう。
「……という事は、あの丸い部屋に行った時点で鏡の方に誰も来なかったら、仕掛けも発動せずにずっとあのままという事か?」
「そうなっても大丈夫だよ。術で帰れるし」
「お前ならな」
「他の神殿長でも、多分大丈夫だよ。帰還するだけの術ならほとんどの神殿長も使えると思うし。扉の仕掛けを解けるなら、まず間違いなく帰還できるよ」
正直こいつの観念がどこまで通じるのかはわからないが、とりあえずここまで言い切るなら信用していいだろう。これで嘘だったとしてもどうせ確かめる手段などはない。今の時代の神殿長は、一応こいつだけなのだから。
「ここから脱出は出来るんですか? 見たところ扉が無さそうですけど」
「神殿に帰るだけなら簡単なんだけどね。転移の術を使えばいいだけだし。ただ、このままにしておくのはちょっと可哀相だから、ちょっと待ってて」
「……というか、さっきから話がよくわからないんですけど。そもそも、神殿長達が行ったという遺跡と、何か関係があるんですか?」
「……そうだね、先に話しておこうか」
イルは苦笑して、話し始めた。その間に本でも読むか。
古びた本が詰め込まれた本棚をざっと眺めてみる。それだけでも、かなり貴重な本が何冊か見つかった。古びてはいるが、読めないほど劣化が酷いわけではない。変に持ち出さない方が保存上良さそうな気もするが、それだと読めないな。
「リィン、本を持ち出したいのもわかるけど、少し待ってて。一応聞かないと」
「聞く?」
「そう。ここを創ったかつての神殿長にね。必要なものは揃ったし」
四通になった手紙をひらりと振って、イルが笑った。どちらにせよ、この量の本を持ち出すとなると事前準備が不可欠になるだろう。今無理に持って行く事はない。もう一度この場所に来られるのかはわからないが、イルはあまり無責任な性格はしていない。駄目だったらその時に殴ろう。もしくは蹴ろう。
「で、結局その手紙は何だったんだ?」
「扉を呼び出す手順が書かれてるんだ。ちゃんと番号も振ってあるよ。ここまでの仕掛けといい、この手紙といい、この神殿長はかなり論理好きだったのかもしれないね。一括でやろうとすると結構『力』を使うんだけど、上手く論理を組み立てると小さい『力』でも複雑な事ができるから。身体の弱い人だったらしいし、こういうところで工夫してたんだね。ちょっと面白そうだから俺ももう少し勉強してみようかな。後世に残るようなすごい迷宮を作りたいし」
「……後世の神殿長がお前と同じように暇だとは限らないだろう」
「うわ、酷い! 千年とか二千年とか、もっと先の人でもいいんだよ。そのくらい経てば、一人くらい迷宮に興味持つ人もいるだろうしさ」
随分と気の長い話だ。第一、自分がいなくなった後の世界を考えてどうするというのだろう。馬鹿げている。とりあえず、端的に一言で伝える事にした。
「馬鹿か」
「酷いなぁ……だってさ、後世の神殿長が暇してたら可哀相じゃない。俺みたいに友達がいればいいけどさ、ずっと一人ぼっちでずっと退屈って、結構辛いんだよ。だから、暇潰しになればいいかなって」
「他人の暇潰しの為に迷宮を作るのか?」
「俺の趣味も兼ねてるから、一石二鳥だよ。作る時はリィンも相談に乗って欲しいな。リィンなら凄い罠とか思いつきそうだし。やっぱり学者の子達にもアイディアを貸してもらおうっと」
「俺もやるー!」
「僕もー」
「へぇ、面白そうですね。罠なら色々ありますよ」
「危険なのは駄目じゃないか? 後世の神殿長用に作るんだろ?」
ブライトにライトがツッコミを入れた。意外と『ツッコミスキル』とやらが伸びているようだ。妙なところで成長しているらしい。
「危険じゃなければいいんだろう? それなら、途中で心が折れるような複雑な仕掛けを入れてやれ。案は出してやる」
「……リィンはそういうの何個も考え付きそうだよな……」
そのくらい考え付くだろう。イルは愚直なほどお人好しだから思いつこうとしていないのかもしれないが。ハザード達は、論外か。
「ま、とりあえず、ここの創造主に話を聞きに行こう。えーととりあえずこの仕掛けを解かないとね」
「手順がわかっているなら、すぐだろう?」
「そう言いたいところなんだけど、一つ一つが謎かけみたいになってるんだよ。ここで見つかった分はもう解いたんだけど、この一枚はまだなんだよ」
セイが持ってきた手紙を手に、イルが苦笑した。紙を受け取って、目を通す。やはりあの文字が綴られている。ライトと同じ地方出身者というのは、ほぼ確定でいいだろう。別々の地域でこれほど文の形態や文字の形などが似る事はない。一般の移動手段は殆どが徒歩で、精々馬や馬車、船くらいしかない。行商の盛んな場所は、標準語で統一されている。
『「表の頂点の話」
見ていて欲しい
ぎこちないかもしれないけど
価値さえないけれど
羅針盤の先は
六の数字を示す』
正直、意味がわからない。何を言いたいのだろう。
「そうそう、ヒントはさっきフィアスが見つけてくれたんだよ」
「ヒント?」
「そうそう。えーと『ヨ』『テ』『ミ』『タ』だったかな。一文字ずつ離れて書いてあったらしいけど……リィン?」
「……馬鹿か?」
そこまで出たならすぐ気付くだろう。いや、こいつは結構うっかりしているからな。簡単に騙されるし。単純な手口にほどあっさりと引っかかったりもする。
「『右から六』か。頂点の話、という事は一番上……だが、表?」
そういえばさっきは扉があった。製作者はこういうのが好きだったんだろうか。なんて暇だったのだろう。
「ここにあるもので一番上、とか言えそうなものって……本棚かな、やっぱり」
「……ああ、だが表というのが解せないな」
「そっちの本棚じゃないかな。古い本が沢山入ってる方は、あっちの本棚を動かしたら出てきたから」
そういう事は先に言え。
ため息をついて、表の本棚の一番上の段、右から六番目の本を手に取った。
<続く>
明快な声が響いた。光から現れたのは予想通り、セイとブライトだった。
「ああ、丁度良かった。全員揃ったね。一つ聞きたいんだけど、こういう手紙を途中で見つけなかった?」
イルが手にしているのは、白い封筒。それが三通分あった。あんなものは途中で見た覚えが無い。
「俺は見ませんでした」
「俺も見てないですね」
「あ、俺見たよ! これ?」
セイがポケットから白い封筒を取り出した。封がしてあって、開けたような形跡はない。
「そう、それ。ちょっと貸してくれる?」
「うん。けど、その手紙……」
イルが封を開けた途端、セイの言葉が止まった。
「……あれ? さっき全然開かなかったのに」
セイは首を傾げているが、封筒を見る限り糊付けされたような形跡もない。だが、先程見た時は封がしてあったように見えた。恐らく、かつての神殿長の仕掛けだろう。何故そんな真似をしたのかはわからないが。
イルは中に入っていた紙に目を通して、一つ頷いた。
「うん、なるほど。ブライト、盗賊の元アジトからあの丸い部屋に来たのかな?」
「え? ああ、そうですけど」
「その時、どうやってあの部屋に飛ばされたかわかる?」
「うーん……やっぱりあの鏡、かなぁ。ね?」
盗賊の元アジトを探索していた面々が頷いた。
「変な音がする鏡だったな」
「そうそう。壁に埋め込まれてたんだよね。……けどどうやって埋め込んだんだろう? 普通の洞窟だったよね?」
「……そういえばそうだな。普通の岩っぽい壁だったし、鏡を割らずにめり込ますなんて普通は無理だよな」
ブライトはそう言うが、鏡が割れる事を覚悟しても、岩にめり込ますのは無理だろう、普通。
「それじゃ、間違い無さそうだね。俺も調査の時に一応見たし。その鏡はかつての神殿長が仕込んだ仕掛けの一つだね。盗賊が住み着くずっと昔に仕掛けたんだと思う」
「けど、調査した時は何も無かったって……」
「多分、他の条件を満たしてから発動するようにしてたんだろうね」
その条件に、一つ思い至るものがあった。
「あの療養所に入る事、か?」
「多分ね。あの丸い部屋は、二つの場所の術が発動してからもう一つの仕掛けが作動する仕組みになってたんだと思うよ」
それを聞いて、嫌な想像にいきつく。とりあえず気になるし聞いておこう。
「……という事は、あの丸い部屋に行った時点で鏡の方に誰も来なかったら、仕掛けも発動せずにずっとあのままという事か?」
「そうなっても大丈夫だよ。術で帰れるし」
「お前ならな」
「他の神殿長でも、多分大丈夫だよ。帰還するだけの術ならほとんどの神殿長も使えると思うし。扉の仕掛けを解けるなら、まず間違いなく帰還できるよ」
正直こいつの観念がどこまで通じるのかはわからないが、とりあえずここまで言い切るなら信用していいだろう。これで嘘だったとしてもどうせ確かめる手段などはない。今の時代の神殿長は、一応こいつだけなのだから。
「ここから脱出は出来るんですか? 見たところ扉が無さそうですけど」
「神殿に帰るだけなら簡単なんだけどね。転移の術を使えばいいだけだし。ただ、このままにしておくのはちょっと可哀相だから、ちょっと待ってて」
「……というか、さっきから話がよくわからないんですけど。そもそも、神殿長達が行ったという遺跡と、何か関係があるんですか?」
「……そうだね、先に話しておこうか」
イルは苦笑して、話し始めた。その間に本でも読むか。
古びた本が詰め込まれた本棚をざっと眺めてみる。それだけでも、かなり貴重な本が何冊か見つかった。古びてはいるが、読めないほど劣化が酷いわけではない。変に持ち出さない方が保存上良さそうな気もするが、それだと読めないな。
「リィン、本を持ち出したいのもわかるけど、少し待ってて。一応聞かないと」
「聞く?」
「そう。ここを創ったかつての神殿長にね。必要なものは揃ったし」
四通になった手紙をひらりと振って、イルが笑った。どちらにせよ、この量の本を持ち出すとなると事前準備が不可欠になるだろう。今無理に持って行く事はない。もう一度この場所に来られるのかはわからないが、イルはあまり無責任な性格はしていない。駄目だったらその時に殴ろう。もしくは蹴ろう。
「で、結局その手紙は何だったんだ?」
「扉を呼び出す手順が書かれてるんだ。ちゃんと番号も振ってあるよ。ここまでの仕掛けといい、この手紙といい、この神殿長はかなり論理好きだったのかもしれないね。一括でやろうとすると結構『力』を使うんだけど、上手く論理を組み立てると小さい『力』でも複雑な事ができるから。身体の弱い人だったらしいし、こういうところで工夫してたんだね。ちょっと面白そうだから俺ももう少し勉強してみようかな。後世に残るようなすごい迷宮を作りたいし」
「……後世の神殿長がお前と同じように暇だとは限らないだろう」
「うわ、酷い! 千年とか二千年とか、もっと先の人でもいいんだよ。そのくらい経てば、一人くらい迷宮に興味持つ人もいるだろうしさ」
随分と気の長い話だ。第一、自分がいなくなった後の世界を考えてどうするというのだろう。馬鹿げている。とりあえず、端的に一言で伝える事にした。
「馬鹿か」
「酷いなぁ……だってさ、後世の神殿長が暇してたら可哀相じゃない。俺みたいに友達がいればいいけどさ、ずっと一人ぼっちでずっと退屈って、結構辛いんだよ。だから、暇潰しになればいいかなって」
「他人の暇潰しの為に迷宮を作るのか?」
「俺の趣味も兼ねてるから、一石二鳥だよ。作る時はリィンも相談に乗って欲しいな。リィンなら凄い罠とか思いつきそうだし。やっぱり学者の子達にもアイディアを貸してもらおうっと」
「俺もやるー!」
「僕もー」
「へぇ、面白そうですね。罠なら色々ありますよ」
「危険なのは駄目じゃないか? 後世の神殿長用に作るんだろ?」
ブライトにライトがツッコミを入れた。意外と『ツッコミスキル』とやらが伸びているようだ。妙なところで成長しているらしい。
「危険じゃなければいいんだろう? それなら、途中で心が折れるような複雑な仕掛けを入れてやれ。案は出してやる」
「……リィンはそういうの何個も考え付きそうだよな……」
そのくらい考え付くだろう。イルは愚直なほどお人好しだから思いつこうとしていないのかもしれないが。ハザード達は、論外か。
「ま、とりあえず、ここの創造主に話を聞きに行こう。えーととりあえずこの仕掛けを解かないとね」
「手順がわかっているなら、すぐだろう?」
「そう言いたいところなんだけど、一つ一つが謎かけみたいになってるんだよ。ここで見つかった分はもう解いたんだけど、この一枚はまだなんだよ」
セイが持ってきた手紙を手に、イルが苦笑した。紙を受け取って、目を通す。やはりあの文字が綴られている。ライトと同じ地方出身者というのは、ほぼ確定でいいだろう。別々の地域でこれほど文の形態や文字の形などが似る事はない。一般の移動手段は殆どが徒歩で、精々馬や馬車、船くらいしかない。行商の盛んな場所は、標準語で統一されている。
『「表の頂点の話」
見ていて欲しい
ぎこちないかもしれないけど
価値さえないけれど
羅針盤の先は
六の数字を示す』
正直、意味がわからない。何を言いたいのだろう。
「そうそう、ヒントはさっきフィアスが見つけてくれたんだよ」
「ヒント?」
「そうそう。えーと『ヨ』『テ』『ミ』『タ』だったかな。一文字ずつ離れて書いてあったらしいけど……リィン?」
「……馬鹿か?」
そこまで出たならすぐ気付くだろう。いや、こいつは結構うっかりしているからな。簡単に騙されるし。単純な手口にほどあっさりと引っかかったりもする。
「『右から六』か。頂点の話、という事は一番上……だが、表?」
そういえばさっきは扉があった。製作者はこういうのが好きだったんだろうか。なんて暇だったのだろう。
「ここにあるもので一番上、とか言えそうなものって……本棚かな、やっぱり」
「……ああ、だが表というのが解せないな」
「そっちの本棚じゃないかな。古い本が沢山入ってる方は、あっちの本棚を動かしたら出てきたから」
そういう事は先に言え。
ため息をついて、表の本棚の一番上の段、右から六番目の本を手に取った。
<続く>
扉を開けた先には、俺の部屋よりは少し大きいくらいの部屋があった。大きなベッドがあって、枕元に本が一冊置いてある。ただそれだけの部屋。煉瓦づくりのような壁は、結構古い感じで隙間も空いていたけれど、綺麗な白だった。わざとぼろぼろっぽい煉瓦を使ってるのかもしれない。古いお城みたいな気もする。
ぐるっと見渡してみて、思う。やっぱりこの雰囲気は神殿とよく似てる。上手く説明できない独特の雰囲気。ただ似ているけれど、いつもいる神殿よりも何だか少し静かなような、そんな雰囲気がした。神殿と違って人がいないから、というだけじゃないみたいだ。人がいない、と考えてから、思いついた。この雰囲気は静けさというよりも、どこか寂しさに似ているような気がした。
「寝室か? 結構明るいな」
「それじゃ、松明消す?」
「いや、また急に暗い所に飛ばされないとも限らないし、そのままでいいだろう。寝台に触る時とかは気をつけろよ」
「りょーかい」
火事になったら大変だ。逃げ場がないのは怖いと思う。ブライトは首を傾げた。
「扉とかは見当たらないな……。どこかに仕掛けがあるのか?」
「あの本に書いてないかな?」
「本か……」
ブライトは鏡をベッドに一度置いて、本を取った。気になるけど、本が燃えちゃったら困るから、近付かない方がいいかな。
窓はない。扉も入ってきた扉だけ。ブライトが閉めたみたいで、扉はしっかりと閉じていた。重そうに見える扉だけど、案外軽い扉だったっけ。それも神殿の扉に似てる。もしかしたら、昔の神殿長と何か関係があるのかもしれない。けど、それだと昔の神殿長と盗賊も関係があるのかな。盗賊のアジトにあった鏡からここまで来ちゃったし。
扉に近付いて、ちょっと気になった。顔の高さくらいの位置に、よく何かを引っかけるのに使う小さい鉤がついてる。そういえば、さっきこういうのを見たような気がする。ついさっき、だったのにすぐに思い出せない。ブライトの声が聞こえてきた。
「何か数行しか書いてないな……ん? 駄目だ、読めない。この文字、標準語じゃないな。どっかで見た文字なんだが……」
「あ、それじゃ、俺に見せてー」
俺は文字を読んだり言葉を話したりする能力をつけてもらったから、大体の本は読める。ただ、難しいと理解はできないんだけど。
ブライトと、松明と本を交換した。本に書いてある文字は読めるけど、どこの文字かはわからない。前にこの文字の詩を読んだ事もあるんだけど、どこの人が書いた詩なのかは思い出せなかった。
「えーと、『扉の真正面』『合わせ鏡で道が開く』……これだけ?」
ちょっと紙が勿体ない。他のページに何か書かれてるかもしれない、と思って頁を一枚一枚めくった。見えるのは、白紙のページばかり。けど途中に、手紙が挟まっていた。白い封筒だ。開けようとしたけど、開かない。
「とりあえず、合わせ鏡をやってみるか。この鏡を使うのか?」
ブライトが片手で鏡を持った。あ、思いだした。
「ブライト、扉のところに、鏡を引っ掛けられそうだよ」
「ん? ああ、本当だ。それにしても、もう一つ鏡が必要になるな……ああ、扉の真正面の壁を調べろって事か。セイ、そっちを調べてみてくれ」
「わかった!」
とりあえず、手紙はポケットに入れた。後で誰かに見てもらおう。本はとりあえず元の場所に戻しておけばいいよね。
壁をぺたぺた触ってると、一つゆるい煉瓦があった。顔くらいの位置の煉瓦だ。隙間に指を入れると、とっかかりがある。ぐいっと引くと、煉瓦が外れた。
「あ、鏡!」
「おお、丁度高さもぴったりだな」
合わせ鏡を見るのは初めてだ。覗き込んだ時、眩しい光が沸き起こった。
手紙は三通ほど見つけたけれど、これでも何か足りない気がする。その時、光が部屋に満ちた。
「……予想より早く合流できたな」
聞こえてきたのは、リィンの声だ。光が消えて、リィンとライトの姿が見えた。フィアスが眩しがってないかが気になったけど、フィアスはちゃんと腕を上げて目をカバーしていたらしい。それをハザードにも是非教えてあげて欲しいと思う。
そういえば、ライトもいるけどフィアスのままで大丈夫なんだろうか。フィアスも気付いたのか、慌てたように俺の後ろに隠れている。ライトが首を傾げた。
「ハザード、眩しかったか? しょっちゅう光が起こるみたいだし、ゴーグルした方がいいんじゃないか?」
そういえば、その手があった。フィアスは何も言わず、目を逸らしている。
「う、うん……」
「ハザード?」
顔を覗きこまれて、フィアスは少し動揺しているようだ。俺とリィン以外の前に出る事はほとんどなかったし、初対面で緊張しているのかもしれない。俺もちょっとひやひやした。ここで何か揉め事が起きても大変だし。
「……ん? ハザードか? 何か変だな」
「そんな事は……」
「何かいつもよりちょっとだけ子どもっぽさがなくなってる気がする」
結構鋭い。フィアスも子どもっぽいといえば子どもっぽいけど、ハザードの方がより小さい子っていう感じだ。
「そいつはフィアスだ」
リィンがあっさりとそしてきっぱりと言った。フィアスが慌てている。ええと、これはちゃんと説明した方がいいのかな。そう思ってライトを見ると、ライトは頷いていた。
「……まあ、事情があるんだな? 俺はライトだ。よろしくな」
手を差し出されて、フィアスは少し困惑した。それでも、ゆっくりと差し出された手を握り返した。
ちょっと驚いたけど、リィンも少し意外そうな顔をしていた。
「……追究しないのか?」
「地元の知り合いに結構多いんだよ。一人の中に何人かいるっていう人。確か先祖とかが憑依とか。家によって理由が違ったりするらしいけど、結構複雑みたいだったし、あんまり深く聞かない方がいいだろ」
「……そっか、ライトの出身地はそういう文化が残ってるところだったね」
何か大きな事を成した先祖の魂が子孫の誰かに憑依する、という事が行われている家というのは、それなりにある。偉大な事を為したといっても普通の人の魂だし、それはそこまで長持ちするようなものじゃないから、途中で途絶えてしまったり、別の人が役割を継いだりしているらしい。憑依された人は先祖と折り合いが悪いととても辛い事になるらしいけれど、先祖から伝えられる事で残る伝統も決して少なくない。そういう家はいくつかの地域が固まっていて、俺の住んでいた地域にはそういう家は無かったっけ。
「何人もいる場合があるのか? かつてはそういう事も多いという話だったが」
「大抵は本人ともう一人くらいだったけど、本人に加えて三人くらいいる奴もいたな……」
「それは賑やかだな」
フィアスが想像したのか、ちょっと嫌そうな顔をした。寂しくなさそうだけど。ライトが、ふと首を傾げた。
「そういえば、途中で一人に戻った知り合いが一人いたっけ。ずっと憑依されてたんだけど、それが嫌でどこかに頼んで憑依をやめてもらった途端に身体が弱くなって、一年の半分は表に出られないくらいになったんだよ。家の人が言うには、元々身体が弱かったのを、憑依でどうにか少しは持ち直せるようにしたとか」
そういう逸話は、確かに本とかで読んだ事はある。実際にそこまでになるとは、思っていなかったけど。この空間を作り出した神殿長はライトの出身地と同じ地方の人物の可能性が高い。昔はもっと一般的に憑依が行われていたらしいし、もしかすると神殿長もそういう家に生まれたのかもしれない。
「……それ、さびしくないのかな?」
ぽつりと言ったのは、フィアスだった。ライトが困ったような顔をした。
「あー……そうだな。そいつ、憑依してた人としょっちゅう喧嘩とかしてたらしいけど……たまに見舞いに行くとさ、いつも少し寂しそうな顔をしてたよ。あれは、外で遊べなくなったからだってあの頃は思ってたけど、今思うと喧嘩ばかりしてた相手でも、急にいなくなると寂しくなるものなのかもな」
言ってから、急に眉を顰めた。リィンも同じような反応を示している。この二人、何だかんだで合わないというわけじゃないらしい。
「……ハザードに代わる」
「ん? 突然どうしたの?」
「……半分こだから」
ぽつりと言って、ふっとフィアスの身体から力が抜けた。雰囲気が変わった。ライトもそれに気付いたらしい。
「……ひょっとして嫌われてるんでしょうか?」
「いや、それはないと思うよ」
「んー……イル? あ、リィン、ライト」
ぱちぱちと瞬きしている。ハザードの頭を撫でて、とりあえず二人にこれまでの事情を話すべく、どういう順序で話すか考える。リィンは本棚を物色していた。とてもリィンらしい行動だ。
そうだ、話す前に、一つ聞いた方がいいだろう。
「二人とも、ここに来るまでに……」
言いかけた途端に、また部屋の中に光が現れた。流石にもう、慣れてきたけど。
<続く>
ぐるっと見渡してみて、思う。やっぱりこの雰囲気は神殿とよく似てる。上手く説明できない独特の雰囲気。ただ似ているけれど、いつもいる神殿よりも何だか少し静かなような、そんな雰囲気がした。神殿と違って人がいないから、というだけじゃないみたいだ。人がいない、と考えてから、思いついた。この雰囲気は静けさというよりも、どこか寂しさに似ているような気がした。
「寝室か? 結構明るいな」
「それじゃ、松明消す?」
「いや、また急に暗い所に飛ばされないとも限らないし、そのままでいいだろう。寝台に触る時とかは気をつけろよ」
「りょーかい」
火事になったら大変だ。逃げ場がないのは怖いと思う。ブライトは首を傾げた。
「扉とかは見当たらないな……。どこかに仕掛けがあるのか?」
「あの本に書いてないかな?」
「本か……」
ブライトは鏡をベッドに一度置いて、本を取った。気になるけど、本が燃えちゃったら困るから、近付かない方がいいかな。
窓はない。扉も入ってきた扉だけ。ブライトが閉めたみたいで、扉はしっかりと閉じていた。重そうに見える扉だけど、案外軽い扉だったっけ。それも神殿の扉に似てる。もしかしたら、昔の神殿長と何か関係があるのかもしれない。けど、それだと昔の神殿長と盗賊も関係があるのかな。盗賊のアジトにあった鏡からここまで来ちゃったし。
扉に近付いて、ちょっと気になった。顔の高さくらいの位置に、よく何かを引っかけるのに使う小さい鉤がついてる。そういえば、さっきこういうのを見たような気がする。ついさっき、だったのにすぐに思い出せない。ブライトの声が聞こえてきた。
「何か数行しか書いてないな……ん? 駄目だ、読めない。この文字、標準語じゃないな。どっかで見た文字なんだが……」
「あ、それじゃ、俺に見せてー」
俺は文字を読んだり言葉を話したりする能力をつけてもらったから、大体の本は読める。ただ、難しいと理解はできないんだけど。
ブライトと、松明と本を交換した。本に書いてある文字は読めるけど、どこの文字かはわからない。前にこの文字の詩を読んだ事もあるんだけど、どこの人が書いた詩なのかは思い出せなかった。
「えーと、『扉の真正面』『合わせ鏡で道が開く』……これだけ?」
ちょっと紙が勿体ない。他のページに何か書かれてるかもしれない、と思って頁を一枚一枚めくった。見えるのは、白紙のページばかり。けど途中に、手紙が挟まっていた。白い封筒だ。開けようとしたけど、開かない。
「とりあえず、合わせ鏡をやってみるか。この鏡を使うのか?」
ブライトが片手で鏡を持った。あ、思いだした。
「ブライト、扉のところに、鏡を引っ掛けられそうだよ」
「ん? ああ、本当だ。それにしても、もう一つ鏡が必要になるな……ああ、扉の真正面の壁を調べろって事か。セイ、そっちを調べてみてくれ」
「わかった!」
とりあえず、手紙はポケットに入れた。後で誰かに見てもらおう。本はとりあえず元の場所に戻しておけばいいよね。
壁をぺたぺた触ってると、一つゆるい煉瓦があった。顔くらいの位置の煉瓦だ。隙間に指を入れると、とっかかりがある。ぐいっと引くと、煉瓦が外れた。
「あ、鏡!」
「おお、丁度高さもぴったりだな」
合わせ鏡を見るのは初めてだ。覗き込んだ時、眩しい光が沸き起こった。
手紙は三通ほど見つけたけれど、これでも何か足りない気がする。その時、光が部屋に満ちた。
「……予想より早く合流できたな」
聞こえてきたのは、リィンの声だ。光が消えて、リィンとライトの姿が見えた。フィアスが眩しがってないかが気になったけど、フィアスはちゃんと腕を上げて目をカバーしていたらしい。それをハザードにも是非教えてあげて欲しいと思う。
そういえば、ライトもいるけどフィアスのままで大丈夫なんだろうか。フィアスも気付いたのか、慌てたように俺の後ろに隠れている。ライトが首を傾げた。
「ハザード、眩しかったか? しょっちゅう光が起こるみたいだし、ゴーグルした方がいいんじゃないか?」
そういえば、その手があった。フィアスは何も言わず、目を逸らしている。
「う、うん……」
「ハザード?」
顔を覗きこまれて、フィアスは少し動揺しているようだ。俺とリィン以外の前に出る事はほとんどなかったし、初対面で緊張しているのかもしれない。俺もちょっとひやひやした。ここで何か揉め事が起きても大変だし。
「……ん? ハザードか? 何か変だな」
「そんな事は……」
「何かいつもよりちょっとだけ子どもっぽさがなくなってる気がする」
結構鋭い。フィアスも子どもっぽいといえば子どもっぽいけど、ハザードの方がより小さい子っていう感じだ。
「そいつはフィアスだ」
リィンがあっさりとそしてきっぱりと言った。フィアスが慌てている。ええと、これはちゃんと説明した方がいいのかな。そう思ってライトを見ると、ライトは頷いていた。
「……まあ、事情があるんだな? 俺はライトだ。よろしくな」
手を差し出されて、フィアスは少し困惑した。それでも、ゆっくりと差し出された手を握り返した。
ちょっと驚いたけど、リィンも少し意外そうな顔をしていた。
「……追究しないのか?」
「地元の知り合いに結構多いんだよ。一人の中に何人かいるっていう人。確か先祖とかが憑依とか。家によって理由が違ったりするらしいけど、結構複雑みたいだったし、あんまり深く聞かない方がいいだろ」
「……そっか、ライトの出身地はそういう文化が残ってるところだったね」
何か大きな事を成した先祖の魂が子孫の誰かに憑依する、という事が行われている家というのは、それなりにある。偉大な事を為したといっても普通の人の魂だし、それはそこまで長持ちするようなものじゃないから、途中で途絶えてしまったり、別の人が役割を継いだりしているらしい。憑依された人は先祖と折り合いが悪いととても辛い事になるらしいけれど、先祖から伝えられる事で残る伝統も決して少なくない。そういう家はいくつかの地域が固まっていて、俺の住んでいた地域にはそういう家は無かったっけ。
「何人もいる場合があるのか? かつてはそういう事も多いという話だったが」
「大抵は本人ともう一人くらいだったけど、本人に加えて三人くらいいる奴もいたな……」
「それは賑やかだな」
フィアスが想像したのか、ちょっと嫌そうな顔をした。寂しくなさそうだけど。ライトが、ふと首を傾げた。
「そういえば、途中で一人に戻った知り合いが一人いたっけ。ずっと憑依されてたんだけど、それが嫌でどこかに頼んで憑依をやめてもらった途端に身体が弱くなって、一年の半分は表に出られないくらいになったんだよ。家の人が言うには、元々身体が弱かったのを、憑依でどうにか少しは持ち直せるようにしたとか」
そういう逸話は、確かに本とかで読んだ事はある。実際にそこまでになるとは、思っていなかったけど。この空間を作り出した神殿長はライトの出身地と同じ地方の人物の可能性が高い。昔はもっと一般的に憑依が行われていたらしいし、もしかすると神殿長もそういう家に生まれたのかもしれない。
「……それ、さびしくないのかな?」
ぽつりと言ったのは、フィアスだった。ライトが困ったような顔をした。
「あー……そうだな。そいつ、憑依してた人としょっちゅう喧嘩とかしてたらしいけど……たまに見舞いに行くとさ、いつも少し寂しそうな顔をしてたよ。あれは、外で遊べなくなったからだってあの頃は思ってたけど、今思うと喧嘩ばかりしてた相手でも、急にいなくなると寂しくなるものなのかもな」
言ってから、急に眉を顰めた。リィンも同じような反応を示している。この二人、何だかんだで合わないというわけじゃないらしい。
「……ハザードに代わる」
「ん? 突然どうしたの?」
「……半分こだから」
ぽつりと言って、ふっとフィアスの身体から力が抜けた。雰囲気が変わった。ライトもそれに気付いたらしい。
「……ひょっとして嫌われてるんでしょうか?」
「いや、それはないと思うよ」
「んー……イル? あ、リィン、ライト」
ぱちぱちと瞬きしている。ハザードの頭を撫でて、とりあえず二人にこれまでの事情を話すべく、どういう順序で話すか考える。リィンは本棚を物色していた。とてもリィンらしい行動だ。
そうだ、話す前に、一つ聞いた方がいいだろう。
「二人とも、ここに来るまでに……」
言いかけた途端に、また部屋の中に光が現れた。流石にもう、慣れてきたけど。
<続く>
光が収まってため息をついた。さして広い部屋ではない。扉がぽつんと設置されているだけの、他に何もない部屋だ。神殿の中にいる時と雰囲気がよく似ている。恐らく、かつての神殿長が創ったのだろう。なかなか遊び心のある人物だったようだ。イルと二人ならまだ楽しめたかもしれないが、現在一番近くにいるのが誰かと考えると、少しはその遊び心を自重しておけと毒づきたくなる。
ため息をついたら、別のため息と重なった。思わず嫌な顔をしたが、恐らく奴も同じ顔をしているだろうと思うと腹が立つ。目線だけを横に向けた。
「……よりによって、お前か」
「俺だって嫌だっつの。神殿長はご無事かな」
「あいつの事だからどうにかやるだろう」
後先考えずにうろうろする事もあるが、それでもたいていは自力で何とかするような奴だ。だが、万一他の場所にも効果を及ぼすような罠のようなものを発動させないとも限らない。だが、ここがかつての神殿長が創った場所ならば、イルの方が詳しく知っているかもしれない。どちらにせよ、早く合流した方がいいだろう。
扉を開けると、通路が二又に分かれているのがわかった。振り返り、ライトと目が合って眉を顰めた。
「……リィン、どっちにする?」
「……硬貨でも投げて決めればいいだろ」
「……表なら俺は右、裏ならリィンが右な」
指先で弾かれた硬貨は、表を上にして手の甲に納まった。
特に言葉も無く、左右に分かれた。ライトを挑発するのはそれなりに楽しいが、今はここから出る方が先決だろう。ライトをからかうのはいつでもできる。
通路もやはり神殿と似た雰囲気があった。それでも少しは違いがあるのは、見た目の違いだろう。或いは、同じ『神殿長』とはいえ個人差が出ているのかもしれない。こういうものに関する感覚にはさほど自信はないが、もう少し感受性の豊かな奴ならば違いについてもう少し詳しく論じる事ができるのかもしれない。
どこかに光源があるようには見えないが、通路は視界の確保に困らない程度には明るいようだった。足音をなるべく立てないように歩くのは癖のようなものだが、それでも他に音が無いので僅かな音でも良く響く。セイでもいたら声ですぐにわかるだろう。誰かと一緒にいれば喋っているだろうし、一人なら恐らく歌でも歌う。セイの声は歌人族だけあってか、よく響く声をしている。というよりは、声を響かせる発声法を心得ている、といった方が正確かもしれない。ライトの声も響きやすい声だが、流石に大声で独り言を言う癖はないようで、声は聞こえてこない。
さほど歩かぬ内に、行き止まりらしきところに突き当たった。壁に、何か取っ手のような物がついている。壁に文字も書かれていた。
『これを
引くと道が開かれる』
古いからか、文字の辺りも少し擦れている。この文字はどこかの地方で使われていた文字だ。どこの地方か、という事までは思い出せないが。とりあえず内容が理解できるのだから、問題はないだろう。
普通なら罠か何かだろうが、いくらなんでも『神殿長』がそんな事はしないだろう。もし罠だったらイルを殴る。
そんな事を考えながら、取っ手に手をかけた。
どことなく神殿に似た雰囲気の通路を暫く歩く。それ程歩かない内に、壁が見えてきた。
『 れを に
引くと道が開かれる』
壁に書かれた擦れた文字と、その下にある取っ手。少し文字の形が古いが、出身地で使われていた言語だ。古語も習っていたが、そこまで古くはないようで安心した。読めるといっても、やっぱり現在使われてる言語の方が読みやすい。
とりあえず、この取っ手を引けばいいらしい。手をかけて、力を込めて引く。がこん、と音がして、取っ手はそれ以上動かなくなった。だが、周囲を見ても特に異常が無い。
もしかして、別の場所に扉か何かが出るのだろうか。そういえば、学者に同行した時、たまにそういう仕掛けがあったような気がする。
他に行ける場所が無い以上、戻るしかない。もしかしたら、リィンが行った方向に扉か何かが出たのかもしれない。気は進まないが、仕方ないだろう。来た時よりも少し足を速める。
丁度分かれ道の根元に到達した時、丁度リィンも来たようだった。思わず顔を合わせてしまった。リィンは嫌そうな顔をしていたが、多分俺も嫌そうな顔をしていただろう。
「……そっちに扉が出たんじゃないのか?」
「……そっちでもなさそうだな。なら、部屋か」
部屋まで戻る。普通に歩いていると、何故か隣り合って歩く事になるので、歩調を少し上げる。身長も近いせいか、歩調も似たようなものらしい。それが何となく腹が立つ。
部屋に戻ると、丁度出てきた扉の真向かいに当たる壁に、扉が現れていた。何か文字のようなものが刻まれている。近付いて眺めてみると、やっぱり出身地で使われていた文字だった。ただ、わからなくて眉を顰める。
「……何だ? 文章として意味を成してないぞ?」
「単語を並べただけってわけでもないな。助詞とかが変な風に使われてる」
言ってから、また顔を見合わせて嫌になった。それでも、言いたい事はある。
「読めるのか?」
「ほとんどの言語の読みは自動的に標準語に訳される。会話はどういう原理かよくわからないが標準語のように聞こえるな。まあ、今は関係ないか。お前こそ読めるのか?」
「出身地で使われてた言語だからな」
だが、それでもこの文章は理解できない。ただ、そういえば昔、こんなわけのわからない文章を何度も読んでいたような気がする。確か、あれは……。
「あ、そうか」
「あ?」
「声に出して読んでみればいいんだよ。確か、標準語を習ったばかりの時に言葉遊びであったんだ。意味をなさない文章だけど、口に出してみると標準語では意味のある文章になるっていう奴」
「……地方言語と標準語をある程度使いこなせるという前提の下で成り立つ問題だな」
そう。だから標準語を覚えたばかりの頃はよくわからなかった。標準語で意味の無い言葉を読むと出身地の言葉では意味のある言葉になる、という逆のパターンならわりと得意だったんだけど。
「ああ。えーと……『ミギカラニバンメヒダリカラサンバンメイチバンミギ』」
「……『右から二番目、左から三番目、一番右』か」
「……どういう意味だ?」
「この先に関係があるんだろう」
リィンはきっぱり言って、扉を開けた。数歩進んで、あの文章の意味を知る。
「……こういう事か」
ずらりと並ぶ扉の数は五つ。さっきのはこういう事だったのだろう。間違った扉を開けたらどうなるのか、ちょっと気になる事は気になるが。
「右から二番目、だったな」
リィンは淡々と右から二番目の扉を開けた。
右から二番目の扉を開けて少し歩くと、今度は七つの扉が並んでいた。ここは左から三番目の扉が正解らしいが、間違った扉を開けたら何が起きるのだろう。ライトを騙して他の扉を開けさせようかとも思ったがやめた。ハザードはともかく、ライトは流石にそこまで記憶力は弱くなかった筈だ。騙す時は相手の能力を把握した上で確実に騙さなければ。
考えている間に、ライトが左から三番目の扉に手をかけた。
今更ながら、あの文章が正確だったのか疑問になったが、多分正確だろう。擦れていて一部がかけている、という可能性もないとは言い切れないが。
やがて、四つの扉が見えた。最初は五つ、次は七つ、最後は四つ。何の関係があるんだろうか。一番右の扉を開けると、これまでよりやや暗い通路に出た。全く見えないという程ではないが、これまでより視界は悪い。だが、そのせいか先の方で何かがぼんやりと光っているのがよくわかる。
やや広い空間に、三つの台座があった。仄かな光を放っている台座にはそれぞれ数字が書かれている。
「『扉の合計は?』だってさ」
壁を眺めながらライトが言った。そういう事か。随分と遊び心満載な人物だったらしい。
「十六は、これだな」
「……で、そこに手を翳せって事らしいけど」
ライトが答えるまで、少し時間がかかった。多分扉の数を覚えていなかったのだ。失敗した、先に答えさせておけばよかった。
「また飛ばされるのか」
「多分な」
だが、それ以上にやるべき事は見つからない。仕方なく手を翳そうとしたらライトの手とぶつかりかけて、睨みつけようとしたら向こうも同じ事を考えていたらしく、目が合ってしまった。
口を開く前に、光に包まれた。
<続く>
ため息をついたら、別のため息と重なった。思わず嫌な顔をしたが、恐らく奴も同じ顔をしているだろうと思うと腹が立つ。目線だけを横に向けた。
「……よりによって、お前か」
「俺だって嫌だっつの。神殿長はご無事かな」
「あいつの事だからどうにかやるだろう」
後先考えずにうろうろする事もあるが、それでもたいていは自力で何とかするような奴だ。だが、万一他の場所にも効果を及ぼすような罠のようなものを発動させないとも限らない。だが、ここがかつての神殿長が創った場所ならば、イルの方が詳しく知っているかもしれない。どちらにせよ、早く合流した方がいいだろう。
扉を開けると、通路が二又に分かれているのがわかった。振り返り、ライトと目が合って眉を顰めた。
「……リィン、どっちにする?」
「……硬貨でも投げて決めればいいだろ」
「……表なら俺は右、裏ならリィンが右な」
指先で弾かれた硬貨は、表を上にして手の甲に納まった。
特に言葉も無く、左右に分かれた。ライトを挑発するのはそれなりに楽しいが、今はここから出る方が先決だろう。ライトをからかうのはいつでもできる。
通路もやはり神殿と似た雰囲気があった。それでも少しは違いがあるのは、見た目の違いだろう。或いは、同じ『神殿長』とはいえ個人差が出ているのかもしれない。こういうものに関する感覚にはさほど自信はないが、もう少し感受性の豊かな奴ならば違いについてもう少し詳しく論じる事ができるのかもしれない。
どこかに光源があるようには見えないが、通路は視界の確保に困らない程度には明るいようだった。足音をなるべく立てないように歩くのは癖のようなものだが、それでも他に音が無いので僅かな音でも良く響く。セイでもいたら声ですぐにわかるだろう。誰かと一緒にいれば喋っているだろうし、一人なら恐らく歌でも歌う。セイの声は歌人族だけあってか、よく響く声をしている。というよりは、声を響かせる発声法を心得ている、といった方が正確かもしれない。ライトの声も響きやすい声だが、流石に大声で独り言を言う癖はないようで、声は聞こえてこない。
さほど歩かぬ内に、行き止まりらしきところに突き当たった。壁に、何か取っ手のような物がついている。壁に文字も書かれていた。
『これを
引くと道が開かれる』
古いからか、文字の辺りも少し擦れている。この文字はどこかの地方で使われていた文字だ。どこの地方か、という事までは思い出せないが。とりあえず内容が理解できるのだから、問題はないだろう。
普通なら罠か何かだろうが、いくらなんでも『神殿長』がそんな事はしないだろう。もし罠だったらイルを殴る。
そんな事を考えながら、取っ手に手をかけた。
どことなく神殿に似た雰囲気の通路を暫く歩く。それ程歩かない内に、壁が見えてきた。
『 れを に
引くと道が開かれる』
壁に書かれた擦れた文字と、その下にある取っ手。少し文字の形が古いが、出身地で使われていた言語だ。古語も習っていたが、そこまで古くはないようで安心した。読めるといっても、やっぱり現在使われてる言語の方が読みやすい。
とりあえず、この取っ手を引けばいいらしい。手をかけて、力を込めて引く。がこん、と音がして、取っ手はそれ以上動かなくなった。だが、周囲を見ても特に異常が無い。
もしかして、別の場所に扉か何かが出るのだろうか。そういえば、学者に同行した時、たまにそういう仕掛けがあったような気がする。
他に行ける場所が無い以上、戻るしかない。もしかしたら、リィンが行った方向に扉か何かが出たのかもしれない。気は進まないが、仕方ないだろう。来た時よりも少し足を速める。
丁度分かれ道の根元に到達した時、丁度リィンも来たようだった。思わず顔を合わせてしまった。リィンは嫌そうな顔をしていたが、多分俺も嫌そうな顔をしていただろう。
「……そっちに扉が出たんじゃないのか?」
「……そっちでもなさそうだな。なら、部屋か」
部屋まで戻る。普通に歩いていると、何故か隣り合って歩く事になるので、歩調を少し上げる。身長も近いせいか、歩調も似たようなものらしい。それが何となく腹が立つ。
部屋に戻ると、丁度出てきた扉の真向かいに当たる壁に、扉が現れていた。何か文字のようなものが刻まれている。近付いて眺めてみると、やっぱり出身地で使われていた文字だった。ただ、わからなくて眉を顰める。
「……何だ? 文章として意味を成してないぞ?」
「単語を並べただけってわけでもないな。助詞とかが変な風に使われてる」
言ってから、また顔を見合わせて嫌になった。それでも、言いたい事はある。
「読めるのか?」
「ほとんどの言語の読みは自動的に標準語に訳される。会話はどういう原理かよくわからないが標準語のように聞こえるな。まあ、今は関係ないか。お前こそ読めるのか?」
「出身地で使われてた言語だからな」
だが、それでもこの文章は理解できない。ただ、そういえば昔、こんなわけのわからない文章を何度も読んでいたような気がする。確か、あれは……。
「あ、そうか」
「あ?」
「声に出して読んでみればいいんだよ。確か、標準語を習ったばかりの時に言葉遊びであったんだ。意味をなさない文章だけど、口に出してみると標準語では意味のある文章になるっていう奴」
「……地方言語と標準語をある程度使いこなせるという前提の下で成り立つ問題だな」
そう。だから標準語を覚えたばかりの頃はよくわからなかった。標準語で意味の無い言葉を読むと出身地の言葉では意味のある言葉になる、という逆のパターンならわりと得意だったんだけど。
「ああ。えーと……『ミギカラニバンメヒダリカラサンバンメイチバンミギ』」
「……『右から二番目、左から三番目、一番右』か」
「……どういう意味だ?」
「この先に関係があるんだろう」
リィンはきっぱり言って、扉を開けた。数歩進んで、あの文章の意味を知る。
「……こういう事か」
ずらりと並ぶ扉の数は五つ。さっきのはこういう事だったのだろう。間違った扉を開けたらどうなるのか、ちょっと気になる事は気になるが。
「右から二番目、だったな」
リィンは淡々と右から二番目の扉を開けた。
右から二番目の扉を開けて少し歩くと、今度は七つの扉が並んでいた。ここは左から三番目の扉が正解らしいが、間違った扉を開けたら何が起きるのだろう。ライトを騙して他の扉を開けさせようかとも思ったがやめた。ハザードはともかく、ライトは流石にそこまで記憶力は弱くなかった筈だ。騙す時は相手の能力を把握した上で確実に騙さなければ。
考えている間に、ライトが左から三番目の扉に手をかけた。
今更ながら、あの文章が正確だったのか疑問になったが、多分正確だろう。擦れていて一部がかけている、という可能性もないとは言い切れないが。
やがて、四つの扉が見えた。最初は五つ、次は七つ、最後は四つ。何の関係があるんだろうか。一番右の扉を開けると、これまでよりやや暗い通路に出た。全く見えないという程ではないが、これまでより視界は悪い。だが、そのせいか先の方で何かがぼんやりと光っているのがよくわかる。
やや広い空間に、三つの台座があった。仄かな光を放っている台座にはそれぞれ数字が書かれている。
「『扉の合計は?』だってさ」
壁を眺めながらライトが言った。そういう事か。随分と遊び心満載な人物だったらしい。
「十六は、これだな」
「……で、そこに手を翳せって事らしいけど」
ライトが答えるまで、少し時間がかかった。多分扉の数を覚えていなかったのだ。失敗した、先に答えさせておけばよかった。
「また飛ばされるのか」
「多分な」
だが、それ以上にやるべき事は見つからない。仕方なく手を翳そうとしたらライトの手とぶつかりかけて、睨みつけようとしたら向こうも同じ事を考えていたらしく、目が合ってしまった。
口を開く前に、光に包まれた。
<続く>
また目がちかちかする。イルが頭をなでなでしてくれた。うれしい。
「ハザード、大丈夫?」
「うん」
「ここ、誰かの私室みたいな感じだね。本棚も机もあるし、寝台まであるし。ハザード、辛いならちょっと休む?」
「ううん。もうだいじょうぶ」
ちかちかもなおった。もうちかちかしてない。イルの顔も、ちゃんと見えた。きょろきょろして、だれもいないってわかった。
「他の子達とは離れ離れになったみたいだね。あの時近くにいたグループで分かれたんだとすると……リィンはライトと一緒かも」
「あう?」
リィンとライトはあんまりなかよしじゃない。よくケンカする。
「ケンカしちゃう?」
「大丈夫だよ。あの二人は何だかんだで……あれ? この本棚……」
イルはきょとんとして、本だなを見た。さわったりしてる。
「んー……無理かな。何かありそうなんだけど……うん? これは……」
イルは本だなの上からノートをとって、それを見ている。僕も見ようと思ったけど、むずかしくてわからない。
ブライトとかライトが言ってたことを思いだした。イルをまもるのが、僕たちのおしごと。今は僕しかいないから、僕がイルをまもらなきゃ。でも、僕でちゃんとイルのことまもれるかな。
「ハザード、どうかした? やっぱり辛い?」
イルは頭をなでなでしてくれる。イルはやさしい。でも、頭をなでなでしてくれるのは、子どもだからだってリィンが言ってた。子どもでも、イルをまもれるかな。
<……何やってんの?>
フィアスの声。今までねてたのかな。
あ、そうだ。
かつての神殿長が遺したらしい冊子を読み進めていると、突然ハザードの雰囲気が変わった。何回かあったことなので、もう何があったのかはわかってる。
「フィアス、どうしたの?」
「ハザードに頼まれた」
「何を?」
「いつも通りよくわからなかった。僕の方が強いから代わってって」
フィアスは首を傾げている。フィアスとハザードはあまり意志の疎通が出来ていないらしい。結構仲良しさんだと思っていたんだけど。まあ、疎通があまり出来なくても仲良くなれるか。
「何読んでるの?」
「かつての神殿長が遺した物なんだけど……うーん、日記かと思ったんだけど、ちょっと違うみたいだね」
フィアスはひょこりと覗いてきた。挙動はハザードと似ている。
「……なんて書いてあるの? これ、習ってる文字じゃないよね」
「うん。これはかつての神殿長の出身地の言語だろうね。結構昔のだからちょっと変わってきているかもしれないけど、ライトの地方が近いんじゃないかな」
「ふーん。何か、カクカクしてる」
フィアスの感想は素直なものだ。確かに、この地方の言語は文字で書くと結構角ばった文字が多い。俺やリィンの出身地方の文字は全体的に丸みを帯びているので、新鮮味があって面白いし、ちょっとカッコイイと思う。
「何て書いてあるの?」
「うーん……まだ途中だから何ともいえないんだけど、今のところ凄く自虐的な事ばかり書いてある。『どうしてこんな虚弱な僕が選ばれたんだろう。もっと健康な人ならみんなが安心できたのに。』みたいな感じで」
「……暗い人だったの?」
「病弱だったっていう話は聞いたけど、暗い人だっていう話は特に聞いた事が無いかな。もしかしたら、表面的には明るく振舞ってただけかもしれないけど」
「どうして明るい人のふりをするの?」
その直球な疑問に、すぐに答える事ができなかった。わからなかったからじゃなくて、わかってしまうから。
「……みんなに心配かけちゃいけないからだよ」
答えて、フィアスの頭を撫でる。この記述者は辛かったのだろう。明るく振る舞おうと、身体を壊していては心配を拭い去る事はできない。それでも暗い顔を見せてしまうわけにはいかないのだから。
「『神殿長』も大変だね」
フィアスは、寝台に腰掛けて断じた。
「どんな仕事も基本的には大変だと思うよ。仕事に打ち込む人が大変だと思うかどうかは別として。ある人には大変で辛い仕事も、他の人にとっては苦にならない仕事だったりもするし。合う合わないっていうのは、やっぱりあるんじゃないかな」
神殿にいる子の中でも、結構違いは出ている。ブライトは盗賊の討伐や害獣の討伐に行くのを楽しんでいるけれど、ライトはどちらかというと探索の方が好きらしい。セイは冒険に憧れてはいるけれど、やっぱり歌うのが一番好きで、他の国との交流の合唱はいつも張り切っている。
フィアスが、大きな赤い瞳をこちらに向けて首を傾げた。
「……それじゃ、イ……イルの、仕事は大変?」
俺は答えず、フィアスの頭をそっと撫でた。
頭をなでられるのはキライじゃない。答えてくれなかったけど、なんだか少しさびしそうな顔をしていた。だから、これ以上は聞かない方がいいんだろう。
しばらくして真剣な顔で本を読みはじめたから、邪魔はしない方がいいみたいだった。
でも、どうしてハザードは僕に代わったんだろう。さっき起きたばかりで、何があったのかわからない。ちゃんと説明してくれればいいのに、と思ったけど、ハザードにはまだ難しいのかもしれない。
邪魔はできないけど、ヒマなのはキライ。何か僕でも読める本がないかな。まだ子ども向けの本くらいしか読めないけど。
本棚を見て、何か変な気がした。リィン達の本棚にあるのと、ちょっと違う。棚の端をつかんでみると、ちょっとぐらぐらしてる。倒れるかな、と思ったけど、倒れたりはしないみたいだった。
「よいしょ……」
力を入れると、簡単に動いた。ごりごり、と音がする。
「うわ……凄い。力持ちだね」
そんなに力を入れてない。そう言う前に、笑顔でイルが続けた。
「俺もさっき頑張ったんだけど、全然動かなくてね」
「……力、ないね」
「う……まあ、そうなんだけど……あれ?」
イルは、本棚を動かしたあとを見て、きょとんとしている。僕もそっちを見て、ちょっとわからなくなった。
「……本棚?」
「本棚で本棚を隠すっていうのもなかなか面白いけどね」
「こういう時って、かくし扉があるんじゃないの?」
冒険みたいで、ちょっとわくわくしてたのに。
「ここにある本はそっちの本棚に入ってるのよりもちょっと古い本が多いみたいだね。隠す為じゃなくて保護する為だったのかも。或いは両方かな」
奥の本棚の本は、ぼろぼろなのもあった。さわると壊れそうで、ちょっと怖い。
「……この辺りが日記かな」
「日記……」
日記はたしか、ヒトが一日のことを書くものだ。毎日書くものらしい。ハザードも文字の練習に書き始めているけど、僕も半分書いてる。リィンは、僕の字の方がハザードの字より『まだマシ』だと言っていた。多分、ほめられてない。
ハザードは小さいから、高いところはよく見えない。目の高さにある本を見て、変な物に気づいた。
「ねえ、手紙があるよ」
「手紙? あ、本当だ」
本と本の間に、封筒がはさまってる。イルはそれを取った。キレイな手。ハザードの手は、ちょっと傷があったり、ぼこっとしてたりする。
「封はしてないね。差出人の名前も無い」
「手紙は誰かに送るものじゃないの?」
「普通はね。これは書置きみたいな物かな」
「かきおき?」
「俺がお出かけする時に残しておくような手紙だよ」
そういえば、リィンと遊びにいく、とか書いた紙を見つけて、よくハザードがめそめそしてたっけ。それが、『かきおき』か。
「或いは、出せなかった手紙っていう事も考えられるけどね」
「出せなかった? どうして?」
「色々考えられるけどね。手紙を書いたはいいけど相手の住所がわからないとか、書いてみたけどいざ送るとなるとちょっと恥ずかしいとか」
イルは封筒を開けた。他にも手紙はないのかな。背伸びしたりしゃがんだりして探してみるけど、見つからない。
「……どっちかというと、書置きに近いものだね。でも、この内容からすると他にも同じような手紙があるはずなんだけど」
「本棚見たけど、他にははさまってなさそう」
「うーん、でも、ここのどこかにあるとは思うんだけどね」
「どうして?」
イルが、面白そうに笑った。
「うん、この部屋から出られそうに無いからね」
「……それって、閉じ込められたってこと?」
これは、『きんきゅうじたい』というものじゃないのかな。
「そこを見てごらん?」
イルが指さしたのは、壁。長い四角の、ちょうどドアみたいな大きさの部分が他とちがう色になってる。
「一種の隠し扉だと思うんだけどね。何かをしたら扉が出来るんだと思う。その為に、この手紙が役に立ちそうなんだけど」
「まだわからない?」
「うん。だから、この部屋を探そう。フィアスも協力してくれるよね?」
「やる!」
前にハザードが『冒険小説』というのを読んでたとき、こんなことがあった。閉じこめられた部屋から逃げ出すシーンが、とても面白かった。
「よーし、それじゃ、早速いってみよう!」
「おー!」
冒険ゴッコは初めてだ。いつもハザードは神殿で冒険ゴッコしてるし、今日くらいは僕が冒険ゴッコしてもいいよね?
<続く>
「ハザード、大丈夫?」
「うん」
「ここ、誰かの私室みたいな感じだね。本棚も机もあるし、寝台まであるし。ハザード、辛いならちょっと休む?」
「ううん。もうだいじょうぶ」
ちかちかもなおった。もうちかちかしてない。イルの顔も、ちゃんと見えた。きょろきょろして、だれもいないってわかった。
「他の子達とは離れ離れになったみたいだね。あの時近くにいたグループで分かれたんだとすると……リィンはライトと一緒かも」
「あう?」
リィンとライトはあんまりなかよしじゃない。よくケンカする。
「ケンカしちゃう?」
「大丈夫だよ。あの二人は何だかんだで……あれ? この本棚……」
イルはきょとんとして、本だなを見た。さわったりしてる。
「んー……無理かな。何かありそうなんだけど……うん? これは……」
イルは本だなの上からノートをとって、それを見ている。僕も見ようと思ったけど、むずかしくてわからない。
ブライトとかライトが言ってたことを思いだした。イルをまもるのが、僕たちのおしごと。今は僕しかいないから、僕がイルをまもらなきゃ。でも、僕でちゃんとイルのことまもれるかな。
「ハザード、どうかした? やっぱり辛い?」
イルは頭をなでなでしてくれる。イルはやさしい。でも、頭をなでなでしてくれるのは、子どもだからだってリィンが言ってた。子どもでも、イルをまもれるかな。
<……何やってんの?>
フィアスの声。今までねてたのかな。
あ、そうだ。
かつての神殿長が遺したらしい冊子を読み進めていると、突然ハザードの雰囲気が変わった。何回かあったことなので、もう何があったのかはわかってる。
「フィアス、どうしたの?」
「ハザードに頼まれた」
「何を?」
「いつも通りよくわからなかった。僕の方が強いから代わってって」
フィアスは首を傾げている。フィアスとハザードはあまり意志の疎通が出来ていないらしい。結構仲良しさんだと思っていたんだけど。まあ、疎通があまり出来なくても仲良くなれるか。
「何読んでるの?」
「かつての神殿長が遺した物なんだけど……うーん、日記かと思ったんだけど、ちょっと違うみたいだね」
フィアスはひょこりと覗いてきた。挙動はハザードと似ている。
「……なんて書いてあるの? これ、習ってる文字じゃないよね」
「うん。これはかつての神殿長の出身地の言語だろうね。結構昔のだからちょっと変わってきているかもしれないけど、ライトの地方が近いんじゃないかな」
「ふーん。何か、カクカクしてる」
フィアスの感想は素直なものだ。確かに、この地方の言語は文字で書くと結構角ばった文字が多い。俺やリィンの出身地方の文字は全体的に丸みを帯びているので、新鮮味があって面白いし、ちょっとカッコイイと思う。
「何て書いてあるの?」
「うーん……まだ途中だから何ともいえないんだけど、今のところ凄く自虐的な事ばかり書いてある。『どうしてこんな虚弱な僕が選ばれたんだろう。もっと健康な人ならみんなが安心できたのに。』みたいな感じで」
「……暗い人だったの?」
「病弱だったっていう話は聞いたけど、暗い人だっていう話は特に聞いた事が無いかな。もしかしたら、表面的には明るく振舞ってただけかもしれないけど」
「どうして明るい人のふりをするの?」
その直球な疑問に、すぐに答える事ができなかった。わからなかったからじゃなくて、わかってしまうから。
「……みんなに心配かけちゃいけないからだよ」
答えて、フィアスの頭を撫でる。この記述者は辛かったのだろう。明るく振る舞おうと、身体を壊していては心配を拭い去る事はできない。それでも暗い顔を見せてしまうわけにはいかないのだから。
「『神殿長』も大変だね」
フィアスは、寝台に腰掛けて断じた。
「どんな仕事も基本的には大変だと思うよ。仕事に打ち込む人が大変だと思うかどうかは別として。ある人には大変で辛い仕事も、他の人にとっては苦にならない仕事だったりもするし。合う合わないっていうのは、やっぱりあるんじゃないかな」
神殿にいる子の中でも、結構違いは出ている。ブライトは盗賊の討伐や害獣の討伐に行くのを楽しんでいるけれど、ライトはどちらかというと探索の方が好きらしい。セイは冒険に憧れてはいるけれど、やっぱり歌うのが一番好きで、他の国との交流の合唱はいつも張り切っている。
フィアスが、大きな赤い瞳をこちらに向けて首を傾げた。
「……それじゃ、イ……イルの、仕事は大変?」
俺は答えず、フィアスの頭をそっと撫でた。
頭をなでられるのはキライじゃない。答えてくれなかったけど、なんだか少しさびしそうな顔をしていた。だから、これ以上は聞かない方がいいんだろう。
しばらくして真剣な顔で本を読みはじめたから、邪魔はしない方がいいみたいだった。
でも、どうしてハザードは僕に代わったんだろう。さっき起きたばかりで、何があったのかわからない。ちゃんと説明してくれればいいのに、と思ったけど、ハザードにはまだ難しいのかもしれない。
邪魔はできないけど、ヒマなのはキライ。何か僕でも読める本がないかな。まだ子ども向けの本くらいしか読めないけど。
本棚を見て、何か変な気がした。リィン達の本棚にあるのと、ちょっと違う。棚の端をつかんでみると、ちょっとぐらぐらしてる。倒れるかな、と思ったけど、倒れたりはしないみたいだった。
「よいしょ……」
力を入れると、簡単に動いた。ごりごり、と音がする。
「うわ……凄い。力持ちだね」
そんなに力を入れてない。そう言う前に、笑顔でイルが続けた。
「俺もさっき頑張ったんだけど、全然動かなくてね」
「……力、ないね」
「う……まあ、そうなんだけど……あれ?」
イルは、本棚を動かしたあとを見て、きょとんとしている。僕もそっちを見て、ちょっとわからなくなった。
「……本棚?」
「本棚で本棚を隠すっていうのもなかなか面白いけどね」
「こういう時って、かくし扉があるんじゃないの?」
冒険みたいで、ちょっとわくわくしてたのに。
「ここにある本はそっちの本棚に入ってるのよりもちょっと古い本が多いみたいだね。隠す為じゃなくて保護する為だったのかも。或いは両方かな」
奥の本棚の本は、ぼろぼろなのもあった。さわると壊れそうで、ちょっと怖い。
「……この辺りが日記かな」
「日記……」
日記はたしか、ヒトが一日のことを書くものだ。毎日書くものらしい。ハザードも文字の練習に書き始めているけど、僕も半分書いてる。リィンは、僕の字の方がハザードの字より『まだマシ』だと言っていた。多分、ほめられてない。
ハザードは小さいから、高いところはよく見えない。目の高さにある本を見て、変な物に気づいた。
「ねえ、手紙があるよ」
「手紙? あ、本当だ」
本と本の間に、封筒がはさまってる。イルはそれを取った。キレイな手。ハザードの手は、ちょっと傷があったり、ぼこっとしてたりする。
「封はしてないね。差出人の名前も無い」
「手紙は誰かに送るものじゃないの?」
「普通はね。これは書置きみたいな物かな」
「かきおき?」
「俺がお出かけする時に残しておくような手紙だよ」
そういえば、リィンと遊びにいく、とか書いた紙を見つけて、よくハザードがめそめそしてたっけ。それが、『かきおき』か。
「或いは、出せなかった手紙っていう事も考えられるけどね」
「出せなかった? どうして?」
「色々考えられるけどね。手紙を書いたはいいけど相手の住所がわからないとか、書いてみたけどいざ送るとなるとちょっと恥ずかしいとか」
イルは封筒を開けた。他にも手紙はないのかな。背伸びしたりしゃがんだりして探してみるけど、見つからない。
「……どっちかというと、書置きに近いものだね。でも、この内容からすると他にも同じような手紙があるはずなんだけど」
「本棚見たけど、他にははさまってなさそう」
「うーん、でも、ここのどこかにあるとは思うんだけどね」
「どうして?」
イルが、面白そうに笑った。
「うん、この部屋から出られそうに無いからね」
「……それって、閉じ込められたってこと?」
これは、『きんきゅうじたい』というものじゃないのかな。
「そこを見てごらん?」
イルが指さしたのは、壁。長い四角の、ちょうどドアみたいな大きさの部分が他とちがう色になってる。
「一種の隠し扉だと思うんだけどね。何かをしたら扉が出来るんだと思う。その為に、この手紙が役に立ちそうなんだけど」
「まだわからない?」
「うん。だから、この部屋を探そう。フィアスも協力してくれるよね?」
「やる!」
前にハザードが『冒険小説』というのを読んでたとき、こんなことがあった。閉じこめられた部屋から逃げ出すシーンが、とても面白かった。
「よーし、それじゃ、早速いってみよう!」
「おー!」
冒険ゴッコは初めてだ。いつもハザードは神殿で冒険ゴッコしてるし、今日くらいは僕が冒険ゴッコしてもいいよね?
<続く>
目を開けると、奇妙な空間にいた。神殿に近い雰囲気がある、円状の部屋だ。壁際には台座がある。数は三つ、円周上に等間隔に並んでいる。
「ここ、どこだろう?」
「知るか」
イルは首を傾げて考え込んでいる。その時、突然奇妙な光が部屋の中央辺りに現れた。
暫くして現れた光が収まると、見慣れたというか、もはや見飽きてきた姿が見えた。小さな白い少年が真っ先に駆け寄ってくる。
「リィン、イル!」
「あれ? どうしたの?」
少年はイルに抱きついた。いちいち睨まなくてもこっちに来なくなったのだから、どうやら学習機能というものはある程度存在していたらしい。それはそこそこに喜ばしい事だ。
ブライトが周囲を見渡し、ため息をついた。
「……どうなってんだ?」
「知るか」
ブライトは「お前ならそう言うと思ったよ」とまたため息をついた。ハザードは、イルにしがみつきながら片手で目をしきりに擦っている。
「目がちかちかする……」
「擦っちゃ駄目だよ。ちょっとしたら元に戻るから」
「あう……」
不意に、奇妙な音が響いた。
「あれ? 何か光ってる」
「セイ、無闇に近付くなよ」
セイが駆け寄ったのは台座の一つ。保護者のようにブライトがそれについていく。
「イル、あっちも光ってるよ」
「ああ、本当だ」
別の台座にイルとハザードが歩み寄る。残った一つの台座も、光を放ち始めていた。気になって見に行くと、同じく気になったらしいライトもいやがった。
「……別のところに行けよ」
「……そっちこそ」
うんざりした時、台座が放つ光が急速に強くなり、視界が白く染まった。
またしても光に包まれて、気がついたら通路のような場所にいた。手に持ったままだった松明を翳す。先程までいた洞窟よりも広い通路は、どことなく神殿に似ているが、神殿よりも古い感じがする。
「ここどこだろう?」
セイがきょろきょろとしていた。凛とした美声はよく響く。
「わかったら苦労はないな。とりあえず、俺達が変な場所に飛ばされたって事は、神殿長達にも何かあった……って考えられるよな」
「神殿長大丈夫かなー?」
「あの時近くにいたのはハザードか……」
一応ナイフなどの武器の扱いはそれなりに上手い。実戦の経験もそれなりにあるらしく、実戦形式の勝負でもそれなりに怯まずやっている。ただ、だから安心だとは言えない。
「……ねえ、それじゃもしかして、リィンとライトが一緒にいるの?」
「……あー……」
そういえば、最後にちらりと見えた時、あの二人が珍しく近くにいたような気もする。
「それなら、二人が近くにいたら簡単に見つけられるね。二人の喧嘩の声を辿ればいいんだから」
「近くにいれば、な。ま、あの二人が一緒にいるとも限らない」
あの二人を一緒にしておくくらいなら、一人ずつにしておいた方が効率はよさそうな気もする。ライトはともかく、リィンが二人一緒という状況に妥協するかわからないし。
「とりあえず、ここにいても仕方ないな」
「そうだね」
とは言っても、俺達が現在いるのは通路の半ば。前にも後にも先が見えないくらいの通路が続いている。二手に分かれるのは流石に不安が残る。
「どっちが先に続いてるんだろうな?」
「んー、ちょっと待って」
セイは前を向いて口の横に手を添え、歌の練習の前にやる発声のような声を発した。いつも思うが、こんなに長々と声を出し続けてどうしてぶれがないのだろう。普段の話し声よりも朗々とした声は、いつもより遥かに良く響く。十五秒ほどそれを続けて、今度は逆の方を向いた。同じ事を繰り返す。そして、同じく十五秒ほど経った時、顔を上げた。
「んーと、こっちは広い空間に出るみたい。あっちは、どっかで行き止まりか扉に当たると思うよ」
「よくわかるな」
音の反響を利用している、というのは知っている。だが、知っているがそれを実行するにはそれなりに耳が良くないと無理だろう。
「どっちがいい?」
「とりあえず、広い空間に出てみよう」
「了解っ」
明快な声はよく響く。張り切るその姿を眺めて、セイが神殿に来たばかりの頃を思い出した。明るさは変わっていないが、そういえば少しだけ大人びたような気もする。
「ブライト?」
「セイも成長してるんだな」
「あ、それ、すっごく失礼!」
「あはは、悪い悪い」
頭をぐりぐりと撫でて笑う。ほとんど毎日のように一緒にいるから、あまり意識した事が無いが、この年頃の少年が全く成長しないわけが無いのだろう。
「……若いなぁ」
「ブライトだって若いんじゃないの?」
神殿にいる中では比較的若い方だ。だが、それでも若すぎるセイ達と比べると色々とある。自分があの年頃の時、何をしていたかを思い出すと、ちょっと神殿長に顔向けできない心境になる。セイやハザード、ライトにはちょっと言えそうにない。
セイの鼻歌を聴きながら暫く歩いていくと、言葉通りやや広い空間に出た。やっぱりどこか神殿に似ている、というのが第一印象だ。
そこそこの広い空間だが扉はなく、先に続くような通路もない。目に止まる物は鏡くらいのものだった。あの洞窟にあった鏡とどこか似ているような気もする。
「あの鏡と似てるね」
セイもそう言って、今度は流石に近付こうとしなかった。暫く眺めて、一つ思い出す。
「セイ、前に聞こえた不思議な音は聞こえるか?」
「聞こえないよ」
セイが聞こえないと言うのなら、多分音がしていないと判断していいだろう。
一応用心しつつ鏡に近付く。どうやら、取り外せるようだ。
「神殿長にこの鏡を調べてもらった方がいいかもしれないな」
「持っていっても大丈夫なのかな?」
「多分な」
持って行かれて困るなら、簡単な固定くらいはされている筈だ。それすらないのだから、取り外しても問題はないだろう。
「罠って可能性もあるが、とりあえずやってみるか」
「何か探検みたいだね!」
「みたいっていうか、探索が仕事だからな。ちょっと松明持っててくれ」
鏡の大きさは人の顔が四つ入るくらいのものだ。縁を持って、慎重に外す。見た目の割に軽い気がした。鏡というのはもう少し重いものな気もするが。
「こっちはこれ以上何もないな。反対側に行ってみよう」
「うん! あ、鏡持とうか?」
「……いや、そのまま松明を持っててくれ」
役目を得て喜ぶセイに『セイなら落としそうだから』という言葉を正直に投げかけるほど、俺は非情な人間ではないようだった。
「でも、この先が行き止まりだったらどうする?」
「それは行き止まりだった時に考えようぜ」
「そっか、そうだね!」
セイは弾むように歩く。やっぱり鏡を持たせなくて良かった。いや、鏡を持たせたらもう少し静かに歩いたかもしれないが。
「神殿長もハザードも、大丈夫かな? あ、でも、ハザードは強い子だから大丈夫だよね!」
「強い子って、同い年だろ」
「俺の方がちょっとだけお兄さんだよ」
妙なこだわりだ。だが、セイはハザードが来るまでは最年少だったのだから、弟ができたようで嬉しいのだろう。
「ライトやリィンの心配はしないのか?」
「だって、多分二人なら大丈夫だし。あ、でも、えーと、『どうしうち』しそうかも!」
「そもそも互いに『同士』と思ってるかは疑問だけどな」
一応同じく神殿に所属している仲間ではあるんだろう。リィンは確実に嫌そうな顔をするだろうが。
「神殿長は大丈夫かな?」
「多分、大丈夫だって本人は言うだろうな。あの人は基本的に何でもそれで済ませそうな気がする」
「神殿長が大丈夫って言ったら大丈夫なの?」
「誘拐されようが大丈夫って言うような人だからな……」
正直、あまり信憑性はない。いや、この言い方は正しくない。本人は、多分心から自分は大丈夫だと思っているんだろう。ただそれが、普通の人なら大丈夫だと思わないような状況であったとしても。大抵の事には動じない精神力、といえば聞こえはいいのだが、それは言い方を変えれば……。
「あ、扉だ!」
セイの声が響いた。松明の明かりで照らされた先には、確かに扉がある。やはり、どこか神殿に似ている気がした。装飾だとかはまるで違うのだけど、何となく雰囲気が似ているような気がする。
「……とにかく、行くか」
「うん!」
セイが明るく答えて、扉を開いた。
<続く>
「ここ、どこだろう?」
「知るか」
イルは首を傾げて考え込んでいる。その時、突然奇妙な光が部屋の中央辺りに現れた。
暫くして現れた光が収まると、見慣れたというか、もはや見飽きてきた姿が見えた。小さな白い少年が真っ先に駆け寄ってくる。
「リィン、イル!」
「あれ? どうしたの?」
少年はイルに抱きついた。いちいち睨まなくてもこっちに来なくなったのだから、どうやら学習機能というものはある程度存在していたらしい。それはそこそこに喜ばしい事だ。
ブライトが周囲を見渡し、ため息をついた。
「……どうなってんだ?」
「知るか」
ブライトは「お前ならそう言うと思ったよ」とまたため息をついた。ハザードは、イルにしがみつきながら片手で目をしきりに擦っている。
「目がちかちかする……」
「擦っちゃ駄目だよ。ちょっとしたら元に戻るから」
「あう……」
不意に、奇妙な音が響いた。
「あれ? 何か光ってる」
「セイ、無闇に近付くなよ」
セイが駆け寄ったのは台座の一つ。保護者のようにブライトがそれについていく。
「イル、あっちも光ってるよ」
「ああ、本当だ」
別の台座にイルとハザードが歩み寄る。残った一つの台座も、光を放ち始めていた。気になって見に行くと、同じく気になったらしいライトもいやがった。
「……別のところに行けよ」
「……そっちこそ」
うんざりした時、台座が放つ光が急速に強くなり、視界が白く染まった。
またしても光に包まれて、気がついたら通路のような場所にいた。手に持ったままだった松明を翳す。先程までいた洞窟よりも広い通路は、どことなく神殿に似ているが、神殿よりも古い感じがする。
「ここどこだろう?」
セイがきょろきょろとしていた。凛とした美声はよく響く。
「わかったら苦労はないな。とりあえず、俺達が変な場所に飛ばされたって事は、神殿長達にも何かあった……って考えられるよな」
「神殿長大丈夫かなー?」
「あの時近くにいたのはハザードか……」
一応ナイフなどの武器の扱いはそれなりに上手い。実戦の経験もそれなりにあるらしく、実戦形式の勝負でもそれなりに怯まずやっている。ただ、だから安心だとは言えない。
「……ねえ、それじゃもしかして、リィンとライトが一緒にいるの?」
「……あー……」
そういえば、最後にちらりと見えた時、あの二人が珍しく近くにいたような気もする。
「それなら、二人が近くにいたら簡単に見つけられるね。二人の喧嘩の声を辿ればいいんだから」
「近くにいれば、な。ま、あの二人が一緒にいるとも限らない」
あの二人を一緒にしておくくらいなら、一人ずつにしておいた方が効率はよさそうな気もする。ライトはともかく、リィンが二人一緒という状況に妥協するかわからないし。
「とりあえず、ここにいても仕方ないな」
「そうだね」
とは言っても、俺達が現在いるのは通路の半ば。前にも後にも先が見えないくらいの通路が続いている。二手に分かれるのは流石に不安が残る。
「どっちが先に続いてるんだろうな?」
「んー、ちょっと待って」
セイは前を向いて口の横に手を添え、歌の練習の前にやる発声のような声を発した。いつも思うが、こんなに長々と声を出し続けてどうしてぶれがないのだろう。普段の話し声よりも朗々とした声は、いつもより遥かに良く響く。十五秒ほどそれを続けて、今度は逆の方を向いた。同じ事を繰り返す。そして、同じく十五秒ほど経った時、顔を上げた。
「んーと、こっちは広い空間に出るみたい。あっちは、どっかで行き止まりか扉に当たると思うよ」
「よくわかるな」
音の反響を利用している、というのは知っている。だが、知っているがそれを実行するにはそれなりに耳が良くないと無理だろう。
「どっちがいい?」
「とりあえず、広い空間に出てみよう」
「了解っ」
明快な声はよく響く。張り切るその姿を眺めて、セイが神殿に来たばかりの頃を思い出した。明るさは変わっていないが、そういえば少しだけ大人びたような気もする。
「ブライト?」
「セイも成長してるんだな」
「あ、それ、すっごく失礼!」
「あはは、悪い悪い」
頭をぐりぐりと撫でて笑う。ほとんど毎日のように一緒にいるから、あまり意識した事が無いが、この年頃の少年が全く成長しないわけが無いのだろう。
「……若いなぁ」
「ブライトだって若いんじゃないの?」
神殿にいる中では比較的若い方だ。だが、それでも若すぎるセイ達と比べると色々とある。自分があの年頃の時、何をしていたかを思い出すと、ちょっと神殿長に顔向けできない心境になる。セイやハザード、ライトにはちょっと言えそうにない。
セイの鼻歌を聴きながら暫く歩いていくと、言葉通りやや広い空間に出た。やっぱりどこか神殿に似ている、というのが第一印象だ。
そこそこの広い空間だが扉はなく、先に続くような通路もない。目に止まる物は鏡くらいのものだった。あの洞窟にあった鏡とどこか似ているような気もする。
「あの鏡と似てるね」
セイもそう言って、今度は流石に近付こうとしなかった。暫く眺めて、一つ思い出す。
「セイ、前に聞こえた不思議な音は聞こえるか?」
「聞こえないよ」
セイが聞こえないと言うのなら、多分音がしていないと判断していいだろう。
一応用心しつつ鏡に近付く。どうやら、取り外せるようだ。
「神殿長にこの鏡を調べてもらった方がいいかもしれないな」
「持っていっても大丈夫なのかな?」
「多分な」
持って行かれて困るなら、簡単な固定くらいはされている筈だ。それすらないのだから、取り外しても問題はないだろう。
「罠って可能性もあるが、とりあえずやってみるか」
「何か探検みたいだね!」
「みたいっていうか、探索が仕事だからな。ちょっと松明持っててくれ」
鏡の大きさは人の顔が四つ入るくらいのものだ。縁を持って、慎重に外す。見た目の割に軽い気がした。鏡というのはもう少し重いものな気もするが。
「こっちはこれ以上何もないな。反対側に行ってみよう」
「うん! あ、鏡持とうか?」
「……いや、そのまま松明を持っててくれ」
役目を得て喜ぶセイに『セイなら落としそうだから』という言葉を正直に投げかけるほど、俺は非情な人間ではないようだった。
「でも、この先が行き止まりだったらどうする?」
「それは行き止まりだった時に考えようぜ」
「そっか、そうだね!」
セイは弾むように歩く。やっぱり鏡を持たせなくて良かった。いや、鏡を持たせたらもう少し静かに歩いたかもしれないが。
「神殿長もハザードも、大丈夫かな? あ、でも、ハザードは強い子だから大丈夫だよね!」
「強い子って、同い年だろ」
「俺の方がちょっとだけお兄さんだよ」
妙なこだわりだ。だが、セイはハザードが来るまでは最年少だったのだから、弟ができたようで嬉しいのだろう。
「ライトやリィンの心配はしないのか?」
「だって、多分二人なら大丈夫だし。あ、でも、えーと、『どうしうち』しそうかも!」
「そもそも互いに『同士』と思ってるかは疑問だけどな」
一応同じく神殿に所属している仲間ではあるんだろう。リィンは確実に嫌そうな顔をするだろうが。
「神殿長は大丈夫かな?」
「多分、大丈夫だって本人は言うだろうな。あの人は基本的に何でもそれで済ませそうな気がする」
「神殿長が大丈夫って言ったら大丈夫なの?」
「誘拐されようが大丈夫って言うような人だからな……」
正直、あまり信憑性はない。いや、この言い方は正しくない。本人は、多分心から自分は大丈夫だと思っているんだろう。ただそれが、普通の人なら大丈夫だと思わないような状況であったとしても。大抵の事には動じない精神力、といえば聞こえはいいのだが、それは言い方を変えれば……。
「あ、扉だ!」
セイの声が響いた。松明の明かりで照らされた先には、確かに扉がある。やはり、どこか神殿に似ている気がした。装飾だとかはまるで違うのだけど、何となく雰囲気が似ているような気がする。
「……とにかく、行くか」
「うん!」
セイが明るく答えて、扉を開いた。
<続く>
イルに本を借りようと私室に行くと、イルは「丁度良かった」と笑った。
「リィン、久々に遺跡探索に行かない?」
「どこの遺跡だ?」
「ずっと昔の神殿長が神殿とは別に建物を創ったんだって。確か……療養所みたいな所だって話だけど。その時代の神殿長はかなり身体が弱い人だったみたい」
「お前に言われるほどなのか?」
尋ねるとイルは首を傾げた。
「俺は腕力とかはないけど、体はそこまで弱くない……と思うよ? たまに熱が出るけど」
「補正がかかってそれだろう? 充分弱いと思うが」
「あー……そういえば、神殿長になる前は結構よく熱とか出してたっけ。でも、その時代の神殿長はそれでも身体が弱かったんだから、相当だと思うよ」
それもそうか。或いは、こいつは無駄に『力』の有り余っている『神殿長』だから、他の神殿長と比べるのが間違っているのかもしれない。
「で、場所は?」
「この、山の麓。反対側にも探検できそうなところがあるんだけど、こっちは元盗賊のアジトの洞窟って話で、あんまり面白そうじゃないんだ」
「昔の神殿長の療養所とやらは面白いのか?」
「それがさ、その神殿長、結構謎が多い人なんだ。お墓がどこにあるのか見つかってないし、スノウさん達に聞いても魂の行方がわからないんだって」
それは、確かに面白そうではある。
「それで、療養中に書いた日記がその療養所に残ってるかもしれないんだ」
「日記か……いつも思うんだが、神殿長は日記をつけるのが義務なのか? それとも単に全員の趣味が一致しているだけか?」
まさか、日記を付ける習慣のある者が神殿長に選ばれる、なんて馬鹿げた事はないだろう。いくらこの世界が馬鹿げているとはいっても。
「多分、毎日退屈だからじゃない?」
「……日記が退屈しのぎになるか? そもそも、退屈な事しかないなら日記だって退屈なものになるだろう」
「そうじゃなくてさ。『神殿長ってそんなにいいものじゃないんだよ』って訴える為に書く、みたいな」
「……お前の場合はそうなのか?」
「まあね。でも他の人のを読んでても、結構悩みとか書いてあるよ。中には、最初は凄く喜んで神殿長をやっていたけど、段々月日が経って晩年になると毎日同じ三行の文章を残すだけになる人もいるし」
「それは読みたいところだな」
「最初から最後まで読もうと思うと、結構時間かかるよ」
それは承知している。何せ、数百年生きるとまで言われている『神殿長』の日記だ。さぞ読み応えがあるだろう。それに、一応は『一個人の』日記だ。読める者はごく限られている。神殿などという面倒な機関に所属しているのだから、それくらいのメリットがなければやっていけない。まあ、神殿の一員としてちゃんとやっているかと言われれば、答えは否であるわけだが。
「だが、何故急にその遺跡が気になったんだ?」
「んー……なんか、夢に出てきたんだよね」
「夢?」
「そう。こっちの、盗賊がいたっていう洞窟には三日前に行った事があるんだけど、その時から変な夢を見るんだよ。最初は山の上にある町にいて、『ああ、洞窟に行ったからその夢かな』って思ったんだけど、洞窟があった方とは反対の方に降りていったんだよ。そこで目が覚めて。次はその続きで山道を降りていて、白い建物が見えたところまで。で、今日起きる前に見た夢が、その建物に入る夢だったんだ」
「……なるほどな」
夢なんてものは、普通は大して当てになるようなものではない。だがこいつの場合は、少しばかり事情が違う。ただの夢、という事もあるが、こういう不自然な夢を見る場合は恐らく何かあるのだろう。
「……仕方ねえな。行くか」
「やった。あ、ハザードはどうする? 調査が長引くかもしれないけど」
「置いていく」
「……予想通りといえばそうだけど……まあ、ハザードにはちょっと合わないかもしれないし、やめた方がいいか。俺とリィンが調べ物してる間、じっとしてても退屈だろうし」
かといって、調査を手伝えるほど知識があるわけでもない。療養所がどれくらいの規模なのかは知らないが、広さによってはいるだけ邪魔だろう。いや、広さに関係なくいるだけ邪魔なのだが。
とりあえず、退屈しのぎはできそうだ。
荷物の確認をして、一息ついた。今日はハザードも連れての仕事になる。仕事といっても、昔盗賊のアジトとして使われていた洞窟の探索という、特に重要というわけでもない仕事だ。三日前に簡単な調査はしてあるので、危険もないだろうという話だ。俺としては物足りないが。
ハザードを連れて行く事にしたのは、洞窟というものはあまり日の当たらない場所だからだ。神殿長とリィンが遺跡探索に出かけてしまっているので任されてしまった。まあ、そろそろどんな仕事があるのかを教える必要もある。丁度いいだろう。セイも一緒だし。
ライトはこれから行く洞窟に住んでいたという盗賊の話を図書館員から聞いている、というか、聞かされているといった方が正確か。真面目なので、一応メモを取っているようだった。後ろからメモを覗いて、眉を顰める。字が汚いとかそういうのではなく、そもそも読めない。まず標準語じゃないだろう。多分、ライトの出身地方の文字だ。
「ハザード、日よけ準備した?」
「したよー」
「ナイフは?」
「もってる」
「水筒は?」
「すいとうー……あう……ないよ?」
「持ってない? それじゃ、もらいに行こっか。こっちだよ」
セイとハザードは連れ立って廊下を駆け回っている。相変わらず仲がいい。
同行者の三人を眺めて、ふと思う。この場合、俺が保護者という事になるんだろうか。
木々に囲まれて建つ白い建物は、質素なつくりをしていた。
「これが療養所か。思ったよりも質素だな」
「だって、療養所だよ。休む時くらい、ばれないようにひっそりと休みたいんじゃないか?」
「まあ、それはわかるが……」
この場所に建てた時点で『ばれないように』という目的は半ば達成されているような気もする。山の上に町はあるが、こちらにはなかなか降りては来ないだろう。周囲の村や町とは、それなりに距離がある。
扉に描かれた奇妙な図形を眺めながら、扉に手をかけた。だが、開かない。
「開けられないように術がかかってるみたいだね。ちょっと待ってて」
イルが手を翳すと掌から光が零れ、図形の形が変わった。同時に、扉から抵抗が消える。
「この図形が鍵代わり、という事なのか?」
「まあ、そういう事かな。早く行こう。自動で鍵がかかるようになってるから」
「へぇ……なかなか力の強い神殿長だったのか?」
「んー、これは理論さえしっかりしてればそれ程難しくないよ。うちの神殿でも、危険物の入ってる倉庫とかには同じような仕掛けをしてあるし。俺の部屋でも何箇所か使ってるよ」
こういう事に関して、こいつの言葉は当てにしない方がいい。こいつにとって簡単だからといって、他の奴も同じとは限らない。
扉を開いて、眉を顰めた。
「……何か変じゃないか?」
「あ、本当だ。何か変な力が働いてるみたいだね」
そう言いながら、のこのこと入っていく。このままこうしていても仕方ない、とそれに続いた。不思議な力を付与できるのは『神殿長』くらいのもので、そんな人物が危険な罠はそうそう仕掛けないだろう。多分。
扉が閉まった時、辺りが光に包まれた。
そろそろ松明がなければ視界に困る頃。空気がひやりとしている。不意に、ぴり、と奇妙な空気を感じた。
「……安全そうな場所って話だったけどな」
ライトがポツリと呟いた。セイはちょっと嫌そうな顔をしていて、ハザードはおろおろとしている。その頭をぽんぽんと軽く叩く。
「ま、本当に何もないかっていう念押しの調査だが……何かあったらあったでどうするかは決めてあっただろ? そう慌てんな。寧ろやりがいのある仕事になったと考えてみろ」
「なぁ……ブライト、不穏な空気になったからって必ずしも強い奴と戦うわけじゃないからな」
「……わかってるさ」
ライトに釘を刺されて、ちょっと目を泳がせた。内心、ちょっと期待はしているんだが。
「あ、何か不思議な音がする」
「へんな音だね」
セイとハザードが首を傾げた。俺にはわからないが、この二人は耳がいい。二人が聞こえているというのだから、何かあるのだろう。
「この先からか?」
「うん」
何にせよ、警戒はした方がいいだろう。ライトがひょいと追いついてきた。洞窟はそれ程広くないので、体格のいい人間が二人並ぶと狭く感じる。
「……俺が先行く。何かあったらすぐ帰れよ」
ライトがポツリと告げた。流石に異論がある。
「ここは年齢的に俺が行くべきだろ」
「いや何かあった時に、ブライトなら二人を強制的に腕力で止められるだろ」
「ああ、そうか」
お子様二人の内、セイは長身だしハザードは小柄な割りに腕力はそれなりだ。二人が全力で暴れたら、ライトじゃ辛いだろう。
「それに、学者と遺跡探索行く時は大体こんな感じだからな。俺が先頭で、仕掛けとかどうにかするから」
ライトは学者達と揉め事を起こす事がないから、よく学者達の探索に連行される。だから、この手の探索は慣れているのだろう。俺はどちらかというと盗賊の制圧とか、そういう野戦向きだ。
「……あいつの話だと、この先に広い空間があるらしいけど……」
「音の感じからして、多分その通りだと思うよ」
セイの声はよく響く。ハザードはきょろきょろしながら歩いていた。
二人の言葉通り、少し広い空間に出る。松明を掲げても全体を窺えない。奇妙な暗さだった。中に足を踏み入れ、明かりを様々な方向に向ける。一瞬だけ、光の反射が目にささった。
「……刃物か何かか?」
武器でも置きっ放しになっていたのだろうか。いや、流石に捜査に入った時にそれくらいはどうにかするだろう。
「そういえば、何か一つどうしても取り外せなくてそのままにしてあるものがあるって言ってたな」
ライトの呟きを聞きながら、光を反射したものがある方へ歩みを進める。松明を掲げると、それが鏡である事が分かった。岩壁に半ば埋め込まれているようだ。
「……鏡か……」
何故こんな所にあるのだろう。身なりを気にする盗賊というのもあまり聞かない。
「変な音、どこからだろう?」
セイが呟いた。そういえば、俺の耳にも何か奇妙な音が届いてきている。
他にめぼしいものもなく、鏡に足を向ける。ふちに装飾が施されているようだが、そのほとんどは埋まってしまっている。どうやって岩壁に埋め込んだのだろうか。
何気なく鏡を覗き込んだ時、ふっと光に包まれた。
<続く>
「リィン、久々に遺跡探索に行かない?」
「どこの遺跡だ?」
「ずっと昔の神殿長が神殿とは別に建物を創ったんだって。確か……療養所みたいな所だって話だけど。その時代の神殿長はかなり身体が弱い人だったみたい」
「お前に言われるほどなのか?」
尋ねるとイルは首を傾げた。
「俺は腕力とかはないけど、体はそこまで弱くない……と思うよ? たまに熱が出るけど」
「補正がかかってそれだろう? 充分弱いと思うが」
「あー……そういえば、神殿長になる前は結構よく熱とか出してたっけ。でも、その時代の神殿長はそれでも身体が弱かったんだから、相当だと思うよ」
それもそうか。或いは、こいつは無駄に『力』の有り余っている『神殿長』だから、他の神殿長と比べるのが間違っているのかもしれない。
「で、場所は?」
「この、山の麓。反対側にも探検できそうなところがあるんだけど、こっちは元盗賊のアジトの洞窟って話で、あんまり面白そうじゃないんだ」
「昔の神殿長の療養所とやらは面白いのか?」
「それがさ、その神殿長、結構謎が多い人なんだ。お墓がどこにあるのか見つかってないし、スノウさん達に聞いても魂の行方がわからないんだって」
それは、確かに面白そうではある。
「それで、療養中に書いた日記がその療養所に残ってるかもしれないんだ」
「日記か……いつも思うんだが、神殿長は日記をつけるのが義務なのか? それとも単に全員の趣味が一致しているだけか?」
まさか、日記を付ける習慣のある者が神殿長に選ばれる、なんて馬鹿げた事はないだろう。いくらこの世界が馬鹿げているとはいっても。
「多分、毎日退屈だからじゃない?」
「……日記が退屈しのぎになるか? そもそも、退屈な事しかないなら日記だって退屈なものになるだろう」
「そうじゃなくてさ。『神殿長ってそんなにいいものじゃないんだよ』って訴える為に書く、みたいな」
「……お前の場合はそうなのか?」
「まあね。でも他の人のを読んでても、結構悩みとか書いてあるよ。中には、最初は凄く喜んで神殿長をやっていたけど、段々月日が経って晩年になると毎日同じ三行の文章を残すだけになる人もいるし」
「それは読みたいところだな」
「最初から最後まで読もうと思うと、結構時間かかるよ」
それは承知している。何せ、数百年生きるとまで言われている『神殿長』の日記だ。さぞ読み応えがあるだろう。それに、一応は『一個人の』日記だ。読める者はごく限られている。神殿などという面倒な機関に所属しているのだから、それくらいのメリットがなければやっていけない。まあ、神殿の一員としてちゃんとやっているかと言われれば、答えは否であるわけだが。
「だが、何故急にその遺跡が気になったんだ?」
「んー……なんか、夢に出てきたんだよね」
「夢?」
「そう。こっちの、盗賊がいたっていう洞窟には三日前に行った事があるんだけど、その時から変な夢を見るんだよ。最初は山の上にある町にいて、『ああ、洞窟に行ったからその夢かな』って思ったんだけど、洞窟があった方とは反対の方に降りていったんだよ。そこで目が覚めて。次はその続きで山道を降りていて、白い建物が見えたところまで。で、今日起きる前に見た夢が、その建物に入る夢だったんだ」
「……なるほどな」
夢なんてものは、普通は大して当てになるようなものではない。だがこいつの場合は、少しばかり事情が違う。ただの夢、という事もあるが、こういう不自然な夢を見る場合は恐らく何かあるのだろう。
「……仕方ねえな。行くか」
「やった。あ、ハザードはどうする? 調査が長引くかもしれないけど」
「置いていく」
「……予想通りといえばそうだけど……まあ、ハザードにはちょっと合わないかもしれないし、やめた方がいいか。俺とリィンが調べ物してる間、じっとしてても退屈だろうし」
かといって、調査を手伝えるほど知識があるわけでもない。療養所がどれくらいの規模なのかは知らないが、広さによってはいるだけ邪魔だろう。いや、広さに関係なくいるだけ邪魔なのだが。
とりあえず、退屈しのぎはできそうだ。
荷物の確認をして、一息ついた。今日はハザードも連れての仕事になる。仕事といっても、昔盗賊のアジトとして使われていた洞窟の探索という、特に重要というわけでもない仕事だ。三日前に簡単な調査はしてあるので、危険もないだろうという話だ。俺としては物足りないが。
ハザードを連れて行く事にしたのは、洞窟というものはあまり日の当たらない場所だからだ。神殿長とリィンが遺跡探索に出かけてしまっているので任されてしまった。まあ、そろそろどんな仕事があるのかを教える必要もある。丁度いいだろう。セイも一緒だし。
ライトはこれから行く洞窟に住んでいたという盗賊の話を図書館員から聞いている、というか、聞かされているといった方が正確か。真面目なので、一応メモを取っているようだった。後ろからメモを覗いて、眉を顰める。字が汚いとかそういうのではなく、そもそも読めない。まず標準語じゃないだろう。多分、ライトの出身地方の文字だ。
「ハザード、日よけ準備した?」
「したよー」
「ナイフは?」
「もってる」
「水筒は?」
「すいとうー……あう……ないよ?」
「持ってない? それじゃ、もらいに行こっか。こっちだよ」
セイとハザードは連れ立って廊下を駆け回っている。相変わらず仲がいい。
同行者の三人を眺めて、ふと思う。この場合、俺が保護者という事になるんだろうか。
木々に囲まれて建つ白い建物は、質素なつくりをしていた。
「これが療養所か。思ったよりも質素だな」
「だって、療養所だよ。休む時くらい、ばれないようにひっそりと休みたいんじゃないか?」
「まあ、それはわかるが……」
この場所に建てた時点で『ばれないように』という目的は半ば達成されているような気もする。山の上に町はあるが、こちらにはなかなか降りては来ないだろう。周囲の村や町とは、それなりに距離がある。
扉に描かれた奇妙な図形を眺めながら、扉に手をかけた。だが、開かない。
「開けられないように術がかかってるみたいだね。ちょっと待ってて」
イルが手を翳すと掌から光が零れ、図形の形が変わった。同時に、扉から抵抗が消える。
「この図形が鍵代わり、という事なのか?」
「まあ、そういう事かな。早く行こう。自動で鍵がかかるようになってるから」
「へぇ……なかなか力の強い神殿長だったのか?」
「んー、これは理論さえしっかりしてればそれ程難しくないよ。うちの神殿でも、危険物の入ってる倉庫とかには同じような仕掛けをしてあるし。俺の部屋でも何箇所か使ってるよ」
こういう事に関して、こいつの言葉は当てにしない方がいい。こいつにとって簡単だからといって、他の奴も同じとは限らない。
扉を開いて、眉を顰めた。
「……何か変じゃないか?」
「あ、本当だ。何か変な力が働いてるみたいだね」
そう言いながら、のこのこと入っていく。このままこうしていても仕方ない、とそれに続いた。不思議な力を付与できるのは『神殿長』くらいのもので、そんな人物が危険な罠はそうそう仕掛けないだろう。多分。
扉が閉まった時、辺りが光に包まれた。
そろそろ松明がなければ視界に困る頃。空気がひやりとしている。不意に、ぴり、と奇妙な空気を感じた。
「……安全そうな場所って話だったけどな」
ライトがポツリと呟いた。セイはちょっと嫌そうな顔をしていて、ハザードはおろおろとしている。その頭をぽんぽんと軽く叩く。
「ま、本当に何もないかっていう念押しの調査だが……何かあったらあったでどうするかは決めてあっただろ? そう慌てんな。寧ろやりがいのある仕事になったと考えてみろ」
「なぁ……ブライト、不穏な空気になったからって必ずしも強い奴と戦うわけじゃないからな」
「……わかってるさ」
ライトに釘を刺されて、ちょっと目を泳がせた。内心、ちょっと期待はしているんだが。
「あ、何か不思議な音がする」
「へんな音だね」
セイとハザードが首を傾げた。俺にはわからないが、この二人は耳がいい。二人が聞こえているというのだから、何かあるのだろう。
「この先からか?」
「うん」
何にせよ、警戒はした方がいいだろう。ライトがひょいと追いついてきた。洞窟はそれ程広くないので、体格のいい人間が二人並ぶと狭く感じる。
「……俺が先行く。何かあったらすぐ帰れよ」
ライトがポツリと告げた。流石に異論がある。
「ここは年齢的に俺が行くべきだろ」
「いや何かあった時に、ブライトなら二人を強制的に腕力で止められるだろ」
「ああ、そうか」
お子様二人の内、セイは長身だしハザードは小柄な割りに腕力はそれなりだ。二人が全力で暴れたら、ライトじゃ辛いだろう。
「それに、学者と遺跡探索行く時は大体こんな感じだからな。俺が先頭で、仕掛けとかどうにかするから」
ライトは学者達と揉め事を起こす事がないから、よく学者達の探索に連行される。だから、この手の探索は慣れているのだろう。俺はどちらかというと盗賊の制圧とか、そういう野戦向きだ。
「……あいつの話だと、この先に広い空間があるらしいけど……」
「音の感じからして、多分その通りだと思うよ」
セイの声はよく響く。ハザードはきょろきょろしながら歩いていた。
二人の言葉通り、少し広い空間に出る。松明を掲げても全体を窺えない。奇妙な暗さだった。中に足を踏み入れ、明かりを様々な方向に向ける。一瞬だけ、光の反射が目にささった。
「……刃物か何かか?」
武器でも置きっ放しになっていたのだろうか。いや、流石に捜査に入った時にそれくらいはどうにかするだろう。
「そういえば、何か一つどうしても取り外せなくてそのままにしてあるものがあるって言ってたな」
ライトの呟きを聞きながら、光を反射したものがある方へ歩みを進める。松明を掲げると、それが鏡である事が分かった。岩壁に半ば埋め込まれているようだ。
「……鏡か……」
何故こんな所にあるのだろう。身なりを気にする盗賊というのもあまり聞かない。
「変な音、どこからだろう?」
セイが呟いた。そういえば、俺の耳にも何か奇妙な音が届いてきている。
他にめぼしいものもなく、鏡に足を向ける。ふちに装飾が施されているようだが、そのほとんどは埋まってしまっている。どうやって岩壁に埋め込んだのだろうか。
何気なく鏡を覗き込んだ時、ふっと光に包まれた。
<続く>
珍しくユウキが学校を休んだ。
中学校から一貫して帰宅部の俺は、基本的に朝練などというものとは無縁であり、故に学校に早く来る必要性もない。対して、ユウキは中学の頃からの熱烈なバスケットマンであり、毎日朝練をこなしている。ホームルームが始まる五分前に着いた俺が、ユウキを見つけられなかった時の驚きをどう表現していいのかわからない。ユウキは身体が丈夫なのが取り得だと本人が笑っていたように、中学生の時は三年間皆勤賞を取った男だったから、俺の驚きも無理のないものと思ってもらいたい。
そして昼になって、メールが届いた。それはユウキからで、今日はどうしても学校に行けない、という内容のものだった。今頃連絡しなくても、と思わないわけでもないが、あれは変なところで律儀な男だから、とりあえず連絡はしようと思ったのだろう。
「誰から?」
「ユウキから。ところでお前、彼女と昼飯食わないの?」
「彼女は友達付き合いも大事にしたいんだってさ。というわけだから、俺も一応友人のお前と飯を食おうと思って」
この男はリョウ。俺とユウキとこいつは中学の頃からつるんでいる三人組で、中でもこいつだけが現在彼女持ち。しかも、それなりに可愛い彼女だから、結構悔しい。その彼女にこいつが三年前、中学校の裏山で蛇に追いかけられて泣いた話とか、いつか聞かせてやろうと思う。
「中庭で食う?」
「でも、ここんとこ風強いだろ。教室でいいんじゃないか?」
「そういやそうだな」
教室で過ごす時間が長い所為かすぐ忘れるのだが、このところ妙に風が強い。女子は大変困っているらしいが、どうせ中に短パンやスパッツを穿いている女子が大半なので、こちらとしては嬉しくも何ともない。
ふと窓から見た木の枝が大きく揺れていた。風の強さを、示すように。
さほど重くない鞄を抱え直し、昇降口を出た。三人組の中で帰宅部は俺一人なので、大体こんな感じだ。他に友達がいないわけじゃないが、放課後わざわざ遊ぶほど仲がいいわけでもない。
近さで高校を選んだ俺は、主に徒歩で登校している。というのも、チャリ通用の駐輪場が狭くて、倍率が異様に高い抽選で勝ち残った人間しかチャリ通できないからだ。電車を使うほどの距離ではないし、学校近くのバス亭に行く路線のバスは、家の近くのバス停を通らない。他のバス停に行くには遠いし、それなりに時間もかかるので、あまり変わらないならと徒歩という手段を取っているわけだ。
ユウキの見舞いにでも行ってやろうかな、と思っていると、強い風が吹き始めた。
少し待てば収まるかと思った風は、ますます強くなっていった。目に何かが入りそうになって、咄嗟に目を閉じる。次の瞬間、一際強い風が吹き、そして浮遊感に包まれた。
身体中が痛い。目を開ける。何だか薄暗い。
自分が倒れている事に気付いて、ゆっくりと身体を起こして周囲を見渡す。木々に囲まれているようだ。上を見上げると、青と茜のグラデーションで彩られた空が見えた。それを綺麗だと思う余裕は、残念ながらなかった。
「ここ、どこだ……?」
周囲に誰もいないので、答えなんて返ってくる筈はない。立ち上がって、傾斜がある事に気付いた。山の中なのかもしれない。だが、どうして。
ぶつけたらしく痛む頭を摩りながら、記憶を辿る。学校帰りに強い風に見舞われた事は思い出せた。だが、その後の記憶はない。妙な浮遊感があった事は、どうにか思い出せるのだが。
とにかく、ここでじっとしていても仕方ない。とはいえ、方位磁石を持ち歩く高校生などそうそういないので、方角はわからない。いや、今の時間ならわかるか。空が茜色になっている方が、大まかに言えば西の方だ。だが冷静になってみると、方角がわかったところでどうにもならない。
少し考えて、結論を出す。ここが山なら、下っていけばどこかに出るだろう。単純な考えだが、わからないのに方角を意識したところで無意味だろうし、とにかく下りるしかない。
何故だか身体が酷く疲労しているが、そんな事に構っていられない。そう思って足を踏み出した途端、電子的な旋律が耳に届いた。
「……!」
声も出せないくらい驚いてから、それが携帯の着信音だと気付いた。恥ずかしい。まだ強く脈打つ鼓動を感じながら。一度深呼吸。
ポケットに手を伸ばして、ふと疑問が湧き上がる。マナーモードにしていたような記憶があるのだが、どうして音が出ているのだろう。
「……思い違いか」
口に出して、自分を納得させる。音が鳴り続けているから、電話か。携帯を手に取り、開いて通話ボタンを押す直前で、手を止めた。
画面に表示された着信元は、『非通知』。
「……」
ぞく、と鳥肌が立つ。状況に頭が追いつかない。俺の混乱など構わずに、只管電話は鳴り続けている。とっくに留守電に移っても可笑しくない時間が経っているのに。
どうする。
非通知とはいえ、このまま一人彷徨うより、マシかもしれない。そう思いかけた時、画面の端に視線が吸い寄せられた。
『圏外』
それを理解すると同時に、背筋が凍る。混乱する頭は、それでもこの電話に出てはいけないと訴えた。電源ボタンを強く押し込み、強引に通話を切り、電源を落とす。
ここは、駄目だ。
とにかくそれだけは確かだった。携帯を見ていられなくて、鞄の中に放り込む。
耳が痛いほどの静寂。鳥の声も、木の葉が擦れる音さえも、存在しない。自分の鼓動が、酷く大きく感じる。
明確な異常に、今更気が付いた。
鞄の紐を強く握り、勢いのままに地を蹴った。疲れたとか、そんな事を言ってる場合じゃない。ここは変だ。ここは駄目だ。早くここから逃げないと、早く、早く早く!
また電子的な旋律が聞こえる。だが、確認する気にはとてもなれなかった。胸が苦しくなるくらい只管走って走って、走り続けた。何度も足が縺れ、木の根に足を取られそうになり、それでも走った。旋律はまだ続く。耳鳴りがする。息が苦しい。頭が痛い。強い目眩を振り切るように、ただ我武者羅に地を蹴り続けた。
気が付くと、空はすっかり藍色になっていた。俺はぼうっと建物を見上げている自分に気が付く。
「え……?」
いつの間に、あの場所から抜けたのだろう。振り返ると、暗い山があった。直視していられずに、再び建物に向き直る。その建物には微かに見覚えがあった。
「……中学校?」
柵沿いに歩いて建物の正面まで回る。やはり、そこは通っていた中学校だ。という事は、後ろにあった山は、裏山か。
知っているところに出た安心感で、身体の疲れが一気に表れた。鞄が振動し、中に携帯を入れていた事を思い出す。やや迷って、携帯を取り出した。姉からのメールだった。寄り道をしていないでさっさと帰って来ないと母が夕飯を作ってくれない、というような内容だった。思わず苦笑する。
疲労感の残る足を動かして、家へと向かう前に、一度振り返った。中学校の後ろに聳える裏山。先ほどの事が夢のように思える。いや、ようにというか、そのものだったのかもしれない。
すぐに帰るとメールを出して、携帯を閉じる。だが、すぐに再び開いた。呼び出した画面は、着信履歴。
「……」
そこには、非通知の着信が二件、記されていた。
部活が休みだというリョウと並んで帰る。今日は無事に学校に来たユウキは、いつも通り体育館で青春している事だろう。リョウの彼女は今日欠席らしいので、男二人で寂しく帰る羽目になったらしい。
俺も、本当は今日は休みたかった。一晩明けても、身体にはまだ色濃い疲労が残っていたからだ。だが朝にはいつも通り姉に叩き起こされ、不調を訴えても体温を測っても異常がなかったというわけで、母親に追い出されるようにして登校した。
昨日の体験は、夢のように現実感がないのに、妙に生々しかった。白昼夢か何かだと思いたかったが、着信履歴に残った二件の非通知の履歴がそれを否定しようとしている。だが、これ以上考えても仕方がないだろう。どうせ、誰かに話せるような体験でもない。
「そういえば、この辺で俺らくらいの歳の行方不明者、結構出てるらしいな。多分家出だろうって事で、そんなに話題になってないけど」
「家出か。それでも問題になりそうな気がするけどな」
「いなくなってるの、ほとんど男だしな。女子だったら、もうちょっと事件だ何だって言われたかもしれないけど。それにさ、何日かしたら、ちゃんと帰ってくるんだって。帰ってきた奴を問い詰めたら、示し合わせたように『何も覚えてない』の一点張りらしいけど。だから、生徒達が集団で計画して家出してるんじゃないかって大人は言ってるみたいだな」
「ふぅん……」
「そんな事よりさ、コレ見てくれよ」
リョウが嬉しそうに見せてきたのは、掌ほどのサイズのぬいぐるみだった。こいつ、そんな趣味あったのか?
「彼女に貰ったんだ。携帯につけようと思って」
「お前、それじゃどっちがおまけかわかんねぇよ」
「だって、折角彼女がくれたんだし」
ふと、強い風が吹き始めた。それは段々と強くなっていき、腕で目の辺りを庇いながら、そういえば昨日もこんな風が吹いたな、とぼんやり思う。
一際強い風の後、風が止んだ。腕を下ろす。
「凄い風だったな」
言いながら隣を見て、絶句した。そこにいる筈のリョウが、忽然と消えていた。まるで最初から、そこには誰もいなかったかのように。
地面にぽつんと落ちているぬいぐるみだけが、そこにリョウがいた事を証明していた。
終
『にちじょうの、なかで』
2009年10月5日 文章 ぼうっとする頭。思うように動かない身体。この状況を一言で表すならば『体調不良』。
目だけ動かして見た時計を見る限り現在は昼を少し過ぎた頃で、家族はとっくに、仕事や遊びに出かけている。本日は、一般的には休日という日。親は普通の社会人と少々休日がずれているので、休日に家にいないのは当たり前。俺と違い社交的な兄弟は、休日は遊びに行くというのが通例で、休日家に一人きり、というのはもう慣れきっていた。一人の時間をたっぷりと楽しめる事に何の不満もなかった。ただ、こういう時は少しばかり困る。
これほど体調が悪いのは、久しぶりだった。朝はまだマシだった。体調の悪さは感じていたものの、立ち上がるのにさえ苦労する程じゃなかった。だから、出かける家族をのんびりと見送ったのだ。
食欲はなかったものの、朝食を少しは食べて、薬に頼りすぎるとよくないと何かで見た事を思い出して、薬を飲まずに布団に入った。今思えば、あの時ちゃんと薬を飲んでおけばよかったのだ。
つまりこの悪化は、自業自得な面も多々ある、というわけだ。
ため息をついて、寝返りを打つ。苦しい、辛い。思うけれど口には出さない。口にしたら、それこそもっと苦しく辛くなりそうだった。
朝食の量と時間から考えれば、多分胃の中は空だろう。けれど食欲なんて微塵も湧かなかった。薬を飲めば少しは楽になるのだろうな、と思う。薬を飲む為には、少しでも何か食べなければならないのだけれど。
このままこうしていても駄目だ、とどうにか自分を叱咤し、なけなしの根性で布団から這い出る。壁に手をついてふらつく身体を支えた。大丈夫、どうにか歩ける。
居間に行って、立ったまま何か食えそうな物を探す。一度腰を下ろしたら暫くは立ち上がれないような気がした。
米は炊いてあるが、今の状況で茶碗によそって食べるのはまず無理だ。冷蔵庫を開けると、昨日気まぐれに買ったヨーグルトが目に入った。これなら何とか食えるだろう、多分。
もそもそとヨーグルトを食べて薬を飲んで、すぐに部屋で横になった。一眠りすれば、多分少しはマシになるはずだ。そう思って固く目を閉じる。
だが、目を閉じるとそれだけ苦しさが際立つような気がしてくる。こんな調子では眠れそうにない。段々と吐き気までこみ上げてきた。だが、今薬を飲んだばかりで吐いたりしたら、意味がなくなる。ぐっと堪えて、唇を噛み締める。どうせこんな苦しさも辛さも、一過性のものでしかない。自分にそう言い聞かせて。
気持ち悪い。それでも耐えるしかない。
じっと我慢する。どれだけ時間が経ったのかなんてわからない。苦しんでいるときの時間の感覚なんて曖昧すぎる。
気持ち悪さは収まるどころか増す一方で、ぼやける思考の中でそろそろやばい、と頭のどこかが警鐘を鳴らす。
寝てる間に吐いたら、いくらなんでも大変だ。最悪、薬は飲み直せばいい。
震える手で身体を支えて起き上がる。ぐらり、と気持ち悪さが増した。先程よりも更に重く感じる身体を引き摺るように、部屋を出た。
ほとんど入ってなかった胃の中身を殆ど全部吐き出すと、気持ち悪さは引いていった。代わりに、というか、身体に力が入らない。がくがくと震える手を壁について、ふらふらと立ち上がる。たいして暑くないはずなのに、大量の汗をかいていた。水分補給しないといけないかな、とぼんやり思いながらどうにか居間に続く扉を開けて、立っていられずに座り込む。ひやりとした床が心地よくて、そのまま横になって、丸くなった。
気持ち悪さはだいぶ緩和された。どこかの窓から入り込んだらしい風は強くはなかったけど、汗をかいた身体にはとても冷たく感じられた。その冷たさが、どこか心地よい。身体のだるさは、まだあちこちに残っている。それでも何だか、辛さとかはあまり感じなくなっていた。立ち上がれる気もしなければ、立ち上がる気も起こらなかった。
ぼんやりするまま、眠気を感じて素直に目を閉じた。
「何やってんだよ、だらしねぇな」
呆れたような声。顔を上げると、苦笑する兄の姿があった。
「……ホントに体調悪いんだねぇ。でも、ちゃんと布団で寝ないとダメよ?」
のんびりした口調は、近所に住んでる祖母のもの。
「全く……ちゃんと薬飲んだの?」
少し怒ったような、そして少し心配そうな声。聞きなれた、母親の声だった。
「おいおい、生きてるか?」
笑いを含んだような声。顔を覗き込んだのは、遠くに住んでる従兄。
「……」
言葉を返す気力もない中、それでも頬が緩んだ。だって、今は
ゆっくりと、目を開ける。まず視界に入ったのは、居間と廊下をつなぐ扉。数回瞬きをして、床の上で寝ていた事を思い出す。眠気がまだ燻る中で、とりあえず起き上がる。身体がかなり冷えているが、気だるさや気持ち悪さはほとんどなくなっていた。
「……寝よ」
とりあえず寒いので、布団に包まろう。ふと思い出すのは、さっきの、夢。
夢には願望が現れる、という話は、聞いた事があった。全ての夢がそういうものではないとは思うけれど、もし、さっきの夢が、俺の願望を反映したものだとしたら。
「……人恋しいって事?」
この歳になってそれは、ちょっと恥ずかしいかもしれない。恥じてから、一人暮らしをしている大学の友人が以前言っていた事を思い出した。
「一人暮らししてて風邪引くとさ、このまま死ぬんじゃないかって思う時があるんだ。このまま死んで、誰にも気付かれないんじゃないかって。治った後は、『何考えてたんだろ』って笑えるけど……風邪引いてる間は、結構マジに思ってたんだよな」
俺は実家暮らしだから、友人のその恐怖はわからない。ただ『一人暮らしって大変だな』と思ったくらいだった。でも今なら、その恐怖の一端くらいはわかるような気がした。
体調が悪い時に一人きり。ただそれだけなのに、どうしてか不安になる。普段は心地よいとさえ感じる静寂に、心細さを感じる。
静まり返った家の中。完全に無音じゃなく、冷蔵庫の稼働音とか、時計の秒針の音だとか、そういう普段は気にも留めない音が満ちている。それが逆に、寂しさのようなものを感じさせる。
「……」
一度意識すると、不安になる。立ち尽くしている内にくしゃみが出て、早く身体を温めないと、と思い出した。
歩き出した時、背後からガチャリ、と音がした。
「……あら? 起きてたの?」
白いビニール袋を手に提げた母親が、きょとんと俺を見ていた。予想もしていなかった事態に、上手く対応できない。
「……え、ああ、まあ」
曖昧な言葉を返して、時計を見る。もう夕方だった。母親は仕事が終わるのが早いから、この時間に帰ってこれない事はない。ただ、いつもは買い物だとか近所の奥さん達と談笑したりだとかで、帰りは陽が完全に落ちてからになる。
「まだ顔色悪いじゃない。休んでなさい」
「あ、ああ……早いね、帰り」
「だって、朝具合悪そうだったじゃない。だから急いで買い物だけ済ませてきたの。夕飯はうどんと雑炊どっちがいい? あんたは昔から具合悪いと食欲なくすから、消化にいいものがいいでしょ?」
「あー……じゃあ、うどんで」
「夕飯は早めに食べる?」
「……いつも通りでいいよ。一回寝る」
「そうしなさい。後で起こしてあげるから」
「いいよ、自分で起きれる」
ぽんぽんと、交わされる会話。早く寝なさい、と追い立てられるようにして部屋に戻る。布団に入って、暖かさに少しほっとした。
扉越しに、微かに母親が買ってきた物を冷蔵庫に入れているらしい音が聞こえてくる。暫くして、テレビの音も混じってきた。
身体がだいぶ温かくなってくる頃には、また眠気が戻ってきた。目を閉じて、まどろみの中でぼんやり考える。
やっぱり俺は、少し人恋しかったらしい。
昔からの進歩のなさに苦笑して、眠気に身を任せた。多分、今度はあの夢は見ないだろう。そんな事を思いながら。
おわり
目だけ動かして見た時計を見る限り現在は昼を少し過ぎた頃で、家族はとっくに、仕事や遊びに出かけている。本日は、一般的には休日という日。親は普通の社会人と少々休日がずれているので、休日に家にいないのは当たり前。俺と違い社交的な兄弟は、休日は遊びに行くというのが通例で、休日家に一人きり、というのはもう慣れきっていた。一人の時間をたっぷりと楽しめる事に何の不満もなかった。ただ、こういう時は少しばかり困る。
これほど体調が悪いのは、久しぶりだった。朝はまだマシだった。体調の悪さは感じていたものの、立ち上がるのにさえ苦労する程じゃなかった。だから、出かける家族をのんびりと見送ったのだ。
食欲はなかったものの、朝食を少しは食べて、薬に頼りすぎるとよくないと何かで見た事を思い出して、薬を飲まずに布団に入った。今思えば、あの時ちゃんと薬を飲んでおけばよかったのだ。
つまりこの悪化は、自業自得な面も多々ある、というわけだ。
ため息をついて、寝返りを打つ。苦しい、辛い。思うけれど口には出さない。口にしたら、それこそもっと苦しく辛くなりそうだった。
朝食の量と時間から考えれば、多分胃の中は空だろう。けれど食欲なんて微塵も湧かなかった。薬を飲めば少しは楽になるのだろうな、と思う。薬を飲む為には、少しでも何か食べなければならないのだけれど。
このままこうしていても駄目だ、とどうにか自分を叱咤し、なけなしの根性で布団から這い出る。壁に手をついてふらつく身体を支えた。大丈夫、どうにか歩ける。
居間に行って、立ったまま何か食えそうな物を探す。一度腰を下ろしたら暫くは立ち上がれないような気がした。
米は炊いてあるが、今の状況で茶碗によそって食べるのはまず無理だ。冷蔵庫を開けると、昨日気まぐれに買ったヨーグルトが目に入った。これなら何とか食えるだろう、多分。
もそもそとヨーグルトを食べて薬を飲んで、すぐに部屋で横になった。一眠りすれば、多分少しはマシになるはずだ。そう思って固く目を閉じる。
だが、目を閉じるとそれだけ苦しさが際立つような気がしてくる。こんな調子では眠れそうにない。段々と吐き気までこみ上げてきた。だが、今薬を飲んだばかりで吐いたりしたら、意味がなくなる。ぐっと堪えて、唇を噛み締める。どうせこんな苦しさも辛さも、一過性のものでしかない。自分にそう言い聞かせて。
気持ち悪い。それでも耐えるしかない。
じっと我慢する。どれだけ時間が経ったのかなんてわからない。苦しんでいるときの時間の感覚なんて曖昧すぎる。
気持ち悪さは収まるどころか増す一方で、ぼやける思考の中でそろそろやばい、と頭のどこかが警鐘を鳴らす。
寝てる間に吐いたら、いくらなんでも大変だ。最悪、薬は飲み直せばいい。
震える手で身体を支えて起き上がる。ぐらり、と気持ち悪さが増した。先程よりも更に重く感じる身体を引き摺るように、部屋を出た。
ほとんど入ってなかった胃の中身を殆ど全部吐き出すと、気持ち悪さは引いていった。代わりに、というか、身体に力が入らない。がくがくと震える手を壁について、ふらふらと立ち上がる。たいして暑くないはずなのに、大量の汗をかいていた。水分補給しないといけないかな、とぼんやり思いながらどうにか居間に続く扉を開けて、立っていられずに座り込む。ひやりとした床が心地よくて、そのまま横になって、丸くなった。
気持ち悪さはだいぶ緩和された。どこかの窓から入り込んだらしい風は強くはなかったけど、汗をかいた身体にはとても冷たく感じられた。その冷たさが、どこか心地よい。身体のだるさは、まだあちこちに残っている。それでも何だか、辛さとかはあまり感じなくなっていた。立ち上がれる気もしなければ、立ち上がる気も起こらなかった。
ぼんやりするまま、眠気を感じて素直に目を閉じた。
「何やってんだよ、だらしねぇな」
呆れたような声。顔を上げると、苦笑する兄の姿があった。
「……ホントに体調悪いんだねぇ。でも、ちゃんと布団で寝ないとダメよ?」
のんびりした口調は、近所に住んでる祖母のもの。
「全く……ちゃんと薬飲んだの?」
少し怒ったような、そして少し心配そうな声。聞きなれた、母親の声だった。
「おいおい、生きてるか?」
笑いを含んだような声。顔を覗き込んだのは、遠くに住んでる従兄。
「……」
言葉を返す気力もない中、それでも頬が緩んだ。だって、今は
ゆっくりと、目を開ける。まず視界に入ったのは、居間と廊下をつなぐ扉。数回瞬きをして、床の上で寝ていた事を思い出す。眠気がまだ燻る中で、とりあえず起き上がる。身体がかなり冷えているが、気だるさや気持ち悪さはほとんどなくなっていた。
「……寝よ」
とりあえず寒いので、布団に包まろう。ふと思い出すのは、さっきの、夢。
夢には願望が現れる、という話は、聞いた事があった。全ての夢がそういうものではないとは思うけれど、もし、さっきの夢が、俺の願望を反映したものだとしたら。
「……人恋しいって事?」
この歳になってそれは、ちょっと恥ずかしいかもしれない。恥じてから、一人暮らしをしている大学の友人が以前言っていた事を思い出した。
「一人暮らししてて風邪引くとさ、このまま死ぬんじゃないかって思う時があるんだ。このまま死んで、誰にも気付かれないんじゃないかって。治った後は、『何考えてたんだろ』って笑えるけど……風邪引いてる間は、結構マジに思ってたんだよな」
俺は実家暮らしだから、友人のその恐怖はわからない。ただ『一人暮らしって大変だな』と思ったくらいだった。でも今なら、その恐怖の一端くらいはわかるような気がした。
体調が悪い時に一人きり。ただそれだけなのに、どうしてか不安になる。普段は心地よいとさえ感じる静寂に、心細さを感じる。
静まり返った家の中。完全に無音じゃなく、冷蔵庫の稼働音とか、時計の秒針の音だとか、そういう普段は気にも留めない音が満ちている。それが逆に、寂しさのようなものを感じさせる。
「……」
一度意識すると、不安になる。立ち尽くしている内にくしゃみが出て、早く身体を温めないと、と思い出した。
歩き出した時、背後からガチャリ、と音がした。
「……あら? 起きてたの?」
白いビニール袋を手に提げた母親が、きょとんと俺を見ていた。予想もしていなかった事態に、上手く対応できない。
「……え、ああ、まあ」
曖昧な言葉を返して、時計を見る。もう夕方だった。母親は仕事が終わるのが早いから、この時間に帰ってこれない事はない。ただ、いつもは買い物だとか近所の奥さん達と談笑したりだとかで、帰りは陽が完全に落ちてからになる。
「まだ顔色悪いじゃない。休んでなさい」
「あ、ああ……早いね、帰り」
「だって、朝具合悪そうだったじゃない。だから急いで買い物だけ済ませてきたの。夕飯はうどんと雑炊どっちがいい? あんたは昔から具合悪いと食欲なくすから、消化にいいものがいいでしょ?」
「あー……じゃあ、うどんで」
「夕飯は早めに食べる?」
「……いつも通りでいいよ。一回寝る」
「そうしなさい。後で起こしてあげるから」
「いいよ、自分で起きれる」
ぽんぽんと、交わされる会話。早く寝なさい、と追い立てられるようにして部屋に戻る。布団に入って、暖かさに少しほっとした。
扉越しに、微かに母親が買ってきた物を冷蔵庫に入れているらしい音が聞こえてくる。暫くして、テレビの音も混じってきた。
身体がだいぶ温かくなってくる頃には、また眠気が戻ってきた。目を閉じて、まどろみの中でぼんやり考える。
やっぱり俺は、少し人恋しかったらしい。
昔からの進歩のなさに苦笑して、眠気に身を任せた。多分、今度はあの夢は見ないだろう。そんな事を思いながら。
おわり
仕事が片付いて、一息ついた。ぐぐっと身体を伸ばすと、少しすっきりしたような気分になる。一息ついて、ちらりと時計を見て、今が昼過ぎだと知る。それなりの時間、座りっぱなしになっていたのか。流石に少し疲れたような気がする。
少し考えて、適当に紙を引っ張り出した。ペンで軽く書きつけて、文章を読み直して、問題がない事を確認してから机の上に置こうとして、思いとどまる。その前に、やる事があった。ポケットに突っ込んで、少し考える。
とりあえず、逃げるのは全部終わらせてからだ。
「ブライト、この後、時間あるか?」
ハルの唐突な問いに、少し戸惑いつつ頷いた。特に任務がある時以外は自己鍛錬のみなので基本的に時間はある。自己鍛錬にしても、今日はハルとの実戦訓練をつめたのでなかなか充実していたといえるだろう。途中で加減を忘れそうになった事は、少々悪いとは思ったが。
「それなら、神殿長を誘って散歩に行ってくれないか?」
「別にいいが……何でだ?」
「そろそろ、仕事を終えられる頃だからな。退屈だからとか言って勝手に散歩に行きかねない。そうなる前に、気晴らしに付き合って差し上げて欲しいんだ」
俺よりも長い間神殿に勤めているハルは、流石にかなり神殿長の行動をわかっているようだった。
「それなら構わないが、お前が行けばいいんじゃないか?」
「学者の手伝いが入った」
「あー、なるほどな」
それなら仕方が無い、と思った時、白い塊が転がるように駆け寄ってきた。考えるまでもなく、ハザードだ。いつも通り表情に乏しい顔に、少し焦りのようなものが見えるような気がする。
「ブライト、ハル、あのね、イルがいないの!」
「は?」
「あう、えっと、えっとね、おひるごはんはいっしょにたべて、えっと、おやつの時間だよってイルにおしえてってライトにおねがいされて、でも、いなくて、手紙があったの」
拙い言葉と共にハザードが差し出した紙に目を落とし、ハルと二人顔を見合わせて苦笑した。
「……間に合わなかったな」
「だな」
その紙の切れ端には、『ちょっと遊びに行ってきます。書類は机に置いておくね』と書きつけられていた。
とりあえず、おろおろするハザードを宥めようとした時、軽快な足音が近付いてきた。
「ねぇねぇ、リィンを見なかった? ちょっと用事があるのに、見つかんないんだ。お昼にはいたんだけど」
よく通る美声が告げた新たな状況。再びハルと顔を見合わせた。
「……また、か」
「また、だろうな」
「リムドに知らせるか?」
「面倒だしいいんじゃないか? ま、こっちで何とかするから、ハルは行って来い」
「おう、頼んだ」
仕事に向かうハルを見送り、泣きそうなハザードの頭を軽く撫でる。セイはハザードから事情を説明されたようだが、楽観的だった。
「大丈夫だよ、ハザード! リィンが一緒なら安心だからね!」
「あう……でも、リィンね、イルにいじわるすること、あるよ?」
「でも、二人とも仲良しだから大丈夫だよ! ハザードだって、リィンにいじわるされてもリィン嫌いじゃないでしょ?」
「うん……でも、いじわるはイヤ」
微笑ましいやり取りに、思わず噴出した。二人はきょとん、としている。
「とりあえず、手を打っとくか。二人とも手伝うか?」
「お手伝いするっ!」
「するー」
お子様達を引き連れて、少し考える。とりあえず、協力者を見つけるか。
通りすぎる風が心地良い。本を読む事は決して苦ではないが、長時間続けていると外の空気を吸いたくなる事もある。小高い丘から見下ろす街は積み木細工のようで、どこか現実味に欠けていた。
「ここでいいかな、リィン」
柔らかな声に振り返ると、イルが籠を手に佇んでいた。風に靡く長い髪を軽くおさえている。随分と髪が伸びたな、と思う。
「ん? リィン、ちょっと髪伸びた?」
奴もこちらに対して同じ事を思ったらしい。何となく腹が立つが、確かに俺も髪は伸びてきているようだった。長くなってきた前髪が少し鬱陶しい。
「……明日にでも切るか」
「リィンも伸ばしてみれば? 髪を弄るの、好きみたいだし」
「面倒だ」
長くなれば、手入れも必要になる。この馬鹿は特にそういうものを必要とはしていないようなのだが。第一、自分の髪をいじったところで面白くはない。
「別に、お前が伸ばしていれば事足りる」
「それはそうかもしれないけど、俺だって髪を切るかもしれないよ」
「お前がか?」
眉を顰め、想像してみる。思えば、最初に会った時からこいつは髪が長かった。一番短かった時でも背の中ほどまではあった筈だ。ゆえに、こいつの髪の短い姿というのは、うまく想像ができない。
「……お前に短髪は似合わないだろ」
「そう? リィンが言うならそうなのかな」
髪を一房掴み、首を傾げた。試しに切ってみようとか言いかねないので、優先事項を告げる事にする。
「いいから、とっとと食うぞ」
「あ、そっか」
適当なところに腰を下ろし、イルが持っていた籠を取り上げて開ける。隣から伸びた白い手が水筒を掴んだので、俺は包みを取り出す。包みを広げて中に入っていた焼き菓子を一つ口に運ぶ。噛み砕くと風味が広がり、慣れ親しんだ味が舌に伝わった。飲み込んだ時、湯気を立てるカップを手渡された。熱い茶をそのまま飲んで、一つ息をつく。
「セイやハザードも連れてくれば喜んだかな。あ、でも、ハザードは日差しが駄目か」
「騒がしいのを連れて、休憩などできるか?」
「仕事から離れてれば休憩だよ。俺にとっては」
柔らかな笑みを浮かべて、イルも一つ焼き菓子を手に取った。執務室をこっそりと抜け出ようとしていたイルを見つけたのが、ここに来たきっかけだ。気晴らしをしたいと言うイルに、茶と菓子を持ってこの丘に来る事を提案したのは俺だったが。
「ここに来る事は伝えてあるのか?」
「ちゃんと『ちょっと遊びに行ってくる』って置手紙はしたよ」
「いつ戻るとかは書いたのか?」
「書いてないよ。書いた時にいつ戻るか考えてなかったから」
こいつはこういう奴だ。確定できなければ言わないし書かない。だから、約束を破るという事は滅多にない。『ちょっと』などと書いていても、こいつの時間感覚はよくわからないのであまり参考にはならない。探す立場からすれば、面倒な事この上ないだろう。
まあ、俺には無縁の話だ。
「リィン、いつくらいに帰りたい?」
「……夕食後くらいでいいだろう。間食していれば夕食の時間はずらせる」
「ああ、夕飯時に行っても混んでるからなぁ」
のんびりと笑うが、考えてみればこいつは最高権力者だ。何故食堂で律儀に待つのだろう。代々の神殿長は混乱を避ける為にも自室に運ばせていたという。こいつも自室で食う事がたまにあるが、それは大抵自分で作った時だ。そういえば、最初は料理長もこいつが調理するのを必死に止めていたが、もう諦めたらしく、「火と包丁に気をつけてくださいね」と注意して許容するようになった。良くも悪くも、こいつの代でこれまでの『神殿』とは変わってきているのだろう。
「リィン、考え事?」
「お前も少しは何か考えたらどうだ?」
「あ、失礼な! 考えてるよ、今日の夕飯何にしようかな、とか!」
「……ずっとそれを考えていたわけじゃないだろうな?」
「ん、ああ。一応、色々考えてたら、最終的に夕飯に行き着いたって感じ」
「最初に何を考えていたんだ?」
こいつの事だから、多分夕飯とは関係のない事だろう。イルは思考を飛ばしていく癖がある。俺も多少その癖はあるのだが。
「ハザードの役職、どこがいいかなぁって」
「少年の?」
「そう。一般常識とか一通り学び終えたら、専門的な事を学ぶ事になるけど、急に選べって言っても、ハザードには難しいかもしれないし。だから、どういう役職があって、どういう事をするもので、どういう事を学ぶのか、説明できるようにしておきたいなって」
茶を吹いて冷ましながら、イルはぼんやり視線をさまよわせた。
「お前が考えるのか?」
「だって、他に任せられそうな人いないよ? セイもまだ子供だし、ハルやブライト達は戦士系だから学者系の説明には向かないだろうし、リィンは多分面倒がってやらないし」
確かにその通りだが、言われると腹が立つ。頬を引っ張って暫く痛めつけてやると、慌てたような謝罪が飛んできた。とりあえず解放しておく。
「それで、その前にやらなきゃいけない事があるって思い出して」
「まさかそこから夕飯に飛ぶのか?」
「違うよ、ハザードの指輪に刻む能力の事」
「ああ、そういえばまだ帰還能力しかつけてなかったな」
だが、アレは大体役職が決まってから刻むものだ。その役職に合った能力を刻む方が、効率がいい。それを指摘すると、イルは首肯した。
「そうなんだけど、何をするにしてもハザードにはハンデがあるから」
「ああ……」
学者にせよ、戦士にせよ、外を出歩く事は少なくない。だが、ハザードは太陽光に弱い。日除けなどでどうにかできてはいるが、場合によっては日除けを堂々と着用できない事もある。
「過去の記録とか、一応調べてみて、何となくつかめてきたんだけど……まだまだ完璧には遠いんだ。少し改良した方がよさそうだし」
「そうか」
人がいいにも程があると思うが、面倒なので口には出さない。イルは困ったような顔に、苦笑を刻んだ。
「それで、改良の事を考えてたら、そういえばこの前見つけたレシピはそのまま作ったら何か物足りなかったから手を加えようと思ってた事を思い出して、暫く考えてる内に、これを夕飯にしようかなって考え始めて……」
そこから夕食に飛ぶのか。少し呆れて、イルの頭をはたく。まあ、こいつらしいといえばこいつらしい。
「で、結局作るのか?」
「そうしようかなと思ってる。リィンも食べる?」
「そうだな。残されたら食材が哀れだ」
「うっ……ちゃんと、考えて作るよ」
二つ目を食べ終えて以降焼き菓子に手が伸びないイルは、拗ねたように茶を飲んだ。それを横目に焼き菓子を摘んで、口に放る。街などで売られている菓子よりもイルの作る菓子の方が気に入っている事は、本人には言った事もないし言うつもりもない。だが、態々作るという事は、何となくわかっているのだろう。他の料理に関してもそうだ。一般向けに味付けされたものよりも、慣れ親しんだ味に近いイルの味付けの方が合う。
「何か眠くなってきたなぁ……」
「お前は子供か」
突っ込むとイルは笑って、空を見上げた。つられるように空を見上げる。いつもより少しだけ濃く感じる、青。視線を感じて、目をイルに向けた。薄い紫の瞳がじっとこちらを向いていた。
「やっぱり、リィンの瞳の方が強い青だ」
そう言って笑った。何となく腹が立って、髪をかき乱す。抗議の声を聞き流して、空を見上げた。
こういうのも、たまには悪くない。そんな事を思いながら。
おわり
懺悔ほのぼの。この二人は何となくこういう淡々とした話だと書きやすいです。
少し考えて、適当に紙を引っ張り出した。ペンで軽く書きつけて、文章を読み直して、問題がない事を確認してから机の上に置こうとして、思いとどまる。その前に、やる事があった。ポケットに突っ込んで、少し考える。
とりあえず、逃げるのは全部終わらせてからだ。
「ブライト、この後、時間あるか?」
ハルの唐突な問いに、少し戸惑いつつ頷いた。特に任務がある時以外は自己鍛錬のみなので基本的に時間はある。自己鍛錬にしても、今日はハルとの実戦訓練をつめたのでなかなか充実していたといえるだろう。途中で加減を忘れそうになった事は、少々悪いとは思ったが。
「それなら、神殿長を誘って散歩に行ってくれないか?」
「別にいいが……何でだ?」
「そろそろ、仕事を終えられる頃だからな。退屈だからとか言って勝手に散歩に行きかねない。そうなる前に、気晴らしに付き合って差し上げて欲しいんだ」
俺よりも長い間神殿に勤めているハルは、流石にかなり神殿長の行動をわかっているようだった。
「それなら構わないが、お前が行けばいいんじゃないか?」
「学者の手伝いが入った」
「あー、なるほどな」
それなら仕方が無い、と思った時、白い塊が転がるように駆け寄ってきた。考えるまでもなく、ハザードだ。いつも通り表情に乏しい顔に、少し焦りのようなものが見えるような気がする。
「ブライト、ハル、あのね、イルがいないの!」
「は?」
「あう、えっと、えっとね、おひるごはんはいっしょにたべて、えっと、おやつの時間だよってイルにおしえてってライトにおねがいされて、でも、いなくて、手紙があったの」
拙い言葉と共にハザードが差し出した紙に目を落とし、ハルと二人顔を見合わせて苦笑した。
「……間に合わなかったな」
「だな」
その紙の切れ端には、『ちょっと遊びに行ってきます。書類は机に置いておくね』と書きつけられていた。
とりあえず、おろおろするハザードを宥めようとした時、軽快な足音が近付いてきた。
「ねぇねぇ、リィンを見なかった? ちょっと用事があるのに、見つかんないんだ。お昼にはいたんだけど」
よく通る美声が告げた新たな状況。再びハルと顔を見合わせた。
「……また、か」
「また、だろうな」
「リムドに知らせるか?」
「面倒だしいいんじゃないか? ま、こっちで何とかするから、ハルは行って来い」
「おう、頼んだ」
仕事に向かうハルを見送り、泣きそうなハザードの頭を軽く撫でる。セイはハザードから事情を説明されたようだが、楽観的だった。
「大丈夫だよ、ハザード! リィンが一緒なら安心だからね!」
「あう……でも、リィンね、イルにいじわるすること、あるよ?」
「でも、二人とも仲良しだから大丈夫だよ! ハザードだって、リィンにいじわるされてもリィン嫌いじゃないでしょ?」
「うん……でも、いじわるはイヤ」
微笑ましいやり取りに、思わず噴出した。二人はきょとん、としている。
「とりあえず、手を打っとくか。二人とも手伝うか?」
「お手伝いするっ!」
「するー」
お子様達を引き連れて、少し考える。とりあえず、協力者を見つけるか。
通りすぎる風が心地良い。本を読む事は決して苦ではないが、長時間続けていると外の空気を吸いたくなる事もある。小高い丘から見下ろす街は積み木細工のようで、どこか現実味に欠けていた。
「ここでいいかな、リィン」
柔らかな声に振り返ると、イルが籠を手に佇んでいた。風に靡く長い髪を軽くおさえている。随分と髪が伸びたな、と思う。
「ん? リィン、ちょっと髪伸びた?」
奴もこちらに対して同じ事を思ったらしい。何となく腹が立つが、確かに俺も髪は伸びてきているようだった。長くなってきた前髪が少し鬱陶しい。
「……明日にでも切るか」
「リィンも伸ばしてみれば? 髪を弄るの、好きみたいだし」
「面倒だ」
長くなれば、手入れも必要になる。この馬鹿は特にそういうものを必要とはしていないようなのだが。第一、自分の髪をいじったところで面白くはない。
「別に、お前が伸ばしていれば事足りる」
「それはそうかもしれないけど、俺だって髪を切るかもしれないよ」
「お前がか?」
眉を顰め、想像してみる。思えば、最初に会った時からこいつは髪が長かった。一番短かった時でも背の中ほどまではあった筈だ。ゆえに、こいつの髪の短い姿というのは、うまく想像ができない。
「……お前に短髪は似合わないだろ」
「そう? リィンが言うならそうなのかな」
髪を一房掴み、首を傾げた。試しに切ってみようとか言いかねないので、優先事項を告げる事にする。
「いいから、とっとと食うぞ」
「あ、そっか」
適当なところに腰を下ろし、イルが持っていた籠を取り上げて開ける。隣から伸びた白い手が水筒を掴んだので、俺は包みを取り出す。包みを広げて中に入っていた焼き菓子を一つ口に運ぶ。噛み砕くと風味が広がり、慣れ親しんだ味が舌に伝わった。飲み込んだ時、湯気を立てるカップを手渡された。熱い茶をそのまま飲んで、一つ息をつく。
「セイやハザードも連れてくれば喜んだかな。あ、でも、ハザードは日差しが駄目か」
「騒がしいのを連れて、休憩などできるか?」
「仕事から離れてれば休憩だよ。俺にとっては」
柔らかな笑みを浮かべて、イルも一つ焼き菓子を手に取った。執務室をこっそりと抜け出ようとしていたイルを見つけたのが、ここに来たきっかけだ。気晴らしをしたいと言うイルに、茶と菓子を持ってこの丘に来る事を提案したのは俺だったが。
「ここに来る事は伝えてあるのか?」
「ちゃんと『ちょっと遊びに行ってくる』って置手紙はしたよ」
「いつ戻るとかは書いたのか?」
「書いてないよ。書いた時にいつ戻るか考えてなかったから」
こいつはこういう奴だ。確定できなければ言わないし書かない。だから、約束を破るという事は滅多にない。『ちょっと』などと書いていても、こいつの時間感覚はよくわからないのであまり参考にはならない。探す立場からすれば、面倒な事この上ないだろう。
まあ、俺には無縁の話だ。
「リィン、いつくらいに帰りたい?」
「……夕食後くらいでいいだろう。間食していれば夕食の時間はずらせる」
「ああ、夕飯時に行っても混んでるからなぁ」
のんびりと笑うが、考えてみればこいつは最高権力者だ。何故食堂で律儀に待つのだろう。代々の神殿長は混乱を避ける為にも自室に運ばせていたという。こいつも自室で食う事がたまにあるが、それは大抵自分で作った時だ。そういえば、最初は料理長もこいつが調理するのを必死に止めていたが、もう諦めたらしく、「火と包丁に気をつけてくださいね」と注意して許容するようになった。良くも悪くも、こいつの代でこれまでの『神殿』とは変わってきているのだろう。
「リィン、考え事?」
「お前も少しは何か考えたらどうだ?」
「あ、失礼な! 考えてるよ、今日の夕飯何にしようかな、とか!」
「……ずっとそれを考えていたわけじゃないだろうな?」
「ん、ああ。一応、色々考えてたら、最終的に夕飯に行き着いたって感じ」
「最初に何を考えていたんだ?」
こいつの事だから、多分夕飯とは関係のない事だろう。イルは思考を飛ばしていく癖がある。俺も多少その癖はあるのだが。
「ハザードの役職、どこがいいかなぁって」
「少年の?」
「そう。一般常識とか一通り学び終えたら、専門的な事を学ぶ事になるけど、急に選べって言っても、ハザードには難しいかもしれないし。だから、どういう役職があって、どういう事をするもので、どういう事を学ぶのか、説明できるようにしておきたいなって」
茶を吹いて冷ましながら、イルはぼんやり視線をさまよわせた。
「お前が考えるのか?」
「だって、他に任せられそうな人いないよ? セイもまだ子供だし、ハルやブライト達は戦士系だから学者系の説明には向かないだろうし、リィンは多分面倒がってやらないし」
確かにその通りだが、言われると腹が立つ。頬を引っ張って暫く痛めつけてやると、慌てたような謝罪が飛んできた。とりあえず解放しておく。
「それで、その前にやらなきゃいけない事があるって思い出して」
「まさかそこから夕飯に飛ぶのか?」
「違うよ、ハザードの指輪に刻む能力の事」
「ああ、そういえばまだ帰還能力しかつけてなかったな」
だが、アレは大体役職が決まってから刻むものだ。その役職に合った能力を刻む方が、効率がいい。それを指摘すると、イルは首肯した。
「そうなんだけど、何をするにしてもハザードにはハンデがあるから」
「ああ……」
学者にせよ、戦士にせよ、外を出歩く事は少なくない。だが、ハザードは太陽光に弱い。日除けなどでどうにかできてはいるが、場合によっては日除けを堂々と着用できない事もある。
「過去の記録とか、一応調べてみて、何となくつかめてきたんだけど……まだまだ完璧には遠いんだ。少し改良した方がよさそうだし」
「そうか」
人がいいにも程があると思うが、面倒なので口には出さない。イルは困ったような顔に、苦笑を刻んだ。
「それで、改良の事を考えてたら、そういえばこの前見つけたレシピはそのまま作ったら何か物足りなかったから手を加えようと思ってた事を思い出して、暫く考えてる内に、これを夕飯にしようかなって考え始めて……」
そこから夕食に飛ぶのか。少し呆れて、イルの頭をはたく。まあ、こいつらしいといえばこいつらしい。
「で、結局作るのか?」
「そうしようかなと思ってる。リィンも食べる?」
「そうだな。残されたら食材が哀れだ」
「うっ……ちゃんと、考えて作るよ」
二つ目を食べ終えて以降焼き菓子に手が伸びないイルは、拗ねたように茶を飲んだ。それを横目に焼き菓子を摘んで、口に放る。街などで売られている菓子よりもイルの作る菓子の方が気に入っている事は、本人には言った事もないし言うつもりもない。だが、態々作るという事は、何となくわかっているのだろう。他の料理に関してもそうだ。一般向けに味付けされたものよりも、慣れ親しんだ味に近いイルの味付けの方が合う。
「何か眠くなってきたなぁ……」
「お前は子供か」
突っ込むとイルは笑って、空を見上げた。つられるように空を見上げる。いつもより少しだけ濃く感じる、青。視線を感じて、目をイルに向けた。薄い紫の瞳がじっとこちらを向いていた。
「やっぱり、リィンの瞳の方が強い青だ」
そう言って笑った。何となく腹が立って、髪をかき乱す。抗議の声を聞き流して、空を見上げた。
こういうのも、たまには悪くない。そんな事を思いながら。
おわり
懺悔ほのぼの。この二人は何となくこういう淡々とした話だと書きやすいです。
一心不乱に手を動かす彼の姿に、暫し見惚れた。この状況さえ気にならなくなるくらいに、その姿は綺麗だった。
だから仕方がない、と思ってしまったのだろう。
久々に戻ると、妙に神殿が騒がしかった。ブライトが、俺を見るなり駆け寄ってくる。悪人面の男に駆け寄られるというのは、あまり嬉しい光景ではない。
「リィン、連絡しようと思ってたんだ! 神殿長一緒じゃないのか!?」
何だそれは、俺とあいつはセットだとでも言うのか。何となく腹が立つ。
「いや、最近見てないが」
「マジかよ……」
「……何かあったのか? 仕事から逃亡したのか?」
アレはアレで真面目ではあるから、基本的にはないだろうと思うが、仕事によってはありえないという事もない。だが、ブライトの答えは予想外だった。
「行方不明なんだ」
「……はぁ?」
「リムドと街を見に行ったきり、神殿長だけ戻ってきてないんだ」
「いつからだ?」
「一週間前」
「……」
仮にも世界の最高権力者が、一週間もの期間行方不明っていうのは、かなり問題ではなかろうか。
とりあえず、これまでの情報で推理できる結論を一つ導く。
「……リムドと揉めて、突発的に家出したんじゃないか?」
「神殿長が?」
「前科はあるぞ? お前は知らないかもしれないが、ライト辺りは知っている筈だ」
「……そういや、ライトや他の古参の連中も言ってたな。リムドが何かしたんじゃないかって」
あの事件を知る者は、皆そう言うに違いない。それだけの衝撃があった筈だ。
「というか、そもそもイルがリムドと出かける事に同意したのか? 護衛にしても、他の奴を呼びそうなものだが」
「仕事だったからな。丁度その時俺も含めた戦士組は遠征に出てたのが多くて、護衛は街でつけてもらう事にしたらしいけど」
そんな事でいいのだろうか。こめかみを軽く抑える。
「いつ頃いなくなったんだ?」
「向こうの護衛と別れて、神殿に帰ろうとした時、らしい」
「……となると、誘拐されたんじゃないか?」
「やっぱり、そうなるか……」
結論に、頭を抱えるしかない。いつか誘拐されるんじゃないかとは思っていたが本当にそうなるとは。
奴は『力』を使えば、基本的にどこに行ってもここまで戻ってこられる筈だ。それを自らの意思でやっていないのか、或いは、それさえもできないような状態にあるのか。
考えて、ふつふつと苛立ちが募ってくる。
「……何をやっているんだ、あいつは……」
口に出すと、尚の事怒りがこみ上げてきた。ブライトから顔を逸らし、足を部屋の方へと向ける。
「……リィン?」
「荷物を置いてくる。文句があるか?」
「いや、ないけど……」
「あ、リィン!」
高い声。反射的に眉を顰める。姿を現したのは、予想通りの白く小さな人影。
「リィン、イル見なかった? あのね、イルがいなくてね……!」
捲くし立てるのを、一睨みで黙らせる。元々泣きそうだった少年は、益々瞳を潤ませたが、そんな事はどうでもいい。
「……見つけ出して、ぶん殴る」
彼は俺を綺麗だと言った。けれど、とその姿を長めながら思う。
一所懸命な彼の方が、多分ずっと美しいのだろう。
心の底から何かに夢中になれるというのは、きっととても素敵な事だ。
彼は声をかけるのを躊躇うくらい懸命で、だから俺は、ただ黙って見ているしかない。彼のようになれない俺には彼の気持ちなどわからなくて、かけるべき言葉も見つからない。無粋な言葉をかけたら彼の懸命さに傷をつけてしまう気がして、何も言えなかった。
それはきっと世間一般では正しくないのだろうと、わかっていても。
「街は探したのか?」
「あ、ああ。けど、どこにもいなかった」
「目撃証言は? あいつは目立つから少しくらいはあるだろう」
「一応、目撃証言を纏めた書類がそこに」
言うや否や、リィンは書類を手に取り、さっと目を落とす。
「これだけか?」
「今のところ……」
「一週間前の馬車の運行情報は?」
「馬車?」
「あいつを連れて徒歩で街を出られるわけがないだろう。馬車にでも乗せる方が手っ取り早い」
「えーと……」
確か、馬車の情報は聞いた筈だ。どうにか記憶を辿る。
「……確か、公的機関が出してる馬車は全部調べた筈だ」
「となると、個人所有か」
「そっちも一応調べてはいるみたいだが、個人で馬車持ってる奴もそう多くない代わりに少なくもない。結構難航してるらしいぞ。神殿長がいなくなったって事を大っぴらに言えないのもあるだろうが」
本人にはあまり自覚がないようだが、世界の最重要人物といっても過言じゃない。そんな人物がいなくなった、なんて事を一般に知られたら大混乱になる。
リィンは書類を机に叩きつけるように戻した。
「もう読んだのか?」
「当たり前だ」
いや、分量のわりにかかった時間は明らかに少なかった。それを口に出さなかったのは、リィンが妙に殺気立っているからだ。こういう時は、下手に刺激しない方がいいだろう。
リィンは乱暴に扉を開け、いつになく荒い足取りで外に出た。恐る恐る中を伺っていたらしい連中が慌てて逃げるように道を開ける。
「リィン、どこ行くんだ?」
「街。そのくらい考えてわかれ戦闘狂」
随分な言い草だ。とにかく、リィンが苛立っている事だけはよくわかった。だが、対処法などはわからない。こんな時に神殿長がいれば、と思ってしまう。その神殿長を探しているというのに。
とりあえず、今のリィンを一人にしておくと街に被害が出かねない。付いていくしかないか、と半分諦めて、その辺に立っていた連中に「街に出てくる」と声をかけておく。集団の中からこちらを覗くハザードは何か言いたげにしていたが、本能の強いハザードはリィンの殺気に気圧されて、小さな身体を更に縮めている。その姿は少々可哀想だったが、今は優先事項がある。
ハザードに背を向けてリィンの背を追って、きっと神殿長ならもっと上手くやるのだろうなと思った。
ずっと座っていて疲れないのか、と彼が尋ねたのは、最初の頃だ。俺はそれに迷わずに首肯したのを覚えている。ただ何もせず座り続ける事には慣れていた。暫く座っていると疲れてくるけれど、それも続けていく内に消えていく。その体質は便利なのかもしれないけど、素直に好きにはなれない。
俺からは声をかけなかった。俺が話すのは、彼が話しかけてきた時だけ。何を話せばいいのかわからないからずっと黙っていた。その事にも、慣れていた。
段々と彼が声をかけてくる事はなくなって、必然的に会話も消えていく。それでいいのかもしれない。この空間にとって、言葉は不要なものにも思えた。
だから俺は今も、動かず話さず、彼の挙動を眺め続ける。
俺にできるのは、多分それだけだから。
リィンが聞き込みに入ったのは、宿屋だった。鬱陶しがられたので、外で待機しておく。リィンは黙って出てきて黙って歩き、黙って別の宿屋に入った。
何をしたいのかよくわからず、とりあえず入り口の横に立つ。営業妨害で訴えられるかもしれないな、なんて事を考えていたら、リィンが出てきた。やはり何も語らず、ずかずかと歩いていく。町人達も、リィンから発せられるただならぬ雰囲気に、道を開けている。
リィンが向かったのは、馬車の受付所。リィンは普段服の中に隠している鎖を引っ張り出し、指輪を受付に見せた。
「調査だ。この地方へ行く馬車を予約したい」
「は……はい!」
慌てて券を用意し、差し出した受付に、硬貨を渡して券を受け取った。受付は少し呆然としてから、慌てて釣り銭を用意しようとする。
「釣りは要らない、急ぐからすぐに出せ」
「は、はい!」
すっかり萎縮した受付の人間が何となく哀れだ。俺も指輪を見せて、ポケットから適当に硬貨を渡す。どれだけ遠くだろうが、足りないという事はないだろう。
「俺もこいつと同じ馬車に。面倒だから釣りはいいや」
「わ、わかりました!」
券を受け取って、畏まった受付とリィンと共に馬車に向かう。乗り込んでいる間に受付が馬車の主に事情を説明していたようで、主は俺達に軽く挨拶をして、すぐに馬車が動き始めた。
「珍しいな、お前が指輪見せるなんて」
声をかけてみるが、返ってきたのは沈黙。相当機嫌が悪いらしい。
ついてこなければよかったかな、と少し後悔する。馬車は、飛び降りるには少し覚悟が要るくらいにはスピードがついていた。
彼は命を燃やすように生きている。
それはとても羨ましい事なのかもしれない。
自分にはとてもできない事だからこそ、一層眩しくて、少しだけ虚しい。どれだけ見つめていても、彼と俺との距離ばかりが明らかになっていく。
ただでさえ遠いこの距離は、きっと近い内に絶対的なそれに変わるのだろう。
その事は、少しだけ残念だった。
馬車に揺られて辿り着いたのは、地方の町。人口はさほど多くないらしいが、旅の中継点として活気には溢れている。
リィンは二、三人に話しかけて、足を森の方へと向けた。何を話しても碌な反応が返ってこない事は十分予想がついたので、俺も黙ってリィンについていく。きっと異様な光景なのだろう、と控えめに集まる視線を受けて思う。
町の中心部から離れて、民家も見えなくなってきた頃。一軒の家が視界に映る。
そして、そこにいた人物に、目を見開いた。
「神殿長……?」
銀色の髪を靡かせたその人は、ゆっくりとこちらに目を向けた。リィンは黙ったまま、近付いていく。だが、俺は思わず立ち止まっていた。微かに汚れた頬でこちらを見つめるその姿は、酷く人形染みていた。
ぱちり、と瞬いて、首を傾げる。
「久しぶり、リィン。どうかした?」
微笑と共に発せられた言葉。それはどこまでもいつも通りだった。
「……ここで何をしている?」
リィンの声は冷え切っていた。完全に怒っている。だが神殿長は苦笑して、白い指で一点を示した。そこにあったのは、少しだけ盛り上がった土の上に突き刺さった、平らな石。それは、不吉な連想を呼び起こす。
「弔ってた。今終わったとこ」
連想の正しさを、神殿長が平坦な口調で告げた。その手と服が少し汚れている理由も、それでわかる。
「でもね、名前を知らないから刻めないんだ。どうしよう? リィンかブライト、知ってる? ここに住んでいた人の名前」
「知るか」
リィンは冷たく答えた。それを予想していたように、神殿長は微笑して、扉を開いた。
「……何をする気だ?」
「持ち物に名前が書いてあるかもしれないから」
神殿長は柔らかな声で告げて、中へと消えていく。リィンが数秒後にそれを追って、俺も中に入る事にした。
真っ先に目に入った物に、一瞬目を奪われた。
キャンパスに描かれた絵を見て、町の人間の批評が正しかった事を知る。『有名ではないけれど腕のいい画家』という言葉の通り、描かれたものは見事なのだろうと思う。
流れるような銀の髪。薄紫の瞳。ありえないくらい整った顔立ち。そして何よりも、あまりに希薄な人間らしさ。
そのモデルが誰なのか、考えるまでもない。
「……どうしよう、名前がどこにも書いてない」
困惑したような声。困ったような顔で、イルが首を傾げる。
「どうしよう、リィン?」
何が、どうしよう、だ。
「名前なんざ要らないだろ」
「ああ、そうだね。その方がいいのかもしれない」
イルは完璧な微笑を浮かべた。人形のように、決まりきった表情。それが昔から嫌いだった。
「……どんな奴だった?」
「懸命な人だったよ」
懸命な『人』。その言い回しに不快感を覚える。現在生きている人間の中で、イルより歳を重ねた者はリムドくらいのものだ。そのせいかは知らないがイルは大抵誰かを示す時は『あの子』、『この間の子』のように、『子』という表現を用いる。『人』という表現を使うのがどんな時か、そんな事はわかっていた。
「……とっとと神殿に行くぞ」
「ん、わかった」
「……一週間分仕事が溜まってるらしいから覚悟だけしておけ」
イルは、きょとんと瞬いた。
「一週間、だったんだ……」
「どのくらいだと思ってたんだ?」
「わからない。あっという間だったような気もするし、何十年もかかったような気もする。ちょっと不思議な感覚かな」
瞳に滲むのは憧憬と、尊敬、それと自嘲にも似た何か。
「……神殿長、この絵、どうするんですか?」
「ああそれ、一応貰ったんだけど、どうしようかなと思って」
「どうしようって……」
「『好きにしていい』って言われたから」
「部屋にでも飾ればどうだ?」
「そうだね、そうしよう」
適当に口にした提案はあっさりと受け入れられた。イルは絵に手をかけようとしたが汚れた手を思い出して躊躇し、その間にブライトが横から軽々と絵を持ち上げた。
「一週間も行方眩ましてみんな心配したんですよ、神殿長?」
「……後でちゃんと謝るよ」
「次からは伝言くらい残してください」
その言葉に、曖昧な笑みを浮かべた。イルはできない約束はしない主義だ。つまり、それを達成する自信がないという事になる。
「……じゃ、行こうか。リムドに怒られるのは嫌だなぁ」
「自業自得だ」
「だね」
光が辺りを取り巻いて、反射的に目を閉じる。再び目を開けた時には、景色が変わっていた。
「ま、とにかく帰ってきましたね」
イルは何も言わずに微笑み、驚き、駆け寄る面々に謝罪を口にした。人の多さが鬱陶しくて、俺はさっさと場を離れる。
喧騒が遠ざかってから、そういえば殴るのを忘れていた、と思い出す。今からでも殴りに行こうかと思ったが、やめておいた。代わりにリムドをいびりに行こう。俺の苛立ちの一端はあいつにある。
ハザードが俺に気付いて声をかけようとしてきたが、睨むと怯えたように口を閉ざした。白いその姿を視界から外してから、イルが戻ってきた事を伝えてやるかどうか一瞬だけ悩んで、やめた。そこまで親切にしてやる義理もない。一心にイルを慕うハザードだから、どうせすぐに知るだろう。
何事にも全力で取り組む少年は、今現在俺から逃げる事に懸命になっている。この少年は、きっと全力で生きている。力の抜き方がわからない、全力でなければ生きていけないと思っているかのように。
その懸命さは少し眩しいが、羨ましいとは思えなかった。
おわり
だから仕方がない、と思ってしまったのだろう。
久々に戻ると、妙に神殿が騒がしかった。ブライトが、俺を見るなり駆け寄ってくる。悪人面の男に駆け寄られるというのは、あまり嬉しい光景ではない。
「リィン、連絡しようと思ってたんだ! 神殿長一緒じゃないのか!?」
何だそれは、俺とあいつはセットだとでも言うのか。何となく腹が立つ。
「いや、最近見てないが」
「マジかよ……」
「……何かあったのか? 仕事から逃亡したのか?」
アレはアレで真面目ではあるから、基本的にはないだろうと思うが、仕事によってはありえないという事もない。だが、ブライトの答えは予想外だった。
「行方不明なんだ」
「……はぁ?」
「リムドと街を見に行ったきり、神殿長だけ戻ってきてないんだ」
「いつからだ?」
「一週間前」
「……」
仮にも世界の最高権力者が、一週間もの期間行方不明っていうのは、かなり問題ではなかろうか。
とりあえず、これまでの情報で推理できる結論を一つ導く。
「……リムドと揉めて、突発的に家出したんじゃないか?」
「神殿長が?」
「前科はあるぞ? お前は知らないかもしれないが、ライト辺りは知っている筈だ」
「……そういや、ライトや他の古参の連中も言ってたな。リムドが何かしたんじゃないかって」
あの事件を知る者は、皆そう言うに違いない。それだけの衝撃があった筈だ。
「というか、そもそもイルがリムドと出かける事に同意したのか? 護衛にしても、他の奴を呼びそうなものだが」
「仕事だったからな。丁度その時俺も含めた戦士組は遠征に出てたのが多くて、護衛は街でつけてもらう事にしたらしいけど」
そんな事でいいのだろうか。こめかみを軽く抑える。
「いつ頃いなくなったんだ?」
「向こうの護衛と別れて、神殿に帰ろうとした時、らしい」
「……となると、誘拐されたんじゃないか?」
「やっぱり、そうなるか……」
結論に、頭を抱えるしかない。いつか誘拐されるんじゃないかとは思っていたが本当にそうなるとは。
奴は『力』を使えば、基本的にどこに行ってもここまで戻ってこられる筈だ。それを自らの意思でやっていないのか、或いは、それさえもできないような状態にあるのか。
考えて、ふつふつと苛立ちが募ってくる。
「……何をやっているんだ、あいつは……」
口に出すと、尚の事怒りがこみ上げてきた。ブライトから顔を逸らし、足を部屋の方へと向ける。
「……リィン?」
「荷物を置いてくる。文句があるか?」
「いや、ないけど……」
「あ、リィン!」
高い声。反射的に眉を顰める。姿を現したのは、予想通りの白く小さな人影。
「リィン、イル見なかった? あのね、イルがいなくてね……!」
捲くし立てるのを、一睨みで黙らせる。元々泣きそうだった少年は、益々瞳を潤ませたが、そんな事はどうでもいい。
「……見つけ出して、ぶん殴る」
彼は俺を綺麗だと言った。けれど、とその姿を長めながら思う。
一所懸命な彼の方が、多分ずっと美しいのだろう。
心の底から何かに夢中になれるというのは、きっととても素敵な事だ。
彼は声をかけるのを躊躇うくらい懸命で、だから俺は、ただ黙って見ているしかない。彼のようになれない俺には彼の気持ちなどわからなくて、かけるべき言葉も見つからない。無粋な言葉をかけたら彼の懸命さに傷をつけてしまう気がして、何も言えなかった。
それはきっと世間一般では正しくないのだろうと、わかっていても。
「街は探したのか?」
「あ、ああ。けど、どこにもいなかった」
「目撃証言は? あいつは目立つから少しくらいはあるだろう」
「一応、目撃証言を纏めた書類がそこに」
言うや否や、リィンは書類を手に取り、さっと目を落とす。
「これだけか?」
「今のところ……」
「一週間前の馬車の運行情報は?」
「馬車?」
「あいつを連れて徒歩で街を出られるわけがないだろう。馬車にでも乗せる方が手っ取り早い」
「えーと……」
確か、馬車の情報は聞いた筈だ。どうにか記憶を辿る。
「……確か、公的機関が出してる馬車は全部調べた筈だ」
「となると、個人所有か」
「そっちも一応調べてはいるみたいだが、個人で馬車持ってる奴もそう多くない代わりに少なくもない。結構難航してるらしいぞ。神殿長がいなくなったって事を大っぴらに言えないのもあるだろうが」
本人にはあまり自覚がないようだが、世界の最重要人物といっても過言じゃない。そんな人物がいなくなった、なんて事を一般に知られたら大混乱になる。
リィンは書類を机に叩きつけるように戻した。
「もう読んだのか?」
「当たり前だ」
いや、分量のわりにかかった時間は明らかに少なかった。それを口に出さなかったのは、リィンが妙に殺気立っているからだ。こういう時は、下手に刺激しない方がいいだろう。
リィンは乱暴に扉を開け、いつになく荒い足取りで外に出た。恐る恐る中を伺っていたらしい連中が慌てて逃げるように道を開ける。
「リィン、どこ行くんだ?」
「街。そのくらい考えてわかれ戦闘狂」
随分な言い草だ。とにかく、リィンが苛立っている事だけはよくわかった。だが、対処法などはわからない。こんな時に神殿長がいれば、と思ってしまう。その神殿長を探しているというのに。
とりあえず、今のリィンを一人にしておくと街に被害が出かねない。付いていくしかないか、と半分諦めて、その辺に立っていた連中に「街に出てくる」と声をかけておく。集団の中からこちらを覗くハザードは何か言いたげにしていたが、本能の強いハザードはリィンの殺気に気圧されて、小さな身体を更に縮めている。その姿は少々可哀想だったが、今は優先事項がある。
ハザードに背を向けてリィンの背を追って、きっと神殿長ならもっと上手くやるのだろうなと思った。
ずっと座っていて疲れないのか、と彼が尋ねたのは、最初の頃だ。俺はそれに迷わずに首肯したのを覚えている。ただ何もせず座り続ける事には慣れていた。暫く座っていると疲れてくるけれど、それも続けていく内に消えていく。その体質は便利なのかもしれないけど、素直に好きにはなれない。
俺からは声をかけなかった。俺が話すのは、彼が話しかけてきた時だけ。何を話せばいいのかわからないからずっと黙っていた。その事にも、慣れていた。
段々と彼が声をかけてくる事はなくなって、必然的に会話も消えていく。それでいいのかもしれない。この空間にとって、言葉は不要なものにも思えた。
だから俺は今も、動かず話さず、彼の挙動を眺め続ける。
俺にできるのは、多分それだけだから。
リィンが聞き込みに入ったのは、宿屋だった。鬱陶しがられたので、外で待機しておく。リィンは黙って出てきて黙って歩き、黙って別の宿屋に入った。
何をしたいのかよくわからず、とりあえず入り口の横に立つ。営業妨害で訴えられるかもしれないな、なんて事を考えていたら、リィンが出てきた。やはり何も語らず、ずかずかと歩いていく。町人達も、リィンから発せられるただならぬ雰囲気に、道を開けている。
リィンが向かったのは、馬車の受付所。リィンは普段服の中に隠している鎖を引っ張り出し、指輪を受付に見せた。
「調査だ。この地方へ行く馬車を予約したい」
「は……はい!」
慌てて券を用意し、差し出した受付に、硬貨を渡して券を受け取った。受付は少し呆然としてから、慌てて釣り銭を用意しようとする。
「釣りは要らない、急ぐからすぐに出せ」
「は、はい!」
すっかり萎縮した受付の人間が何となく哀れだ。俺も指輪を見せて、ポケットから適当に硬貨を渡す。どれだけ遠くだろうが、足りないという事はないだろう。
「俺もこいつと同じ馬車に。面倒だから釣りはいいや」
「わ、わかりました!」
券を受け取って、畏まった受付とリィンと共に馬車に向かう。乗り込んでいる間に受付が馬車の主に事情を説明していたようで、主は俺達に軽く挨拶をして、すぐに馬車が動き始めた。
「珍しいな、お前が指輪見せるなんて」
声をかけてみるが、返ってきたのは沈黙。相当機嫌が悪いらしい。
ついてこなければよかったかな、と少し後悔する。馬車は、飛び降りるには少し覚悟が要るくらいにはスピードがついていた。
彼は命を燃やすように生きている。
それはとても羨ましい事なのかもしれない。
自分にはとてもできない事だからこそ、一層眩しくて、少しだけ虚しい。どれだけ見つめていても、彼と俺との距離ばかりが明らかになっていく。
ただでさえ遠いこの距離は、きっと近い内に絶対的なそれに変わるのだろう。
その事は、少しだけ残念だった。
馬車に揺られて辿り着いたのは、地方の町。人口はさほど多くないらしいが、旅の中継点として活気には溢れている。
リィンは二、三人に話しかけて、足を森の方へと向けた。何を話しても碌な反応が返ってこない事は十分予想がついたので、俺も黙ってリィンについていく。きっと異様な光景なのだろう、と控えめに集まる視線を受けて思う。
町の中心部から離れて、民家も見えなくなってきた頃。一軒の家が視界に映る。
そして、そこにいた人物に、目を見開いた。
「神殿長……?」
銀色の髪を靡かせたその人は、ゆっくりとこちらに目を向けた。リィンは黙ったまま、近付いていく。だが、俺は思わず立ち止まっていた。微かに汚れた頬でこちらを見つめるその姿は、酷く人形染みていた。
ぱちり、と瞬いて、首を傾げる。
「久しぶり、リィン。どうかした?」
微笑と共に発せられた言葉。それはどこまでもいつも通りだった。
「……ここで何をしている?」
リィンの声は冷え切っていた。完全に怒っている。だが神殿長は苦笑して、白い指で一点を示した。そこにあったのは、少しだけ盛り上がった土の上に突き刺さった、平らな石。それは、不吉な連想を呼び起こす。
「弔ってた。今終わったとこ」
連想の正しさを、神殿長が平坦な口調で告げた。その手と服が少し汚れている理由も、それでわかる。
「でもね、名前を知らないから刻めないんだ。どうしよう? リィンかブライト、知ってる? ここに住んでいた人の名前」
「知るか」
リィンは冷たく答えた。それを予想していたように、神殿長は微笑して、扉を開いた。
「……何をする気だ?」
「持ち物に名前が書いてあるかもしれないから」
神殿長は柔らかな声で告げて、中へと消えていく。リィンが数秒後にそれを追って、俺も中に入る事にした。
真っ先に目に入った物に、一瞬目を奪われた。
キャンパスに描かれた絵を見て、町の人間の批評が正しかった事を知る。『有名ではないけれど腕のいい画家』という言葉の通り、描かれたものは見事なのだろうと思う。
流れるような銀の髪。薄紫の瞳。ありえないくらい整った顔立ち。そして何よりも、あまりに希薄な人間らしさ。
そのモデルが誰なのか、考えるまでもない。
「……どうしよう、名前がどこにも書いてない」
困惑したような声。困ったような顔で、イルが首を傾げる。
「どうしよう、リィン?」
何が、どうしよう、だ。
「名前なんざ要らないだろ」
「ああ、そうだね。その方がいいのかもしれない」
イルは完璧な微笑を浮かべた。人形のように、決まりきった表情。それが昔から嫌いだった。
「……どんな奴だった?」
「懸命な人だったよ」
懸命な『人』。その言い回しに不快感を覚える。現在生きている人間の中で、イルより歳を重ねた者はリムドくらいのものだ。そのせいかは知らないがイルは大抵誰かを示す時は『あの子』、『この間の子』のように、『子』という表現を用いる。『人』という表現を使うのがどんな時か、そんな事はわかっていた。
「……とっとと神殿に行くぞ」
「ん、わかった」
「……一週間分仕事が溜まってるらしいから覚悟だけしておけ」
イルは、きょとんと瞬いた。
「一週間、だったんだ……」
「どのくらいだと思ってたんだ?」
「わからない。あっという間だったような気もするし、何十年もかかったような気もする。ちょっと不思議な感覚かな」
瞳に滲むのは憧憬と、尊敬、それと自嘲にも似た何か。
「……神殿長、この絵、どうするんですか?」
「ああそれ、一応貰ったんだけど、どうしようかなと思って」
「どうしようって……」
「『好きにしていい』って言われたから」
「部屋にでも飾ればどうだ?」
「そうだね、そうしよう」
適当に口にした提案はあっさりと受け入れられた。イルは絵に手をかけようとしたが汚れた手を思い出して躊躇し、その間にブライトが横から軽々と絵を持ち上げた。
「一週間も行方眩ましてみんな心配したんですよ、神殿長?」
「……後でちゃんと謝るよ」
「次からは伝言くらい残してください」
その言葉に、曖昧な笑みを浮かべた。イルはできない約束はしない主義だ。つまり、それを達成する自信がないという事になる。
「……じゃ、行こうか。リムドに怒られるのは嫌だなぁ」
「自業自得だ」
「だね」
光が辺りを取り巻いて、反射的に目を閉じる。再び目を開けた時には、景色が変わっていた。
「ま、とにかく帰ってきましたね」
イルは何も言わずに微笑み、驚き、駆け寄る面々に謝罪を口にした。人の多さが鬱陶しくて、俺はさっさと場を離れる。
喧騒が遠ざかってから、そういえば殴るのを忘れていた、と思い出す。今からでも殴りに行こうかと思ったが、やめておいた。代わりにリムドをいびりに行こう。俺の苛立ちの一端はあいつにある。
ハザードが俺に気付いて声をかけようとしてきたが、睨むと怯えたように口を閉ざした。白いその姿を視界から外してから、イルが戻ってきた事を伝えてやるかどうか一瞬だけ悩んで、やめた。そこまで親切にしてやる義理もない。一心にイルを慕うハザードだから、どうせすぐに知るだろう。
何事にも全力で取り組む少年は、今現在俺から逃げる事に懸命になっている。この少年は、きっと全力で生きている。力の抜き方がわからない、全力でなければ生きていけないと思っているかのように。
その懸命さは少し眩しいが、羨ましいとは思えなかった。
おわり
『これも一つの恒例行事』
2009年2月14日 文章 届けられた荷物を開けると、甘い芳香が漂った。甘い物に目がない相棒が機敏に反応してくる。
「チョコレート……」
送り主を再度確認して、警戒する。ふと、小さな手紙が添えられている事に気が付いた。
『日付感覚すら薄れている可能性のある兄貴へ。
今日は世間ではバレンタインデーと呼ばれる日だから、日頃の感謝を込めて
チョコレートを作ってみたよ。
相棒さんと仲良く食べてね。
追伸 普通のチョコレートだから安心して食べていいよ。
弟より 』
手紙を読み終えてまず思ったのが、バレンタインデーとは果たしてそういう日だったかという事だ。ただこれは考えてもよくわからないので、とりあえず流しておく。次に気になったのは『日付感覚すら薄れている可能性のある』という『兄貴』にかかる修飾語だったが、これに関しては何もいえないのでやめておいた。
「相棒、食べてもいい?」
「……昼飯を食ってからな」
目を輝かせる相棒を制して、ため息をついた。
バレンタイン、という行事は嫌いではない。朝から手渡された『友チョコ』と命名された義理チョコを合計してみると、そこそこの量になった。
「うわ、凄いな和谷」
「女子はみんなこんなもんだろ」
呆れ半分感心半分、といった夏川に適当に答える。そういえばこいつはそこそこもてるらしいけど、今年の収穫はどうだったのだろう。少し気になったが、あたしには関係がないのでさくっと疑問は流す。
「それじゃ、これは俺から」
「は?」
眉をひそめている間に、パンを三つほど渡された。チョコレート系のパンが二つと、何故か焼きそばパンが一つ。
「この間世話になったから、それやるよ」
「こっちの二つはわかるとして、焼きそばパンは?」
「甘いものばっかだと飽きるだろ? 口直しにと思って」
「もらっても特にお返しとかはしないけど」
「いいんだよ、お礼だし。お礼に対するお礼ってのも、何か変だろ?」
「そっか、ありがと」
パンは素直に嬉しい。チョコレートだとかも嫌いじゃないしいいんだけど、もっとがっつりと食べれる物の方が好きだ。
それじゃ、と言い残して、夏川は去っていった。
放課後、屋上で戦利品を広げた。色々あって顔が広い身なので、それなりの量を貰う事になる。この量を家に持って帰るのは面倒なので、学校で食っていく事にしたわけだ。『魔法使い』達からの呼び出しもあったせいで、屋上で食べる事になったのだが。
二人も一般男子生徒よりそれなりに貰っているらしく、少しだけ困った顔をしていた。性格はどうあれ、顔は無駄に美形だから。
「葵君、随分と大量に貰ったね」
「お前らだって貰ってるだろ。しかも多分本命」
「義理とはいえ、そんなに貰えるっていうのも凄いと思うけどね」
「まあ、それを言っていくと、大量の本命チョコを貰う我が校の生徒会長が一番凄いって事になるんじゃない?」
会長の人気ぶりは異常だ。いくら男前でも、一応女子生徒なんだけど。
「……で、そこの二人はどうだった?」
「義理チョコをいくつか貰いました」
水無月はそう笑っているが、案外義理ではないのかもしれない。『魔法使い』達と比べると見た目は少しぱっとしないところがあるが、性格は比べるのが失礼なくらいこちらの方がまともだし。
ちなみに、春夏秋冬は、美味しそうにチョコを咀嚼していた。こいつもなかなか
人気がありそうだ。あたしの周りにはこういうのばかりな気がする。
「で、どうして呼び出されたわけ?」
「前に葵君にリクエストされたものを作ってきたから、渡そうと思って」
そう言って聖が取り出した箱に入っていたのは、チョコレートだった。毎年たくさん貰うわりに種類には疎いのだが、とりあえず板チョコを溶かして固めただけ、という代物ではなさそうだ。
「それと、チョコケーキも作ったんだけど」
「何でそんなものまで……」
「いや、一度作るとあれもこれも作りたくなって。葵君なら食べれるだろうし。それに、可愛い後輩達にも何かあげたいじゃない」
「その台詞、お前が言うと途端に胡散臭い」
「辛辣だなぁ……」
日頃の行いのせいだろ。
友達に貰った大量のチョコも、夏川から貰ったパンも、更には聖特製のチョコやらケーキを食べると、流石に暫く空腹にはならないだろう、という程度にはなった。甘いものが圧倒的に多い中で、焼きそばパンは正直ありがたかった。
真理と二人並んで、薄暗くなってきた町を歩く。真理の家の手前で、足を止めた。
「それじゃ、また明日」
告げてみるも、返事がない。真理は少しだけ迷ってから、何かを突き出した。
「これ」
受け取ったそれは、丁寧に包装された包みだった。
「バレンタイン」
真理の言葉は短い。それでも、何を言いたいのか、何を訴えたいのか、十分にわかった。
「……ありがとう、真理」
友人からの好意より、夏川の厚意より、聖の美味しいチョコよりも、この幼馴染からのチョコレートは、嬉しかった。いつだってそうだった気がする。
「ありがとう」
もう一度御礼を口にした。それでもまだまだ、感謝の念は乗せきれないけれど。
家に明かりがついている事に気付いて、首を傾げた。今日は兄貴が帰ってくる日だっただろうか。予定は聞いていないが、もしかしたら急に決めたのかもしれない。たまにそういう事をやる兄だから。
扉を開けると、何だかいい匂いがした。とりあえず口を開く。
「ただいま」
「……おう、おかえり」
久々に聞いた挨拶だった。何となく嬉しい気持ちになって、笑ってしまった。
居間のソファに座り込んだ兄貴に、笑みを向ける。
「兄貴、突然どうしたの?」
「家に帰ってきて何が悪い。さっさと荷物置いて来い」
言い分は確かに間違ってはいないんだけど。荷物を部屋の机に置いて、脱いだコートをハンガーにかける。少し身軽になった。
居間に戻ると、兄貴は新聞から顔を上げた。テレビ欄を見ていたらしい。
「腹は減ってるか?」
「ん? ああ、うん」
チョコを食べてから何だかんだで色々とやっていたし、時間も時間なのでそれなりに空腹ではある。ふと思い出した。
「兄貴、チョコどうだった?」
「甘かった。ああ、相棒が喜んでいた」
「そう。それはよかった」
兄貴の感想はともかく、誰かに喜ばれたのは素直に嬉しい。兄貴は台所の方に行って、暫くして皿を持って戻ってきた。
「あ、作ってくれてたんだ」
「ああ」
いつも以上にそっけない態度だ。何か怒らせるような事をしたか、と考えてみたものの、特に思い当たる要素はない。チョコに不平があるわけでないなら、要因は他にあるという事になるが、別居している為に兄貴と話をする事も少ない。メールさえあまりしない人だし。
皿を覗き込んで、頬が緩んだ。
「へぇ、シチューなんだ」
兄貴の作るシチューは好きだ。普段一人でいるとあまり作らない料理でもあるし、何だか懐かしい心持になる。
「冷めない内に食え」
「はーい。いただきます」
一口食べて、懐かしい味にほっとした。兄貴もスプーンでシチューをつついて、不意に顔を上げた。
「これで貸し借りナシだから、覚えておけ」
「は?」
「普通バレンタインに何か貰ったら一月後に何かの形で借りを返すんだろう? 一月も覚えていられるかわかんねぇから、先に返しておく」
兄貴が言っているのは、ホワイトデーの事だろうか。一月も覚えていられない、というのは兄貴らしいけれど。
「……ありがとう」
素直に礼を述べたのは、酷く久しぶりな気がした。
おわり。
あとがき
色気の限りなく薄いバレンタイン話。テーマは「ありがとう」に、書いている最中になりました(計画性皆無)
「今年のバレンタインは土曜日じゃん」というツッコミはスルーさせてください。
「チョコレート……」
送り主を再度確認して、警戒する。ふと、小さな手紙が添えられている事に気が付いた。
『日付感覚すら薄れている可能性のある兄貴へ。
今日は世間ではバレンタインデーと呼ばれる日だから、日頃の感謝を込めて
チョコレートを作ってみたよ。
相棒さんと仲良く食べてね。
追伸 普通のチョコレートだから安心して食べていいよ。
弟より 』
手紙を読み終えてまず思ったのが、バレンタインデーとは果たしてそういう日だったかという事だ。ただこれは考えてもよくわからないので、とりあえず流しておく。次に気になったのは『日付感覚すら薄れている可能性のある』という『兄貴』にかかる修飾語だったが、これに関しては何もいえないのでやめておいた。
「相棒、食べてもいい?」
「……昼飯を食ってからな」
目を輝かせる相棒を制して、ため息をついた。
バレンタイン、という行事は嫌いではない。朝から手渡された『友チョコ』と命名された義理チョコを合計してみると、そこそこの量になった。
「うわ、凄いな和谷」
「女子はみんなこんなもんだろ」
呆れ半分感心半分、といった夏川に適当に答える。そういえばこいつはそこそこもてるらしいけど、今年の収穫はどうだったのだろう。少し気になったが、あたしには関係がないのでさくっと疑問は流す。
「それじゃ、これは俺から」
「は?」
眉をひそめている間に、パンを三つほど渡された。チョコレート系のパンが二つと、何故か焼きそばパンが一つ。
「この間世話になったから、それやるよ」
「こっちの二つはわかるとして、焼きそばパンは?」
「甘いものばっかだと飽きるだろ? 口直しにと思って」
「もらっても特にお返しとかはしないけど」
「いいんだよ、お礼だし。お礼に対するお礼ってのも、何か変だろ?」
「そっか、ありがと」
パンは素直に嬉しい。チョコレートだとかも嫌いじゃないしいいんだけど、もっとがっつりと食べれる物の方が好きだ。
それじゃ、と言い残して、夏川は去っていった。
放課後、屋上で戦利品を広げた。色々あって顔が広い身なので、それなりの量を貰う事になる。この量を家に持って帰るのは面倒なので、学校で食っていく事にしたわけだ。『魔法使い』達からの呼び出しもあったせいで、屋上で食べる事になったのだが。
二人も一般男子生徒よりそれなりに貰っているらしく、少しだけ困った顔をしていた。性格はどうあれ、顔は無駄に美形だから。
「葵君、随分と大量に貰ったね」
「お前らだって貰ってるだろ。しかも多分本命」
「義理とはいえ、そんなに貰えるっていうのも凄いと思うけどね」
「まあ、それを言っていくと、大量の本命チョコを貰う我が校の生徒会長が一番凄いって事になるんじゃない?」
会長の人気ぶりは異常だ。いくら男前でも、一応女子生徒なんだけど。
「……で、そこの二人はどうだった?」
「義理チョコをいくつか貰いました」
水無月はそう笑っているが、案外義理ではないのかもしれない。『魔法使い』達と比べると見た目は少しぱっとしないところがあるが、性格は比べるのが失礼なくらいこちらの方がまともだし。
ちなみに、春夏秋冬は、美味しそうにチョコを咀嚼していた。こいつもなかなか
人気がありそうだ。あたしの周りにはこういうのばかりな気がする。
「で、どうして呼び出されたわけ?」
「前に葵君にリクエストされたものを作ってきたから、渡そうと思って」
そう言って聖が取り出した箱に入っていたのは、チョコレートだった。毎年たくさん貰うわりに種類には疎いのだが、とりあえず板チョコを溶かして固めただけ、という代物ではなさそうだ。
「それと、チョコケーキも作ったんだけど」
「何でそんなものまで……」
「いや、一度作るとあれもこれも作りたくなって。葵君なら食べれるだろうし。それに、可愛い後輩達にも何かあげたいじゃない」
「その台詞、お前が言うと途端に胡散臭い」
「辛辣だなぁ……」
日頃の行いのせいだろ。
友達に貰った大量のチョコも、夏川から貰ったパンも、更には聖特製のチョコやらケーキを食べると、流石に暫く空腹にはならないだろう、という程度にはなった。甘いものが圧倒的に多い中で、焼きそばパンは正直ありがたかった。
真理と二人並んで、薄暗くなってきた町を歩く。真理の家の手前で、足を止めた。
「それじゃ、また明日」
告げてみるも、返事がない。真理は少しだけ迷ってから、何かを突き出した。
「これ」
受け取ったそれは、丁寧に包装された包みだった。
「バレンタイン」
真理の言葉は短い。それでも、何を言いたいのか、何を訴えたいのか、十分にわかった。
「……ありがとう、真理」
友人からの好意より、夏川の厚意より、聖の美味しいチョコよりも、この幼馴染からのチョコレートは、嬉しかった。いつだってそうだった気がする。
「ありがとう」
もう一度御礼を口にした。それでもまだまだ、感謝の念は乗せきれないけれど。
家に明かりがついている事に気付いて、首を傾げた。今日は兄貴が帰ってくる日だっただろうか。予定は聞いていないが、もしかしたら急に決めたのかもしれない。たまにそういう事をやる兄だから。
扉を開けると、何だかいい匂いがした。とりあえず口を開く。
「ただいま」
「……おう、おかえり」
久々に聞いた挨拶だった。何となく嬉しい気持ちになって、笑ってしまった。
居間のソファに座り込んだ兄貴に、笑みを向ける。
「兄貴、突然どうしたの?」
「家に帰ってきて何が悪い。さっさと荷物置いて来い」
言い分は確かに間違ってはいないんだけど。荷物を部屋の机に置いて、脱いだコートをハンガーにかける。少し身軽になった。
居間に戻ると、兄貴は新聞から顔を上げた。テレビ欄を見ていたらしい。
「腹は減ってるか?」
「ん? ああ、うん」
チョコを食べてから何だかんだで色々とやっていたし、時間も時間なのでそれなりに空腹ではある。ふと思い出した。
「兄貴、チョコどうだった?」
「甘かった。ああ、相棒が喜んでいた」
「そう。それはよかった」
兄貴の感想はともかく、誰かに喜ばれたのは素直に嬉しい。兄貴は台所の方に行って、暫くして皿を持って戻ってきた。
「あ、作ってくれてたんだ」
「ああ」
いつも以上にそっけない態度だ。何か怒らせるような事をしたか、と考えてみたものの、特に思い当たる要素はない。チョコに不平があるわけでないなら、要因は他にあるという事になるが、別居している為に兄貴と話をする事も少ない。メールさえあまりしない人だし。
皿を覗き込んで、頬が緩んだ。
「へぇ、シチューなんだ」
兄貴の作るシチューは好きだ。普段一人でいるとあまり作らない料理でもあるし、何だか懐かしい心持になる。
「冷めない内に食え」
「はーい。いただきます」
一口食べて、懐かしい味にほっとした。兄貴もスプーンでシチューをつついて、不意に顔を上げた。
「これで貸し借りナシだから、覚えておけ」
「は?」
「普通バレンタインに何か貰ったら一月後に何かの形で借りを返すんだろう? 一月も覚えていられるかわかんねぇから、先に返しておく」
兄貴が言っているのは、ホワイトデーの事だろうか。一月も覚えていられない、というのは兄貴らしいけれど。
「……ありがとう」
素直に礼を述べたのは、酷く久しぶりな気がした。
おわり。
あとがき
色気の限りなく薄いバレンタイン話。テーマは「ありがとう」に、書いている最中になりました(計画性皆無)
「今年のバレンタインは土曜日じゃん」というツッコミはスルーさせてください。
『ある一人から見た二人』
2008年12月31日 文章 夜の帳も降りきった頃、フィアスは二人はカップを手に二人の様子を観察した。気まぐれに遊びに来た時に嫌そうな顔を向けてきて以降、フィアスを眼中に入れもしないリィンと、眠れないのかと心配して温めたミルクをくれたイル。二人は今、机上にある一冊の本を挟んで何か話し込んでいる。使われている言語は標準語で、読み書きはできなくても会話はできるフィアスには理解できるはずのものだ。だが、現在二人が何を話しているのかはフィアスには理解できていない。使用されている単語の意味がわからないからだ。多分何かの専門用語なのだろう、とフィアスは判断して、いちいち口を挟むこともない。
「フィアス、熱いの苦手だった?」
ミルクを飲まず、只管ぼーっとしていたフィアスに気付いたイルが、心配したように首を傾げた。フィアスは首を横に振って、ミルクを一口飲んだ。『熱い』というより程よく『温かい』と表現した方が正しい。何となくほっとしたような気分になったが、それを口に出せずに黙り込む。何を言っていいのかわからず、じっと人形のような顔を見つめた。
「……別に、気にしなくていいよ」
どうにか出てきたのはそんな言葉で、フィアスは自分に苛立ちを覚えた。イルはまだ少し困惑したように、しかし、本人がそう言うなら、とリィンに向き直る。リィンは一連の会話の間も、フィアスを見ることはなかった。
何故この二人が仲が良いのだろう、とフィアスは常々疑問に思っていた。それは以前からの悩みであり、話し込んでいる二人を眺めている今この時も、その状況が成り立つことが不思議だった。
趣味が共通している、というのが妥当な結論かと思った時期もある。今眼前で繰り広げられているのも、二人の一致している趣味に関わるものだ。
しかし、それは要因の一つではあるかもしれないが、決定的なものでもないのだろう。趣味が合うだけの人間なら、互いに他にもいるだろう。だが、それらの人物との関係は険悪ではないが、『仲良し』とも言いがたい。どこかに線を引いているかのようであった。
その曖昧な疑問は仄かな薄闇のようにフィアスの頭にまとわりついていた。そのままにしておくには少々邪魔だが、フィアスは未だにそれを払う術さえ見つけてはいない。
「ちょ、い、痛いって」
控えめな抗議の声に意識を戻す。リィンがイルの髪を少々強めに引っ張っているようだった。
「な……何、してるの?」
流石に口を挟むと、リィンはフィアスには目をやらず、しかし意識だけは微かに向けてきた。フィアスがびくりと肩を震わせるうちに、口を開く。
「髪を引いている」
「……それは、わかるけど」
リィンは不意に席を立ち、イルの背後に立った。そして、髪をざっと手櫛で整えて、銀糸をしばらく見据える。やがて、手を動かし始めた。
「……何してるの?」
「ええと……髪を結ってくれるみたい」
何故突然、と思ったが、フィアスはそれを口に出すことはやめた。どうせ尋ねても答えは返ってこないか、わからない言葉を投げられるかのどちらかだ。
「いつものことだから大丈夫だよ」
のんびりした言葉と普段通りの笑顔に、フィアスは肩の力を抜く。そして『大丈夫』という単語に安堵した自分に気付いた。知らず知らずのうちに、リィンがイルに何かするのではないかと警戒していたようだった。そんな自分を誤魔化すように、話を変える。
「本の話は、もうおわったの?」
「中断してる。互いにいい言葉が見つからなくって」
「ふぅん……」
生返事をして、フィアスはぼんやり二人を眺める。前を見てろ崩れる、とリィンが不機嫌そうに告げ、イルが苦笑して前に向き直った。
「……イル、髪が伸びたな」
「え? そうかな?」
「……まあ、これだけ長ければ気付かないか」
「自分の髪なんて、毎日見ているしね。思い切ってばっさり切っちゃおうか」
毛先を摘んで、そういえば伸びたかな、と呟く。リィンが微かに眉をひそめた。
「やめとけ。もう少し伸ばせばどうだ?」
「え? うーん……別にいいけど、どれくらい?」
「腰より少し下くらいまでなら、動くにも支障はないだろう」
「あ、それならいいや」
「……どこまで伸ばせと言われてると思ったんだ?」
「リィンと会った頃まで」
「……あれは流石に不便だろう。見ていて鬱陶しい」
ぽんぽん、と繰り広げられる会話に、フィアスが微かに興味を示した。
「今より長かったの?」
「うん、そういう時期もあったね。結構前だけど」
「どのくらい?」
「足首の辺りまでかな。ただ何となく伸ばしっぱなしにしてたら、そうなっちゃって」
「足首まで?」
フィアスは想像してみようと思ったが、うまく想像できなかった。リィンはイルの髪をいじる事に集中している。
「二人は、仲がいいよね」
ぽつり、とフィアスが呟く。自然と零れた声に、リィンが眉をひそめた。
「くだらねえな」
「リィン、それちょっとひど……痛い痛い、耳引っ張らないで」
「加減してやってるだろうが」
「いや、それはそうなんだけど……」
「それなら問題ないだろう」
「え? うーん、そう、なのかなぁ」
そっか、そうかも、と言うイルに、フィアスはため息をついた。どう考えても、騙されている。
「フィアス、大丈夫?」
「……何が?」
「眠くない? 無理して起きてると、体調悪くするよ?」
「別に……」
答えてから、支障が出るのが自分ではないことを思い出した。身体は共用なので、そういったダメージはハザードにいく事になる。少し考えて、ため息をついた。
「……わかった、もう寝る」
「それじゃ、部屋まで送ろうか?」
「別にいい」
「そっか。気をつけてね。おやすみ」
「……ん」
返事とも付かない声を発して、フィアスは立ち上がる。扉から出る直前に、ふと思い出した。小さな眉間に皺を寄せて暫し考え、ため息をついた。
振り返り、髪を編みこむリィンと、されるがままにしているイルを眺めて、覚悟を決めた。
「……おやすみ」
半ば自棄気味に言い残し、逃げるように扉から外へ出て行った。
フィアスが去った後で、イルが耐え切れないようにくすくす笑い始めた。リィンが顔をしかめる。
「何だ、突然」
「いや、俺とリィンって、仲良く見えるんだと思って」
「……一応、友人だからな」
大変嫌そうに「一応」を強調して吐き捨てるリィンに、それでもイルは微笑を返した。
「一応でも、嬉しいな」
「……勝手にしてろ」
「うん、勝手にするよ」
のんびりと答えたイルに、リィンが不機嫌そうに眉をひそめて、ため息をついた。髪を見事に結い上げて、その出来映えに少しだけ機嫌を上昇させる。それから、ふとあることに気付いた。
「折角の力作だが、寝たら意味がないな」
「ああ……」
イルが苦笑した。リィンは不機嫌そうにため息をついた。それは限りなく、普段通りの日常だった。
おわり
やっぱり三人称は難しい……
「フィアス、熱いの苦手だった?」
ミルクを飲まず、只管ぼーっとしていたフィアスに気付いたイルが、心配したように首を傾げた。フィアスは首を横に振って、ミルクを一口飲んだ。『熱い』というより程よく『温かい』と表現した方が正しい。何となくほっとしたような気分になったが、それを口に出せずに黙り込む。何を言っていいのかわからず、じっと人形のような顔を見つめた。
「……別に、気にしなくていいよ」
どうにか出てきたのはそんな言葉で、フィアスは自分に苛立ちを覚えた。イルはまだ少し困惑したように、しかし、本人がそう言うなら、とリィンに向き直る。リィンは一連の会話の間も、フィアスを見ることはなかった。
何故この二人が仲が良いのだろう、とフィアスは常々疑問に思っていた。それは以前からの悩みであり、話し込んでいる二人を眺めている今この時も、その状況が成り立つことが不思議だった。
趣味が共通している、というのが妥当な結論かと思った時期もある。今眼前で繰り広げられているのも、二人の一致している趣味に関わるものだ。
しかし、それは要因の一つではあるかもしれないが、決定的なものでもないのだろう。趣味が合うだけの人間なら、互いに他にもいるだろう。だが、それらの人物との関係は険悪ではないが、『仲良し』とも言いがたい。どこかに線を引いているかのようであった。
その曖昧な疑問は仄かな薄闇のようにフィアスの頭にまとわりついていた。そのままにしておくには少々邪魔だが、フィアスは未だにそれを払う術さえ見つけてはいない。
「ちょ、い、痛いって」
控えめな抗議の声に意識を戻す。リィンがイルの髪を少々強めに引っ張っているようだった。
「な……何、してるの?」
流石に口を挟むと、リィンはフィアスには目をやらず、しかし意識だけは微かに向けてきた。フィアスがびくりと肩を震わせるうちに、口を開く。
「髪を引いている」
「……それは、わかるけど」
リィンは不意に席を立ち、イルの背後に立った。そして、髪をざっと手櫛で整えて、銀糸をしばらく見据える。やがて、手を動かし始めた。
「……何してるの?」
「ええと……髪を結ってくれるみたい」
何故突然、と思ったが、フィアスはそれを口に出すことはやめた。どうせ尋ねても答えは返ってこないか、わからない言葉を投げられるかのどちらかだ。
「いつものことだから大丈夫だよ」
のんびりした言葉と普段通りの笑顔に、フィアスは肩の力を抜く。そして『大丈夫』という単語に安堵した自分に気付いた。知らず知らずのうちに、リィンがイルに何かするのではないかと警戒していたようだった。そんな自分を誤魔化すように、話を変える。
「本の話は、もうおわったの?」
「中断してる。互いにいい言葉が見つからなくって」
「ふぅん……」
生返事をして、フィアスはぼんやり二人を眺める。前を見てろ崩れる、とリィンが不機嫌そうに告げ、イルが苦笑して前に向き直った。
「……イル、髪が伸びたな」
「え? そうかな?」
「……まあ、これだけ長ければ気付かないか」
「自分の髪なんて、毎日見ているしね。思い切ってばっさり切っちゃおうか」
毛先を摘んで、そういえば伸びたかな、と呟く。リィンが微かに眉をひそめた。
「やめとけ。もう少し伸ばせばどうだ?」
「え? うーん……別にいいけど、どれくらい?」
「腰より少し下くらいまでなら、動くにも支障はないだろう」
「あ、それならいいや」
「……どこまで伸ばせと言われてると思ったんだ?」
「リィンと会った頃まで」
「……あれは流石に不便だろう。見ていて鬱陶しい」
ぽんぽん、と繰り広げられる会話に、フィアスが微かに興味を示した。
「今より長かったの?」
「うん、そういう時期もあったね。結構前だけど」
「どのくらい?」
「足首の辺りまでかな。ただ何となく伸ばしっぱなしにしてたら、そうなっちゃって」
「足首まで?」
フィアスは想像してみようと思ったが、うまく想像できなかった。リィンはイルの髪をいじる事に集中している。
「二人は、仲がいいよね」
ぽつり、とフィアスが呟く。自然と零れた声に、リィンが眉をひそめた。
「くだらねえな」
「リィン、それちょっとひど……痛い痛い、耳引っ張らないで」
「加減してやってるだろうが」
「いや、それはそうなんだけど……」
「それなら問題ないだろう」
「え? うーん、そう、なのかなぁ」
そっか、そうかも、と言うイルに、フィアスはため息をついた。どう考えても、騙されている。
「フィアス、大丈夫?」
「……何が?」
「眠くない? 無理して起きてると、体調悪くするよ?」
「別に……」
答えてから、支障が出るのが自分ではないことを思い出した。身体は共用なので、そういったダメージはハザードにいく事になる。少し考えて、ため息をついた。
「……わかった、もう寝る」
「それじゃ、部屋まで送ろうか?」
「別にいい」
「そっか。気をつけてね。おやすみ」
「……ん」
返事とも付かない声を発して、フィアスは立ち上がる。扉から出る直前に、ふと思い出した。小さな眉間に皺を寄せて暫し考え、ため息をついた。
振り返り、髪を編みこむリィンと、されるがままにしているイルを眺めて、覚悟を決めた。
「……おやすみ」
半ば自棄気味に言い残し、逃げるように扉から外へ出て行った。
フィアスが去った後で、イルが耐え切れないようにくすくす笑い始めた。リィンが顔をしかめる。
「何だ、突然」
「いや、俺とリィンって、仲良く見えるんだと思って」
「……一応、友人だからな」
大変嫌そうに「一応」を強調して吐き捨てるリィンに、それでもイルは微笑を返した。
「一応でも、嬉しいな」
「……勝手にしてろ」
「うん、勝手にするよ」
のんびりと答えたイルに、リィンが不機嫌そうに眉をひそめて、ため息をついた。髪を見事に結い上げて、その出来映えに少しだけ機嫌を上昇させる。それから、ふとあることに気付いた。
「折角の力作だが、寝たら意味がないな」
「ああ……」
イルが苦笑した。リィンは不機嫌そうにため息をついた。それは限りなく、普段通りの日常だった。
おわり
やっぱり三人称は難しい……
随分と寒くなってきた。朝は特に冷え込む。軽く動いて身体を暖めようと、訓練場で軽く訓練していると、段々身体が温まってきた。適当なところで切り上げて、上着を脱いで歩いていると、神殿長を見つけた。妙に薄着で、何だか眠そうにしている。
「おはようございます」
「ん……おはよう」
やはり眠そうだ。見ていて寒そうなので、適当に抱えていた上着を肩にかけさせた。その時ほんの少し触れた肩がひどく冷たいことに気づいた。
「冷たっ! ちょ、神殿長、この寒いのに薄着でいるから……」
手を取ると、やはりというか指先は氷のように冷たい。背筋がぞくりとした。
「あー、もう……」
手を暖めようと包み込む。神殿長が眠そうな顔をあげた。
「ん……ブライト、暖かいね……」
「神殿長が冷えすぎなんです」
「……朝っぱらから廊下で何をやってるんだ、お前らは」
不機嫌な声に振り向くと、リィンがいた。神殿長がのんびりと眠そうな声で「おはよう」と告げた。その様子に、リィンが眉をひそめる。リィンが手袋を外して神殿長の頬に触れて、顔をしかめた。
「……もうそんな時期か……」
呟くと、神殿長の背中を押し、バランスを崩した神殿長が倒れこんでくるのをほとんど反射的に受け止めた。あまりに冷たくて驚いたが、突き放すわけにも行かないので抱きとめておく。うわ、マジで冷たい。
「ん……暖かい……」
そう言われると、放すわけにもいかなくなった。ぎゅ、と抱き疲れると流石に緊張するが、それ以前にやはりこの氷のような冷たさが気になってしまう。
「よし、そのまま抱いてろ」
「えぇ!?」
「お前体温高いし大丈夫だろう。その間に暖炉に火を焚かせる。抱えて移動して来い」
「は? 突然何なんだ?」
「いいから、黙って従え。身体を外から暖めないと冬眠する」
「と、冬眠?」
流石に理解しきれない。だが、通りすがりの奴が過敏に反応した。
「しまった! もうそんな時期か!」
「早く薪をもってこい!」
ばたばたと走り始めた。混乱しているのは新参者だけらしい。このままいても仕方がないので、言われたとおり神殿長を抱えあげる。うわ、軽い。
「んー……」
「神殿長、どうかしました?」
「眠い……」
「いいか、ブライト、意地でも寝かすな。今寝ると恐らく冬眠する。疲労させすぎないように考慮して、適度に話しかけて意識を保たせろ」
いきなり無理な注文をつきつけられた。いや、それは無理だ。
「そんなに言うなら、リィンが話しかけろよ」
「あぁ?」
「俺は抱えるだけで精一杯だ。お前が話しかけろよ。神殿長だって多分その方が話に集中できるだろ。俺よりお前の方が興味ある話題振れるだろう?」
俺がまともに話せる話題なんて、武器とか戦い方、簡単な兵法くらいのものだ。そのどれもが、神殿長が興味を示せるような話題ではないだろう。
仕方がなさそうにリィンが神殿長に話しかけ始めた。一つ一つの言葉に、神殿長が半ば眠気に支配されているかのようにぼんやりと答えを返していく。一応反応は返っているので起きているのだろうが、少々反応が鈍い。
暖炉のある空間に到達すると、珍しく火がついていた。冷たい神殿長を抱いていた為に段々寒くなっていたので、この暖かさはありがたかった。
「で、どうするんだ?」
「暖炉の傍の椅子に座らせろ」
目を向けると、あまり見覚えのない揺り椅子が置いてあった。あれに座らせればいいのだろう。慎重に神殿長を座らせ、漸く一息ついた。リィンが些か乱暴に神殿長を毛布で包む。
「で、冬眠って何なんだ?」
流石に冷えた手を火に翳して暖めつつ、尋ねる。リィンは煩わしげな顔をしたが、一応口を開いた。
「こいつは外気が冷えてくると、それにつられて体温が低下する。一定以上体温が下がると活動できなくなるから、『力』で自動的にある程度は熱を出して行動できるようにしているんだが、その熱量には限りがある。常時消費していると減るばかりで蓄積ができない為に、蓄積する為に深い眠りにつく事がある。それを『冬眠』と呼んでいる」
「深い眠りって、具体的にどのくらい?」
「短くて五日、長いと数週間眠りこける。その間は基本的に起きない」
「あー……そうなると、仕事類が物凄い溜まりそうだな」
「それもないわけではないが、その辺りはもう長いこと続いているから不可抗力ということになっている。だが、他に問題がある」
「問題?」
「神殿には、『神殿長』がいる限り結界が働いていることは知っているだろう?」
そうだったか。疑問に思っているのを察されたのか、リィンが露骨に呆れた顔をした。今回はどうやっても反論できないので、黙っておく。
「ある程度、自動で温度調節が保たれたり内部で異常が起これば神殿長がすぐに察せたりと、様々な機能がついているらしい。すべてを知っているわけではないが」
「……そうなのか」
初めて知った。割と慣れてきたと思っていたが、知らないこともやはりまだまだ多いようだった。
「で、こいつが外出しようがその結界は保たれるんだが、冬眠中はそれが解除される」
「へぇ……」
納得した俺に、リィンが物凄い呆れたような顔を向けてきた。ような、というか、多分それそのものなんだろう。
「つまり、こいつが冬眠すると、他に比べて少しは過ごしやすいこの空間が成り立たなくなるわけだ。他にも色々と弊害があるんだが……とりあえず、いちいち説明するのが面倒だから省く」
言いながらリィンは神殿長の背後に回った。そして、何を思ったか髪をいじり始めた。神殿長が小さく目線を向けて、それから暖炉の火へと目をやった。
「この時期、こいつが妙に眠そうにしていたら冬眠が近付いている合図だ。外から暖めて活動できる体温にしてやる必要がある」
「そういうことか」
一連の行動の謎が解けた。眠そうな神殿長の肩をリィンが定期的に揺すっている。
「にしても、みんな随分対応慣れてるな」
「毎年恒例らしいからな」
「ああ……」
考えてみれば、寒冷期は毎年訪れるんだから当たり前か。ということは、今日のことをしっかりと覚えておく必要があるわけか。
――まあ、俺が覚えてなくても周囲が何とかしそうな気もするが。
おまけ
随分と寒くなった朝、不思議な光景を見かけた。セイとハザードが神殿長にしっかりと抱きつき、その状態で歩いている。ハザードが後ろ歩き状態でちょっと危なっかしいが、当人は嬉しそうだった。
「あ、おはよう、ブライト」
神殿長がちょっと眠そうに言った。そういえば、何かを忘れている気がする。
「動きにくそうだが、どこに行くんですか?」
「暖炉のあるところー」
「だんろ、のあるところー」
セイの真似をするハザードはちょっと微笑ましい。それから、ようやく思い出した。
「ああ、もうそんな時期か」
しみじみと思う。結局去年は一週間くらい俺が神殿長を暖炉のところに連れて行ったっけ。とりあえず、今年からはその役目は若い世代に譲られたようだった。神殿長も流石に二人がくっついてる状態では寝られないようだし。
結局世の中ってなるようになるんだな、としみじみと思った。ああでも、これから一週間ほど、仕事が滞るとリムドがかりかりするかもしれない。とりあえず飲みにでも誘おう。そしてあいつの愚痴でも聞いてそれを盾に少しは気を落ち着かせるように言い聞かせよう。
一通り考えて、外を見た。寒いが実に、天気のいい日だった。
おわり。
書くと言っていた冬眠もの。大体こんな感じのゆるゆるさです。
「おはようございます」
「ん……おはよう」
やはり眠そうだ。見ていて寒そうなので、適当に抱えていた上着を肩にかけさせた。その時ほんの少し触れた肩がひどく冷たいことに気づいた。
「冷たっ! ちょ、神殿長、この寒いのに薄着でいるから……」
手を取ると、やはりというか指先は氷のように冷たい。背筋がぞくりとした。
「あー、もう……」
手を暖めようと包み込む。神殿長が眠そうな顔をあげた。
「ん……ブライト、暖かいね……」
「神殿長が冷えすぎなんです」
「……朝っぱらから廊下で何をやってるんだ、お前らは」
不機嫌な声に振り向くと、リィンがいた。神殿長がのんびりと眠そうな声で「おはよう」と告げた。その様子に、リィンが眉をひそめる。リィンが手袋を外して神殿長の頬に触れて、顔をしかめた。
「……もうそんな時期か……」
呟くと、神殿長の背中を押し、バランスを崩した神殿長が倒れこんでくるのをほとんど反射的に受け止めた。あまりに冷たくて驚いたが、突き放すわけにも行かないので抱きとめておく。うわ、マジで冷たい。
「ん……暖かい……」
そう言われると、放すわけにもいかなくなった。ぎゅ、と抱き疲れると流石に緊張するが、それ以前にやはりこの氷のような冷たさが気になってしまう。
「よし、そのまま抱いてろ」
「えぇ!?」
「お前体温高いし大丈夫だろう。その間に暖炉に火を焚かせる。抱えて移動して来い」
「は? 突然何なんだ?」
「いいから、黙って従え。身体を外から暖めないと冬眠する」
「と、冬眠?」
流石に理解しきれない。だが、通りすがりの奴が過敏に反応した。
「しまった! もうそんな時期か!」
「早く薪をもってこい!」
ばたばたと走り始めた。混乱しているのは新参者だけらしい。このままいても仕方がないので、言われたとおり神殿長を抱えあげる。うわ、軽い。
「んー……」
「神殿長、どうかしました?」
「眠い……」
「いいか、ブライト、意地でも寝かすな。今寝ると恐らく冬眠する。疲労させすぎないように考慮して、適度に話しかけて意識を保たせろ」
いきなり無理な注文をつきつけられた。いや、それは無理だ。
「そんなに言うなら、リィンが話しかけろよ」
「あぁ?」
「俺は抱えるだけで精一杯だ。お前が話しかけろよ。神殿長だって多分その方が話に集中できるだろ。俺よりお前の方が興味ある話題振れるだろう?」
俺がまともに話せる話題なんて、武器とか戦い方、簡単な兵法くらいのものだ。そのどれもが、神殿長が興味を示せるような話題ではないだろう。
仕方がなさそうにリィンが神殿長に話しかけ始めた。一つ一つの言葉に、神殿長が半ば眠気に支配されているかのようにぼんやりと答えを返していく。一応反応は返っているので起きているのだろうが、少々反応が鈍い。
暖炉のある空間に到達すると、珍しく火がついていた。冷たい神殿長を抱いていた為に段々寒くなっていたので、この暖かさはありがたかった。
「で、どうするんだ?」
「暖炉の傍の椅子に座らせろ」
目を向けると、あまり見覚えのない揺り椅子が置いてあった。あれに座らせればいいのだろう。慎重に神殿長を座らせ、漸く一息ついた。リィンが些か乱暴に神殿長を毛布で包む。
「で、冬眠って何なんだ?」
流石に冷えた手を火に翳して暖めつつ、尋ねる。リィンは煩わしげな顔をしたが、一応口を開いた。
「こいつは外気が冷えてくると、それにつられて体温が低下する。一定以上体温が下がると活動できなくなるから、『力』で自動的にある程度は熱を出して行動できるようにしているんだが、その熱量には限りがある。常時消費していると減るばかりで蓄積ができない為に、蓄積する為に深い眠りにつく事がある。それを『冬眠』と呼んでいる」
「深い眠りって、具体的にどのくらい?」
「短くて五日、長いと数週間眠りこける。その間は基本的に起きない」
「あー……そうなると、仕事類が物凄い溜まりそうだな」
「それもないわけではないが、その辺りはもう長いこと続いているから不可抗力ということになっている。だが、他に問題がある」
「問題?」
「神殿には、『神殿長』がいる限り結界が働いていることは知っているだろう?」
そうだったか。疑問に思っているのを察されたのか、リィンが露骨に呆れた顔をした。今回はどうやっても反論できないので、黙っておく。
「ある程度、自動で温度調節が保たれたり内部で異常が起これば神殿長がすぐに察せたりと、様々な機能がついているらしい。すべてを知っているわけではないが」
「……そうなのか」
初めて知った。割と慣れてきたと思っていたが、知らないこともやはりまだまだ多いようだった。
「で、こいつが外出しようがその結界は保たれるんだが、冬眠中はそれが解除される」
「へぇ……」
納得した俺に、リィンが物凄い呆れたような顔を向けてきた。ような、というか、多分それそのものなんだろう。
「つまり、こいつが冬眠すると、他に比べて少しは過ごしやすいこの空間が成り立たなくなるわけだ。他にも色々と弊害があるんだが……とりあえず、いちいち説明するのが面倒だから省く」
言いながらリィンは神殿長の背後に回った。そして、何を思ったか髪をいじり始めた。神殿長が小さく目線を向けて、それから暖炉の火へと目をやった。
「この時期、こいつが妙に眠そうにしていたら冬眠が近付いている合図だ。外から暖めて活動できる体温にしてやる必要がある」
「そういうことか」
一連の行動の謎が解けた。眠そうな神殿長の肩をリィンが定期的に揺すっている。
「にしても、みんな随分対応慣れてるな」
「毎年恒例らしいからな」
「ああ……」
考えてみれば、寒冷期は毎年訪れるんだから当たり前か。ということは、今日のことをしっかりと覚えておく必要があるわけか。
――まあ、俺が覚えてなくても周囲が何とかしそうな気もするが。
おまけ
随分と寒くなった朝、不思議な光景を見かけた。セイとハザードが神殿長にしっかりと抱きつき、その状態で歩いている。ハザードが後ろ歩き状態でちょっと危なっかしいが、当人は嬉しそうだった。
「あ、おはよう、ブライト」
神殿長がちょっと眠そうに言った。そういえば、何かを忘れている気がする。
「動きにくそうだが、どこに行くんですか?」
「暖炉のあるところー」
「だんろ、のあるところー」
セイの真似をするハザードはちょっと微笑ましい。それから、ようやく思い出した。
「ああ、もうそんな時期か」
しみじみと思う。結局去年は一週間くらい俺が神殿長を暖炉のところに連れて行ったっけ。とりあえず、今年からはその役目は若い世代に譲られたようだった。神殿長も流石に二人がくっついてる状態では寝られないようだし。
結局世の中ってなるようになるんだな、としみじみと思った。ああでも、これから一週間ほど、仕事が滞るとリムドがかりかりするかもしれない。とりあえず飲みにでも誘おう。そしてあいつの愚痴でも聞いてそれを盾に少しは気を落ち着かせるように言い聞かせよう。
一通り考えて、外を見た。寒いが実に、天気のいい日だった。
おわり。
書くと言っていた冬眠もの。大体こんな感じのゆるゆるさです。
『歌い手にとっての一つの日常』
2008年12月26日 文章 神殿内で喧嘩が起こった。
これ自体は、そんなに珍しい事じゃない。その内のほとんどはくだらない事が原因で起こる、くだらない喧嘩だ。それなりの人数の集う場所ではどうしても意見の衝突が発生するものらしい。少々人間関係がぎくしゃくしようが、周囲の助力やら時間の経過で大抵はどうにかなり、だからこそ別に問題視されてはいない。殴りあったり、時には訓練用の木剣で打ち合ったり(真剣を使わない辺り、多少は理性と呼べるものが存在しているらしい)というのも日常茶飯事だ。
そう、ただ今回は、その当事者の一人がセイである事が問題だった。
眼前に広がる光景にため息をつく。見なかった事にしたい。
「ああ、ちょっと派手にやっちゃったみたいだね」
のんびりとした声に、苛立った。
「これが『ちょっと』なのか?」
「……違うの?」
心底わからない、といった顔をしている。こいつ、本気で言ってやがる。
改めて目線を前に戻す。失神しているのが五人、笑い転げているのが三人、気力なく座り込み、じっと床を見つめているのが四人。そして、今にも泣きそうなのが一人。
「どうしよう、神殿長……」
深緑の瞳が水の膜の奥で微かに揺れたように見えた。この状況の元凶であろうそいつは、一応反省はしたらしい。震える声さえもよく通り、耳に心地よいといえるのだから凄いと思う。
「うーん……時間が経てば元に戻ると思うんだけど」
「それまで放置しておく気か? というか、セイ、お前が歌でやったんだろう? 歌で治せないのか?」
「うー……戻そうと思ったんだけどね……」
「ほら、大丈夫だから。落ち着いて、ね? とりあえず、順番に説明してくれるかな?」
イルの宥めるような声に、セイが素直に首肯した。
一応先輩にあたる戦士とセイが喧嘩したのは、些細な事がきっかけだった。
木刀を手に男が立ち上がったのを見て、周囲は止めようとした。二人の実力には差が開いており、流石にセイが危険だと思ったからだ。相手の反応にセイも頭に血が上り、勢いよく立ち上がると大きく息を吸った。セイも当然武器を持つと思っていた男は一瞬ひるみ、そしてそれが致命的な隙を生んでしまった。
彼らにとって誤算だったのは、彼らにとっての『武器』と、セイにとっての『武器』が大きく異なっていたという点だろう。セイにとっては、ショートソードはあくまでも補助武器でしかなく、本来の『武器』は自らの声であり、歌であった。
だが、セイの『力』を込めた歌を一度も聞いた事のなかった彼らには、その結論に至る事はできなかった。
最初の一声は旋律とは呼べない、指向性を持たされなかった『力』の塊。しかし予期せず突然襲い掛かってきた圧力に、身構えてもいなかった数人が耐え切れず、失神した。
周囲が危険を察知した頃には、セイの声は既に旋律を奏でていた。普段は陽気で明快な、そして現在の激昂しているその様子からは想像も付かないような、悲しい歌声。それは聞く者の感情を容赦なく引き摺り下ろした。よく通る声は周囲によく響き渡り、効果を及ぼす。
一頻り歌い終えて、多少気が落ち着いた時、セイは周囲を見回して混乱した。周囲の人々は失神しているか立ち上がる気力もなく暗い表情で座り込んでいるかのどちらかで、まともに経っているのは己一人。少し頭が冷えてから、その原因が自分である事に思い至った。そして同時に、やりすぎたという後悔の念も働く。
自分でやった事は自分で片をつけなければならない、という認識はきちんと持ち合わせていた。そして、この状況をどうにかする為に、必死に考え始めた。その思考を重ねた末に出た結論は、落ち込んでいるならば明るくすればいいのだ、という少々短絡的なものだった。だが他の手段は思いつかず、その自分なりの名案を実行すべく大きく息を吸った。
「……その結果が、あれか」
笑い転げる連中を示すと、セイがこくりと首肯した。制御が利かなかったのか知らないが、とりあえず効きすぎたのだろう。落ち込みっぱなしの奴は、落ち込む感情の方が勝ってしまったという事なのだろうか。
「両極端だな……」
「ごめんなさい……」
俺に謝られてもどうしようもないのだが。隣で思考の海に沈んでいたらしいイルが、不意に顔を上げた。
「……セイ、確かこの前覚えたって言ってた歌あるよね? あれは試したの?」
「あ、まだやってない!」
「どんな歌なんだ?」
「気持ちを落ち着ける歌、だったかな、確か。聞いてみたけど、いい歌だったよ」
「お前、セイが歌った歌なら何でもそう言っていただろう」
「聞いたらリィンだって絶対そう思うよ」
何か返そうと口を開いた時、セイが大きく息を吸い込んだ事に気付いた。まさか今すぐこの場で歌う気か?
脱出、はどう考えても間に合わない。話に聞く限りでは特におかしな効果があるわけではないし、それならば変に逃げ出そうとするよりも覚悟を決めておいた方がいいかもしれない。
結論を出した直後、セイの澄み渡るような歌声が響いた。思わず息を呑む。
その歌は穏やかな、しかし決して暗くはない旋律。歌が続くにつれて、笑い転げた連中が笑いを収め、俯いていた奴らがゆっくりと顔を上げ始めた。
歌が終わる頃には、失神していた奴以外は落ち着いた顔をしていた。
「これで大丈夫?」
「大丈夫じゃないかな。気絶しちゃった人は、椅子に座らせておこうか」
何ともアバウトだ。最初はイルとセイが協力していたが、それを見た他の連中が手を貸し始めた。元々、イルは戦力外だしな。
「……イル、とっとと飯食いに行くぞ」
「え? あ、うん。ごめん、後よろしくね」
「はーい。神殿長、ごめんなさい」
「これからは気をつけてね」
「はいっ!」
いい返事だ。返事だけにならなければいいが。
しかし、ため息一つで済ませてしまう辺り、俺もあの歌の影響を受けているのかもしれなかった。
セイに喧嘩を売ってはいけないという不文律ができるのは、そう遠くない日のことだった。
おわり
メインはセイだけど、視点はリィンで。誰かの凄さをあらわすにはその『誰か』以外の視点でないと難しいので。ちょっと短めに
これ自体は、そんなに珍しい事じゃない。その内のほとんどはくだらない事が原因で起こる、くだらない喧嘩だ。それなりの人数の集う場所ではどうしても意見の衝突が発生するものらしい。少々人間関係がぎくしゃくしようが、周囲の助力やら時間の経過で大抵はどうにかなり、だからこそ別に問題視されてはいない。殴りあったり、時には訓練用の木剣で打ち合ったり(真剣を使わない辺り、多少は理性と呼べるものが存在しているらしい)というのも日常茶飯事だ。
そう、ただ今回は、その当事者の一人がセイである事が問題だった。
眼前に広がる光景にため息をつく。見なかった事にしたい。
「ああ、ちょっと派手にやっちゃったみたいだね」
のんびりとした声に、苛立った。
「これが『ちょっと』なのか?」
「……違うの?」
心底わからない、といった顔をしている。こいつ、本気で言ってやがる。
改めて目線を前に戻す。失神しているのが五人、笑い転げているのが三人、気力なく座り込み、じっと床を見つめているのが四人。そして、今にも泣きそうなのが一人。
「どうしよう、神殿長……」
深緑の瞳が水の膜の奥で微かに揺れたように見えた。この状況の元凶であろうそいつは、一応反省はしたらしい。震える声さえもよく通り、耳に心地よいといえるのだから凄いと思う。
「うーん……時間が経てば元に戻ると思うんだけど」
「それまで放置しておく気か? というか、セイ、お前が歌でやったんだろう? 歌で治せないのか?」
「うー……戻そうと思ったんだけどね……」
「ほら、大丈夫だから。落ち着いて、ね? とりあえず、順番に説明してくれるかな?」
イルの宥めるような声に、セイが素直に首肯した。
一応先輩にあたる戦士とセイが喧嘩したのは、些細な事がきっかけだった。
木刀を手に男が立ち上がったのを見て、周囲は止めようとした。二人の実力には差が開いており、流石にセイが危険だと思ったからだ。相手の反応にセイも頭に血が上り、勢いよく立ち上がると大きく息を吸った。セイも当然武器を持つと思っていた男は一瞬ひるみ、そしてそれが致命的な隙を生んでしまった。
彼らにとって誤算だったのは、彼らにとっての『武器』と、セイにとっての『武器』が大きく異なっていたという点だろう。セイにとっては、ショートソードはあくまでも補助武器でしかなく、本来の『武器』は自らの声であり、歌であった。
だが、セイの『力』を込めた歌を一度も聞いた事のなかった彼らには、その結論に至る事はできなかった。
最初の一声は旋律とは呼べない、指向性を持たされなかった『力』の塊。しかし予期せず突然襲い掛かってきた圧力に、身構えてもいなかった数人が耐え切れず、失神した。
周囲が危険を察知した頃には、セイの声は既に旋律を奏でていた。普段は陽気で明快な、そして現在の激昂しているその様子からは想像も付かないような、悲しい歌声。それは聞く者の感情を容赦なく引き摺り下ろした。よく通る声は周囲によく響き渡り、効果を及ぼす。
一頻り歌い終えて、多少気が落ち着いた時、セイは周囲を見回して混乱した。周囲の人々は失神しているか立ち上がる気力もなく暗い表情で座り込んでいるかのどちらかで、まともに経っているのは己一人。少し頭が冷えてから、その原因が自分である事に思い至った。そして同時に、やりすぎたという後悔の念も働く。
自分でやった事は自分で片をつけなければならない、という認識はきちんと持ち合わせていた。そして、この状況をどうにかする為に、必死に考え始めた。その思考を重ねた末に出た結論は、落ち込んでいるならば明るくすればいいのだ、という少々短絡的なものだった。だが他の手段は思いつかず、その自分なりの名案を実行すべく大きく息を吸った。
「……その結果が、あれか」
笑い転げる連中を示すと、セイがこくりと首肯した。制御が利かなかったのか知らないが、とりあえず効きすぎたのだろう。落ち込みっぱなしの奴は、落ち込む感情の方が勝ってしまったという事なのだろうか。
「両極端だな……」
「ごめんなさい……」
俺に謝られてもどうしようもないのだが。隣で思考の海に沈んでいたらしいイルが、不意に顔を上げた。
「……セイ、確かこの前覚えたって言ってた歌あるよね? あれは試したの?」
「あ、まだやってない!」
「どんな歌なんだ?」
「気持ちを落ち着ける歌、だったかな、確か。聞いてみたけど、いい歌だったよ」
「お前、セイが歌った歌なら何でもそう言っていただろう」
「聞いたらリィンだって絶対そう思うよ」
何か返そうと口を開いた時、セイが大きく息を吸い込んだ事に気付いた。まさか今すぐこの場で歌う気か?
脱出、はどう考えても間に合わない。話に聞く限りでは特におかしな効果があるわけではないし、それならば変に逃げ出そうとするよりも覚悟を決めておいた方がいいかもしれない。
結論を出した直後、セイの澄み渡るような歌声が響いた。思わず息を呑む。
その歌は穏やかな、しかし決して暗くはない旋律。歌が続くにつれて、笑い転げた連中が笑いを収め、俯いていた奴らがゆっくりと顔を上げ始めた。
歌が終わる頃には、失神していた奴以外は落ち着いた顔をしていた。
「これで大丈夫?」
「大丈夫じゃないかな。気絶しちゃった人は、椅子に座らせておこうか」
何ともアバウトだ。最初はイルとセイが協力していたが、それを見た他の連中が手を貸し始めた。元々、イルは戦力外だしな。
「……イル、とっとと飯食いに行くぞ」
「え? あ、うん。ごめん、後よろしくね」
「はーい。神殿長、ごめんなさい」
「これからは気をつけてね」
「はいっ!」
いい返事だ。返事だけにならなければいいが。
しかし、ため息一つで済ませてしまう辺り、俺もあの歌の影響を受けているのかもしれなかった。
セイに喧嘩を売ってはいけないという不文律ができるのは、そう遠くない日のことだった。
おわり
メインはセイだけど、視点はリィンで。誰かの凄さをあらわすにはその『誰か』以外の視点でないと難しいので。ちょっと短めに
談話用の空間に、リィンと神殿長が向かい合って座っていた。神殿長は思い悩むような表情で、対面のリィンは相変わらず不機嫌そうにしている。特に珍しい光景ではないと思うが、なんとなく気になって立ち止まった。二人が一言も発さずにじっと向かい合っている光景に興味をそそられたのかもしれない。
そうしている内に、神殿長がため息をついた。
「……うーん、駄目、もう思いつかない。俺の負け」
「……何やってるんですか?」
「しりとりやってたんだけど、負けちゃった」
「へぇ」
リィンは確かに色々な事を知っているが、神殿長も相当知識がある。二人の知識量はほとんど変わらないんじゃないか、と俺なんかは思っている。ただ、その分野が大きく違うだけで。だが、語彙が変わらないと仮定すると、この二人にしりとりなどやらせたら、リィンが勝つことはなんとなく予想できる。というより、負けることが想像できない。
リィンによれば、しりとりとは単純に単語を答えていくだけではないらしい。いかに相手が答えにくい文字を回し、そして相手の回答を予測して答える単語を相手が思考しているうちに考えておくのもまたコツの一つだという。難問に悩んで出した答えに対し、即座に答えられたら相手がより焦るからだそうだ。まぁそこまでいかなくても、またリィンが同じ文字ばかりを回す、みたいな手段を使ったのかもしれないが。
「けど、二人の勝負だと長引きそうだな。どのくらいかかったんだ?」
「ええと、始めたのが朝方だから……」
言いながら、神殿長が外に目をやる。差し込むのは、紛れも無く夕陽だった。俺は何を言っていいのかわからず、暫く黙る。リィンがごく冷静に口を開いた。
「……半日はやっていた計算になるな」
「そうだね。ご飯食べてる時もやってたし」
どうしてそこまで、とは聞けなかった。多分、暇だったとか、そういう言葉が返ってくるのだろうと簡単に想像できたからだ。
「とりあえず、早く引け」
そう言うリィンが持っているのは、箱だった。丸く一部が切り取られていて、その部分に手を入れる作りになっているらしい。神殿長が中に手を入れて、すぐに出した。白い指で折り畳まれた紙を摘んでいる。その小さな紙片を開いて、一つ瞬いた。どうでもいいけど、やっぱり睫毛長いな。
「んー、あ、膝枕だって」
「……それは寧ろ俺への罰ゲームじゃないか?」
「ええと……?」
「負けた方が、紙に書いてある事をやるっていうルールなんだよ」
神殿長が丁寧に教えてくれた。それにしても、膝枕とは。
「……それは、神殿長がリィンに膝枕するんですか? それとも、リィンが神殿長に膝枕するんですか?」
「罰ゲームだから、俺がリィンに膝枕するんじゃないかな。あれ、長い時間やってると結構足がだるくなるし」
以前、神殿長がハザードに膝枕をしてやっていた光景なら見たことがある。そのときは違和感が無いことが逆に違和感を感じさせるくらい様になっていた。だが、リィンが膝枕されている光景というのは全く想像できなかった。というか、あまり想像したくなかった。
「どうしようか……」
「というか、そもそもその箱を用意したのは誰なんですか?」
「スノウさんとジャスティスさんがくれたんだけど」
ああ、あの人達か。いや、正確に言うなら、あの神様達か。
「流石にここじゃ膝枕できないか」
「そうだな」
さくさくと二人は話を進めている。ああ、もう膝枕をすることは決定しているようだった。いや、別に俺はいいんだけど。いいんだけれども。
「結局、納得してるのか、リィン?」
「仕方ないだろう。やると決めたことだ」
ああ、これは意地になっているんだな。なんとなくそんな気がした。
「これがもし、お前やハザードだったら斬り捨ててでもやめるが、こいつならぎりぎり許容範囲内だからな」
とても嫌そうに言った。いいのか嫌なのかどっちなんだ。はっきりしろよと言ってやりたいが、奴にも奴なりの葛藤のようなものがあるんだろう。多分。
「……部屋に行くか」
「そうだね。本読みながら膝枕してればいいし。リィンも本を読んでた方が気がまぎれるんじゃない?」
何故かこういうところにまで気を回している。リィンはふと考え込んだ。
「……そうか、膝枕と言っても眠る必要性は無いのか」
「ないんじゃない? 枕にしてればいいんだから」
「そうだな。なら俺も本を読むか」
リィンはそう言うと少し不機嫌さを潜めた。あいつの判断基準は、本にどれだけ重点を置いているんだろうか。ちょっと知りたい気もするが、知るのが少し怖いような気もする。相反する感情の葛藤の結果、結局それを口に出すのはやめておくことにした。俺のまだ胸を張って長いとは言えない人生経験がやめておけと忠告しているような気がしたからだ。
「それじゃ、罰ゲーム執行頑張っといてください」
さて、俺もさっさと自分のやることを片付けよう。特に予定とか無かったような気がするが、とりあえず鍛錬でもしよう。それとも、セイの歌でも聴きに行こうか。きっと歓迎して歌いまくってくれるに違いない。程々にしないと後が大変になるが。
外を眺めると丁度夕陽が綺麗に沈んでいるところだった。
今日もどうやら、世界は平和らしい。
おまけ
本の頁を捲り、文面に目を走らせる。
「……」
「……」
部屋に降りているのは、沈黙。互いにずっと本を読んでいれば、自然とこうなるものだ。
本を読み終えて、息をつく。身体の向きを変えると、本が目に入った。背表紙を軽く目で追ってから、思わずため息をついた。軽く本がずらされ、人形のような顔が覗き込んでくる。
「どうかした?」
「いや……」
言いたくはないが、膝枕は高さと硬さが絶妙だった。だが、この状況に慣れてしまうのは流石にちょっとアレだ。もう一度ため息をついて、身体を起こした。奴があわてて身体を後ろに引くのを横目で確認。
「そろそろ夕食の時間だ。もう罰ゲームはいいだろう」
「あ、もうそんな時間だったんだ」
そう言ってイルも本を置いて立ち上がろうとして、へたり込むように座り込んだ。
「……なんとなく原因はわかるが、どうした?」
「……うん、なんか、力が入らなくて」
原因は十中八九、膝枕だろう。何だかんだで本を読みきるまで同じ体勢でいたわけだし。ため息をついて窓の外に目をやり、本を手に取って奴の隣に腰掛けた。
「どうせお前はまだ腹が減ってないだろう。もう一冊くらい読める筈だ」
「リィンは平気なの?」
「それ程空腹なわけでもない」
今から行けば、夕食には少々早いくらいの時間だ。これを読み終わる頃には、少々遅いくらいの時間になるだろう。だが、それだけだ。人の多い時間帯はどちらにせよ避けることができる。それならば問題もない。
「……ありがと、リィン」
「礼を言う暇があるなら、とっとと動けるようになっておけ」
こいつを置いて食いに行けばいいと思わなくもないのだが、俺のいない間に他人を自室に入れておくのは正直あまり好ましくない。
余計な思考を切り上げ、読書に没頭することにした。
おわり
膝枕という結構アレなシチュエーションを全く生かせていない罠。
そうしている内に、神殿長がため息をついた。
「……うーん、駄目、もう思いつかない。俺の負け」
「……何やってるんですか?」
「しりとりやってたんだけど、負けちゃった」
「へぇ」
リィンは確かに色々な事を知っているが、神殿長も相当知識がある。二人の知識量はほとんど変わらないんじゃないか、と俺なんかは思っている。ただ、その分野が大きく違うだけで。だが、語彙が変わらないと仮定すると、この二人にしりとりなどやらせたら、リィンが勝つことはなんとなく予想できる。というより、負けることが想像できない。
リィンによれば、しりとりとは単純に単語を答えていくだけではないらしい。いかに相手が答えにくい文字を回し、そして相手の回答を予測して答える単語を相手が思考しているうちに考えておくのもまたコツの一つだという。難問に悩んで出した答えに対し、即座に答えられたら相手がより焦るからだそうだ。まぁそこまでいかなくても、またリィンが同じ文字ばかりを回す、みたいな手段を使ったのかもしれないが。
「けど、二人の勝負だと長引きそうだな。どのくらいかかったんだ?」
「ええと、始めたのが朝方だから……」
言いながら、神殿長が外に目をやる。差し込むのは、紛れも無く夕陽だった。俺は何を言っていいのかわからず、暫く黙る。リィンがごく冷静に口を開いた。
「……半日はやっていた計算になるな」
「そうだね。ご飯食べてる時もやってたし」
どうしてそこまで、とは聞けなかった。多分、暇だったとか、そういう言葉が返ってくるのだろうと簡単に想像できたからだ。
「とりあえず、早く引け」
そう言うリィンが持っているのは、箱だった。丸く一部が切り取られていて、その部分に手を入れる作りになっているらしい。神殿長が中に手を入れて、すぐに出した。白い指で折り畳まれた紙を摘んでいる。その小さな紙片を開いて、一つ瞬いた。どうでもいいけど、やっぱり睫毛長いな。
「んー、あ、膝枕だって」
「……それは寧ろ俺への罰ゲームじゃないか?」
「ええと……?」
「負けた方が、紙に書いてある事をやるっていうルールなんだよ」
神殿長が丁寧に教えてくれた。それにしても、膝枕とは。
「……それは、神殿長がリィンに膝枕するんですか? それとも、リィンが神殿長に膝枕するんですか?」
「罰ゲームだから、俺がリィンに膝枕するんじゃないかな。あれ、長い時間やってると結構足がだるくなるし」
以前、神殿長がハザードに膝枕をしてやっていた光景なら見たことがある。そのときは違和感が無いことが逆に違和感を感じさせるくらい様になっていた。だが、リィンが膝枕されている光景というのは全く想像できなかった。というか、あまり想像したくなかった。
「どうしようか……」
「というか、そもそもその箱を用意したのは誰なんですか?」
「スノウさんとジャスティスさんがくれたんだけど」
ああ、あの人達か。いや、正確に言うなら、あの神様達か。
「流石にここじゃ膝枕できないか」
「そうだな」
さくさくと二人は話を進めている。ああ、もう膝枕をすることは決定しているようだった。いや、別に俺はいいんだけど。いいんだけれども。
「結局、納得してるのか、リィン?」
「仕方ないだろう。やると決めたことだ」
ああ、これは意地になっているんだな。なんとなくそんな気がした。
「これがもし、お前やハザードだったら斬り捨ててでもやめるが、こいつならぎりぎり許容範囲内だからな」
とても嫌そうに言った。いいのか嫌なのかどっちなんだ。はっきりしろよと言ってやりたいが、奴にも奴なりの葛藤のようなものがあるんだろう。多分。
「……部屋に行くか」
「そうだね。本読みながら膝枕してればいいし。リィンも本を読んでた方が気がまぎれるんじゃない?」
何故かこういうところにまで気を回している。リィンはふと考え込んだ。
「……そうか、膝枕と言っても眠る必要性は無いのか」
「ないんじゃない? 枕にしてればいいんだから」
「そうだな。なら俺も本を読むか」
リィンはそう言うと少し不機嫌さを潜めた。あいつの判断基準は、本にどれだけ重点を置いているんだろうか。ちょっと知りたい気もするが、知るのが少し怖いような気もする。相反する感情の葛藤の結果、結局それを口に出すのはやめておくことにした。俺のまだ胸を張って長いとは言えない人生経験がやめておけと忠告しているような気がしたからだ。
「それじゃ、罰ゲーム執行頑張っといてください」
さて、俺もさっさと自分のやることを片付けよう。特に予定とか無かったような気がするが、とりあえず鍛錬でもしよう。それとも、セイの歌でも聴きに行こうか。きっと歓迎して歌いまくってくれるに違いない。程々にしないと後が大変になるが。
外を眺めると丁度夕陽が綺麗に沈んでいるところだった。
今日もどうやら、世界は平和らしい。
おまけ
本の頁を捲り、文面に目を走らせる。
「……」
「……」
部屋に降りているのは、沈黙。互いにずっと本を読んでいれば、自然とこうなるものだ。
本を読み終えて、息をつく。身体の向きを変えると、本が目に入った。背表紙を軽く目で追ってから、思わずため息をついた。軽く本がずらされ、人形のような顔が覗き込んでくる。
「どうかした?」
「いや……」
言いたくはないが、膝枕は高さと硬さが絶妙だった。だが、この状況に慣れてしまうのは流石にちょっとアレだ。もう一度ため息をついて、身体を起こした。奴があわてて身体を後ろに引くのを横目で確認。
「そろそろ夕食の時間だ。もう罰ゲームはいいだろう」
「あ、もうそんな時間だったんだ」
そう言ってイルも本を置いて立ち上がろうとして、へたり込むように座り込んだ。
「……なんとなく原因はわかるが、どうした?」
「……うん、なんか、力が入らなくて」
原因は十中八九、膝枕だろう。何だかんだで本を読みきるまで同じ体勢でいたわけだし。ため息をついて窓の外に目をやり、本を手に取って奴の隣に腰掛けた。
「どうせお前はまだ腹が減ってないだろう。もう一冊くらい読める筈だ」
「リィンは平気なの?」
「それ程空腹なわけでもない」
今から行けば、夕食には少々早いくらいの時間だ。これを読み終わる頃には、少々遅いくらいの時間になるだろう。だが、それだけだ。人の多い時間帯はどちらにせよ避けることができる。それならば問題もない。
「……ありがと、リィン」
「礼を言う暇があるなら、とっとと動けるようになっておけ」
こいつを置いて食いに行けばいいと思わなくもないのだが、俺のいない間に他人を自室に入れておくのは正直あまり好ましくない。
余計な思考を切り上げ、読書に没頭することにした。
おわり
膝枕という結構アレなシチュエーションを全く生かせていない罠。
『白と赤のこどもたち』
2008年12月20日 文章 ハザードにとって、自らの身体に同居する『フィアス』の名付けられた『魔物』は、『怖い人』だった。平然と破壊し、人を傷つけ殺す。リィンと共に行動するようになって、フィアスはそれをやめた。それから、ハザードとフィアスは少しずつ話すようになった。
今では、ハザードはフィアスを『怖い人』だとは認識していない。怒らせると怖いのだが、それならリィンの方が怖かった。
フィアスと向かい合って、ハザードはぼうっとする。ここがどこか、などと考えたこともない。ただ、フィアスと向かい合って話せるのがここだけだとは知っている。明るいのか暗いのかもわからぬ空間は、不思議と居心地が良かった。
「……何? さっきから」
沈黙を破ったのはフィアスの方だった。話しかけられた、と数秒遅れて理解して、しかし何故話しかけられたのかわからずハザードは困惑の色を浮かべる。
「う?」
「じろじろ見てた。何か用?」
言葉を良く考えて理解し、ハザードは首を傾げた。
「ようじ、ないよ」
「……」
黙りこむフィアスに、ハザードは不安になった。つい先程までは意識しなかった沈黙が、妙に痛い。
「おこった?」
「……別に」
「あう……」
こういう時は、どうすればいいのかわからない。乏しい知識と拙い思考力では、解決策を見出すことは叶わなかった。
悪いことをしたら謝る、ということは知っている。そして人を怒らせてしまうのは恐らく悪いことだ。けれど、どうして怒らせたのかわからない。理由もわからないのに謝ってはいけないと注意されたことを思い出し、ハザードは苦心した。
「……ハザード」
「う?」
考え込んでいる内に、いつの間にか俯いていた顔を上げる。フィアスがハザードを名前で呼ぶようになったのは、ごく最近のことだ。
「ハザードは、大きくなったら何がしたいの?」
突然の質問に、ハザードは最初は困惑した。だが、素直な彼はすぐに質問に対する回答を探し始めた。だが、その試みはすぐに行き詰ってしまう。元々将来のことなど、ほとんど考えたことも無かった。
「わかんない」
「……やりたいこと、だよ?」
「だって、どんなおしごとがあるのか、わかんない」
知識が大きく不足している身には、大きな難題だった。一般常識を学んで精一杯のハザードには、まだ将来のヴィジョンを見据える術すらわからない。
「……それじゃ、しばらくの目標は?」
「もく、ひょ……?」
ハザードが首を傾げると、フィアスは呆れながら解説してくれた。フィアスは自分よりも物知りで、自分よりも少し『お兄さん』なのだ、とハザードは理解している。もっとも、ハザードの周囲には彼自身よりも物を知らない人間は、今のところ一人もいない。
「えっと……おべんきょう、がんばる。もくひょう」
「勉強、ねぇ……」
「だってね、わかんないことわかるの、とってもたのしいよ?」
ハザードは必死に身振り手振りを交えて、勉強の素晴らしさを語る。フィアスはふい、と顔を逸らした。それを見たハザードが困惑する。
「フィアス、おべんきょう、いや?」
「別に。勉強するのはハザードじゃないか」
フィアスの口調がどこか怒ったようなものに感じられて、ハザードは小さな眉間に可愛らしく皺を寄せ、悩む。やがて、彼なりの一つの結論を出した。
「フィアスも、おべんきょうする?」
「……なんで? どうやって?」
「イルとリィンに、おしえてもらうの」
「……リィンは絶対、教えてくれないよ」
そう断言できるくらいには、フィアスはリィンを理解していた。何度騙され、困らされ、泣かされ、いじめられても、頭を撫でられたらそれで忘れてしまうハザードとは違う。リィンは根本的に面倒なことが嫌いで、見る限りではハザードの勉強だって本を与えてそのまま放置し、どうしてもわからないことだけ聞かれたら答える、という『教えている』と呼べるのかどうか曖昧なものだ。
「それじゃ、イルに、おべんきょう、おしえてもらうのは?」
「……あのさ、別に、勉強したい、なんて言ってないし」
「そう、だった?」
「……記憶力悪過ぎない?」
「うー? でも、おひるに『日がわりていしょく』食べたの、おぼえてるよ?」
「それ忘れてたら、ただのボケだよ」
フィアスの指摘にも、ハザードは困惑するばかりだった。
ハザードにとってフィアスは少し難しい人で、フィアスにとってハザードは理解することが困難な生物だ。ほとんど顔を合わせない頃は、それでも十分やっていけた。ただ一抹の寂しさじみたものがあるだけで、何の問題もなかった。だが、これからは恐らくそうはいかないのだと、フィアスは薄々予感していた。
「早く眠れば? ここにいてもあんまり休めないんだから、もっと奥に行きなよ」
「もうちょっとおはなしするのは、だめ?」
「ダメだよ。僕はすぐ表に出るんだから」
「よふかし?」
「身体はそうなるけど」
「あう? でも、よふかししすぎると、おっきくなれないんだよ?」
「でも、僕は夜しか出られない」
昼の神殿はどう考えても人目がありすぎる。それに、フィアスは昼に行動するのを好まない傾向があった。ハザードの身体は日光に弱く、ハザード自身はそれをよく知り、昼間はそれ相応の行動を取れる。だが、フィアスには日光を気にせず動ける身体を使っていた経験と、薄れかけた、しかし確かな記憶がある。身体に負担をかけず動ける自信はあまりなかった。
「あう……」
「そんなにおそくまでは起きないよ。だから、さっさと眠れば?」
そう言い残して、フィアスは『表』に浮上しようとする。それをハザードが引き止めた。
「ま、まって」
「……何?」
不機嫌そうな声に微かにひるみ、しかしハザードは真っ直ぐにフィアスを見つめた。その視線に、フィアスが居心地悪そうに眉を顰める。
「おやすみなさい」
幼い声で告げられた言葉にフィアスは微かに驚き、そしてそのまま『表』へと浮上してしまった。
残されたハザードは、そこで初めて、その場所が酷く心地よい暗さに包まれていることを知った。頭にくすぶる眠気に素直に従い、ハザードは『奥』深くへと、沈むように溶けていった。
「あ、フィアス。ねぇ、標準語の勉強、してみない? 話せるけど、読み書きはできなかったよね」
銀の髪をもった人形と見紛うようなその人の言葉に、フィアスは一瞬呆然とした。
「本が読めるようになったら、何かあっても退屈しないと思うんだけど」
優しい声と笑顔に、フィアスは笑ってしまった。
「別に、いいんじゃない?」
そう答えてから、微かに意識を内に向けて、ハザードが眠っていることを確認し、安堵した。それから、もしかしたら自分達の会話でも聞こえていたのかな、などと思いながら、人形じみた顔に浮かぶ、大切だった人に似た笑みを眺めた。
そういえば『おかあさん』も自分に色々と教えてくれたんだった、と思い出し、フィアスは少しだけ、泣きたくなった。
おわり。
フィアスとハザードの話。おわりが上手くいかなかったのが残念です……。
今では、ハザードはフィアスを『怖い人』だとは認識していない。怒らせると怖いのだが、それならリィンの方が怖かった。
フィアスと向かい合って、ハザードはぼうっとする。ここがどこか、などと考えたこともない。ただ、フィアスと向かい合って話せるのがここだけだとは知っている。明るいのか暗いのかもわからぬ空間は、不思議と居心地が良かった。
「……何? さっきから」
沈黙を破ったのはフィアスの方だった。話しかけられた、と数秒遅れて理解して、しかし何故話しかけられたのかわからずハザードは困惑の色を浮かべる。
「う?」
「じろじろ見てた。何か用?」
言葉を良く考えて理解し、ハザードは首を傾げた。
「ようじ、ないよ」
「……」
黙りこむフィアスに、ハザードは不安になった。つい先程までは意識しなかった沈黙が、妙に痛い。
「おこった?」
「……別に」
「あう……」
こういう時は、どうすればいいのかわからない。乏しい知識と拙い思考力では、解決策を見出すことは叶わなかった。
悪いことをしたら謝る、ということは知っている。そして人を怒らせてしまうのは恐らく悪いことだ。けれど、どうして怒らせたのかわからない。理由もわからないのに謝ってはいけないと注意されたことを思い出し、ハザードは苦心した。
「……ハザード」
「う?」
考え込んでいる内に、いつの間にか俯いていた顔を上げる。フィアスがハザードを名前で呼ぶようになったのは、ごく最近のことだ。
「ハザードは、大きくなったら何がしたいの?」
突然の質問に、ハザードは最初は困惑した。だが、素直な彼はすぐに質問に対する回答を探し始めた。だが、その試みはすぐに行き詰ってしまう。元々将来のことなど、ほとんど考えたことも無かった。
「わかんない」
「……やりたいこと、だよ?」
「だって、どんなおしごとがあるのか、わかんない」
知識が大きく不足している身には、大きな難題だった。一般常識を学んで精一杯のハザードには、まだ将来のヴィジョンを見据える術すらわからない。
「……それじゃ、しばらくの目標は?」
「もく、ひょ……?」
ハザードが首を傾げると、フィアスは呆れながら解説してくれた。フィアスは自分よりも物知りで、自分よりも少し『お兄さん』なのだ、とハザードは理解している。もっとも、ハザードの周囲には彼自身よりも物を知らない人間は、今のところ一人もいない。
「えっと……おべんきょう、がんばる。もくひょう」
「勉強、ねぇ……」
「だってね、わかんないことわかるの、とってもたのしいよ?」
ハザードは必死に身振り手振りを交えて、勉強の素晴らしさを語る。フィアスはふい、と顔を逸らした。それを見たハザードが困惑する。
「フィアス、おべんきょう、いや?」
「別に。勉強するのはハザードじゃないか」
フィアスの口調がどこか怒ったようなものに感じられて、ハザードは小さな眉間に可愛らしく皺を寄せ、悩む。やがて、彼なりの一つの結論を出した。
「フィアスも、おべんきょうする?」
「……なんで? どうやって?」
「イルとリィンに、おしえてもらうの」
「……リィンは絶対、教えてくれないよ」
そう断言できるくらいには、フィアスはリィンを理解していた。何度騙され、困らされ、泣かされ、いじめられても、頭を撫でられたらそれで忘れてしまうハザードとは違う。リィンは根本的に面倒なことが嫌いで、見る限りではハザードの勉強だって本を与えてそのまま放置し、どうしてもわからないことだけ聞かれたら答える、という『教えている』と呼べるのかどうか曖昧なものだ。
「それじゃ、イルに、おべんきょう、おしえてもらうのは?」
「……あのさ、別に、勉強したい、なんて言ってないし」
「そう、だった?」
「……記憶力悪過ぎない?」
「うー? でも、おひるに『日がわりていしょく』食べたの、おぼえてるよ?」
「それ忘れてたら、ただのボケだよ」
フィアスの指摘にも、ハザードは困惑するばかりだった。
ハザードにとってフィアスは少し難しい人で、フィアスにとってハザードは理解することが困難な生物だ。ほとんど顔を合わせない頃は、それでも十分やっていけた。ただ一抹の寂しさじみたものがあるだけで、何の問題もなかった。だが、これからは恐らくそうはいかないのだと、フィアスは薄々予感していた。
「早く眠れば? ここにいてもあんまり休めないんだから、もっと奥に行きなよ」
「もうちょっとおはなしするのは、だめ?」
「ダメだよ。僕はすぐ表に出るんだから」
「よふかし?」
「身体はそうなるけど」
「あう? でも、よふかししすぎると、おっきくなれないんだよ?」
「でも、僕は夜しか出られない」
昼の神殿はどう考えても人目がありすぎる。それに、フィアスは昼に行動するのを好まない傾向があった。ハザードの身体は日光に弱く、ハザード自身はそれをよく知り、昼間はそれ相応の行動を取れる。だが、フィアスには日光を気にせず動ける身体を使っていた経験と、薄れかけた、しかし確かな記憶がある。身体に負担をかけず動ける自信はあまりなかった。
「あう……」
「そんなにおそくまでは起きないよ。だから、さっさと眠れば?」
そう言い残して、フィアスは『表』に浮上しようとする。それをハザードが引き止めた。
「ま、まって」
「……何?」
不機嫌そうな声に微かにひるみ、しかしハザードは真っ直ぐにフィアスを見つめた。その視線に、フィアスが居心地悪そうに眉を顰める。
「おやすみなさい」
幼い声で告げられた言葉にフィアスは微かに驚き、そしてそのまま『表』へと浮上してしまった。
残されたハザードは、そこで初めて、その場所が酷く心地よい暗さに包まれていることを知った。頭にくすぶる眠気に素直に従い、ハザードは『奥』深くへと、沈むように溶けていった。
「あ、フィアス。ねぇ、標準語の勉強、してみない? 話せるけど、読み書きはできなかったよね」
銀の髪をもった人形と見紛うようなその人の言葉に、フィアスは一瞬呆然とした。
「本が読めるようになったら、何かあっても退屈しないと思うんだけど」
優しい声と笑顔に、フィアスは笑ってしまった。
「別に、いいんじゃない?」
そう答えてから、微かに意識を内に向けて、ハザードが眠っていることを確認し、安堵した。それから、もしかしたら自分達の会話でも聞こえていたのかな、などと思いながら、人形じみた顔に浮かぶ、大切だった人に似た笑みを眺めた。
そういえば『おかあさん』も自分に色々と教えてくれたんだった、と思い出し、フィアスは少しだけ、泣きたくなった。
おわり。
フィアスとハザードの話。おわりが上手くいかなかったのが残念です……。
『一欠片の優しさの行く末』
2008年12月19日 文章 リィンは時折、ほんの少しだけ、神殿長に優しさめいたものを見せる事がある。
ケース・1 図書館にて
セージに頼まれた本を借りに図書館に行くと、神殿長とリィンを見つけた。それは決して珍しい事じゃない。二人とも読書が好きだし。
「これを運び込むのか」
「そう。どうしてもこれくらい必要になるんだよ」
場所を気にしてか、小声で話す二人の近くの机には、本が十数冊積まれていた。会話の内容からして、恐らく神殿長が仕事で使うのだろう。
「っと……け、結構重い……」
「落とすなよ、本が傷む」
「わ、わかってるよ……」
「……仕方ねぇな」
リィンはため息をついて、神殿長の手に四冊ほどを残して、残りを軽々と抱えた。
「ほら、とっとと行くぞ」
「う、うん。ありがとう」
「お前に任せたら本が傷むからな」
余程本が大事なのか。この時は、そう思っていた。
ケース・2 食堂にて
神殿長とリィンとハザードと共に昼飯を食う事になった。神殿長は事前に申し出て、量を減らしてもらっているようだった。
「あう? これ、へんなあじ」
「ん? ああ、それはピーマンだよ。ハザードってピーマン食べた事ないの?」
「ぴーまん?」
「野菜の一種だよ。苦いと思うけど、身体にいいからちゃんと食べるんだよ?」
まるで母親のような事を言う。ハザードは首を傾げつつ、素直に「うん」と答えた。何がわからないのかは俺にはわからない。ちらりとリィンに目をやると、白いスープを口に運んでいた。
「リィン、それ美味いのか?」
「それなりに」
尋ねれば不機嫌な声が返ってくる。いつも通りだ。
「あ、それ一口頂戴」
「何故だ?」
「ずっと辛いの食べてわからなくなってきたから、味を変えたくって」
神殿長は意外と辛いものもそれなりに食べる。だが、そういったものはどうしても飽きがくる。だがリィンはきっと断るだろうな、と思って眺める。リィンはちらりと神殿長に目をやった。
「……交換ならな」
「やった、ありがとう」
正直、俺は驚いていた。あのリィンが一口交換などと言い出すとは思っていなかったし、聞いた今でも正直自分の耳を疑っている。俺の驚きなど気に留める事も無く、二人は互いの深皿に匙をつっこんだ。
「あ、美味しい。今度はこれを頼んでみようかな」
「お前なら自分で作れるんじゃないか?」
「作れなくはないと思うけど、これ、結構手間がかかりそうだし」
「多少手を抜けばいいだろう」
「作る以上は全力を尽くしたいよ」
神殿長なりに、こだわりがあるらしい。料理長達はもう慣れてしまったようだが、長時間となるとリムドが煩いかもしれない。
「作るとしたら、どうやる?」
「どうって……そうだなぁ、隠し味を加えて、具の切り方を変えて、芋を別の品種に変えた方がいい味がでるかも。後はちょっとずつ味を調節するとか」
「……そこまで考えているなら、いっそ作ればどうだ?」
「うーん……やっぱりやめとくよ。ここで食べれるものなら作らなくてもいいし。どうせ作るなら、故郷の郷土料理とか、ここでは食べられないものを作りたいな」
そう言って、辛いスープを口に運んでいく。だが、手が止まった。
「うーん、もう少し減らしてもらえばよかったかな」
「あと少しですよ。頑張ってください」
「う? イル、いっぱいたべないと、力もちになれないよって、まえにブライトが言ってたよ?」
これまで黙々と食べていたハザードが、じっと神殿長を見つめた。だが、神殿長は困ったようにするばかりだった。これは限界が近いな。相変わらずの少食だが、限界値は人それぞれなので無理にそれを超えるのも身体には悪い。
「……仕方ねぇな。具だけ食ってやるから、汁の部分は食いきれ。いいな?」
「あ、ありがとう、リィン」
リィンの意外すぎる提案に驚き、匙を取り落としそうになった。
ケース・3 ある朝、リィンの部屋にて
リィンに借りた本を返そう、と決めたのは朝方だった。リィンは割りと規則正しい生活をしているから、もう起きているだろう。午後からは用もあるし、早めに片付けておくに越した事はない。
用件が用件だからか、部屋を訪ねるとすぐに中に通された。起きてはいたが、まだ身支度を終えていないようだ。ふと寝台に目をやると、ふくらみがあった。よく見ると、陽光の当たった敷布が微かに光を反射している。
「……神殿長?」
「起こすなよ、煩くなる」
本を棚にしまいながら、リィンが不機嫌に言った。今日もいつも通りだ。
「何で神殿長がここに?」
「泊まったからだ」
いや、それは流石にわかるが。
「また読書会か?」
「さぁな」
そうきたか。だが、他に何の用があるのか、さっぱりわからない。
「自室が暗すぎて眠れないと昨夜廊下を徘徊していたのを拾った」
「は?」
「イルの部屋は証明を落とすと本当に暗闇になるからな」
「ああ、それは知ってるがな」
諸事情で神殿長の部屋に泊まりに行った事がある。そのときに、部屋の様子はざっと知っている。だが、それにしても。
「拾った、ねぇ」
「何だ?」
「いや、意外といいとこあるな」
思わず笑ってしまった。言い方は色々とアレだが、夜に一人でうろうろする神殿長を放っておけなかったのだろう。リィンは軽く鼻で笑った。
「同情でやったと思ってるのか?」
「同情って……いやまぁ、違うのか?」
「これを見ろ」
そう言ってリィンが示したのは、本の一部、のようだった。だが、文字がまったく読めない。共通語ではないし、俺の出身地方の言語でもない。
「表現が古く、読みにくくてな。これに訳させた」
「ああ、そういう事か」
相変わらず、酷い扱いだ。だが、と思う。
「けど、それなら神殿長と朝まで一緒にいる理由はないだろう?」
指摘すると、リィンは露骨にとても嫌そうな顔をした。
「一応、こんなのでもとりあえずは友人だからな……」
物凄く嫌そうに言い放った。だが、それでも一応『友人』という認識をしているらしい。こいつの思考はよくわからない。
「用が済んだらとっとと出て行け。起きると面倒だ」
「はいはい」
軽く笑って扉を閉める。さて、訓練場にいくか。
「あ、ブライト」
「ん? ああ、ライトか」
「神殿長を見なかったか?」
「リィンの部屋にいたぞ」
「リィンの?」
ライトが眉を顰めた。先手を打っておく。
「眠ってるから、邪魔はするなよ」
「眠ってる? ああ、それならいい」
「は?」
「いや、最近、神殿長があまり眠れてないとかで心配してたんだよ。リィンといると徹夜で話したり本を読んだりするし……まぁとにかく、眠ってるなら良かった。あの方は放っておくと無茶をするから」
ライトの苦笑交じりのため息を聞いて、俺は笑った。リィンが再三、「起こすな」と言っていた事を思い出したからだ。煩いだとか面倒だとか散々言っていたけれど、今思えば、それならば早く起こして追い返すなりすればいいだけの話だった。照れ隠し、とまで言うつもりは、毛頭ないのだが。一度起きた笑いは、まだ収まらない。
どうやらあれは、リィンの一欠片の優しさであるらしかった。
おわり。
イルにだけちょっと優しいリィン、がテーマ。何だかんだ言っても唯一の友人なので。
ケース・1 図書館にて
セージに頼まれた本を借りに図書館に行くと、神殿長とリィンを見つけた。それは決して珍しい事じゃない。二人とも読書が好きだし。
「これを運び込むのか」
「そう。どうしてもこれくらい必要になるんだよ」
場所を気にしてか、小声で話す二人の近くの机には、本が十数冊積まれていた。会話の内容からして、恐らく神殿長が仕事で使うのだろう。
「っと……け、結構重い……」
「落とすなよ、本が傷む」
「わ、わかってるよ……」
「……仕方ねぇな」
リィンはため息をついて、神殿長の手に四冊ほどを残して、残りを軽々と抱えた。
「ほら、とっとと行くぞ」
「う、うん。ありがとう」
「お前に任せたら本が傷むからな」
余程本が大事なのか。この時は、そう思っていた。
ケース・2 食堂にて
神殿長とリィンとハザードと共に昼飯を食う事になった。神殿長は事前に申し出て、量を減らしてもらっているようだった。
「あう? これ、へんなあじ」
「ん? ああ、それはピーマンだよ。ハザードってピーマン食べた事ないの?」
「ぴーまん?」
「野菜の一種だよ。苦いと思うけど、身体にいいからちゃんと食べるんだよ?」
まるで母親のような事を言う。ハザードは首を傾げつつ、素直に「うん」と答えた。何がわからないのかは俺にはわからない。ちらりとリィンに目をやると、白いスープを口に運んでいた。
「リィン、それ美味いのか?」
「それなりに」
尋ねれば不機嫌な声が返ってくる。いつも通りだ。
「あ、それ一口頂戴」
「何故だ?」
「ずっと辛いの食べてわからなくなってきたから、味を変えたくって」
神殿長は意外と辛いものもそれなりに食べる。だが、そういったものはどうしても飽きがくる。だがリィンはきっと断るだろうな、と思って眺める。リィンはちらりと神殿長に目をやった。
「……交換ならな」
「やった、ありがとう」
正直、俺は驚いていた。あのリィンが一口交換などと言い出すとは思っていなかったし、聞いた今でも正直自分の耳を疑っている。俺の驚きなど気に留める事も無く、二人は互いの深皿に匙をつっこんだ。
「あ、美味しい。今度はこれを頼んでみようかな」
「お前なら自分で作れるんじゃないか?」
「作れなくはないと思うけど、これ、結構手間がかかりそうだし」
「多少手を抜けばいいだろう」
「作る以上は全力を尽くしたいよ」
神殿長なりに、こだわりがあるらしい。料理長達はもう慣れてしまったようだが、長時間となるとリムドが煩いかもしれない。
「作るとしたら、どうやる?」
「どうって……そうだなぁ、隠し味を加えて、具の切り方を変えて、芋を別の品種に変えた方がいい味がでるかも。後はちょっとずつ味を調節するとか」
「……そこまで考えているなら、いっそ作ればどうだ?」
「うーん……やっぱりやめとくよ。ここで食べれるものなら作らなくてもいいし。どうせ作るなら、故郷の郷土料理とか、ここでは食べられないものを作りたいな」
そう言って、辛いスープを口に運んでいく。だが、手が止まった。
「うーん、もう少し減らしてもらえばよかったかな」
「あと少しですよ。頑張ってください」
「う? イル、いっぱいたべないと、力もちになれないよって、まえにブライトが言ってたよ?」
これまで黙々と食べていたハザードが、じっと神殿長を見つめた。だが、神殿長は困ったようにするばかりだった。これは限界が近いな。相変わらずの少食だが、限界値は人それぞれなので無理にそれを超えるのも身体には悪い。
「……仕方ねぇな。具だけ食ってやるから、汁の部分は食いきれ。いいな?」
「あ、ありがとう、リィン」
リィンの意外すぎる提案に驚き、匙を取り落としそうになった。
ケース・3 ある朝、リィンの部屋にて
リィンに借りた本を返そう、と決めたのは朝方だった。リィンは割りと規則正しい生活をしているから、もう起きているだろう。午後からは用もあるし、早めに片付けておくに越した事はない。
用件が用件だからか、部屋を訪ねるとすぐに中に通された。起きてはいたが、まだ身支度を終えていないようだ。ふと寝台に目をやると、ふくらみがあった。よく見ると、陽光の当たった敷布が微かに光を反射している。
「……神殿長?」
「起こすなよ、煩くなる」
本を棚にしまいながら、リィンが不機嫌に言った。今日もいつも通りだ。
「何で神殿長がここに?」
「泊まったからだ」
いや、それは流石にわかるが。
「また読書会か?」
「さぁな」
そうきたか。だが、他に何の用があるのか、さっぱりわからない。
「自室が暗すぎて眠れないと昨夜廊下を徘徊していたのを拾った」
「は?」
「イルの部屋は証明を落とすと本当に暗闇になるからな」
「ああ、それは知ってるがな」
諸事情で神殿長の部屋に泊まりに行った事がある。そのときに、部屋の様子はざっと知っている。だが、それにしても。
「拾った、ねぇ」
「何だ?」
「いや、意外といいとこあるな」
思わず笑ってしまった。言い方は色々とアレだが、夜に一人でうろうろする神殿長を放っておけなかったのだろう。リィンは軽く鼻で笑った。
「同情でやったと思ってるのか?」
「同情って……いやまぁ、違うのか?」
「これを見ろ」
そう言ってリィンが示したのは、本の一部、のようだった。だが、文字がまったく読めない。共通語ではないし、俺の出身地方の言語でもない。
「表現が古く、読みにくくてな。これに訳させた」
「ああ、そういう事か」
相変わらず、酷い扱いだ。だが、と思う。
「けど、それなら神殿長と朝まで一緒にいる理由はないだろう?」
指摘すると、リィンは露骨にとても嫌そうな顔をした。
「一応、こんなのでもとりあえずは友人だからな……」
物凄く嫌そうに言い放った。だが、それでも一応『友人』という認識をしているらしい。こいつの思考はよくわからない。
「用が済んだらとっとと出て行け。起きると面倒だ」
「はいはい」
軽く笑って扉を閉める。さて、訓練場にいくか。
「あ、ブライト」
「ん? ああ、ライトか」
「神殿長を見なかったか?」
「リィンの部屋にいたぞ」
「リィンの?」
ライトが眉を顰めた。先手を打っておく。
「眠ってるから、邪魔はするなよ」
「眠ってる? ああ、それならいい」
「は?」
「いや、最近、神殿長があまり眠れてないとかで心配してたんだよ。リィンといると徹夜で話したり本を読んだりするし……まぁとにかく、眠ってるなら良かった。あの方は放っておくと無茶をするから」
ライトの苦笑交じりのため息を聞いて、俺は笑った。リィンが再三、「起こすな」と言っていた事を思い出したからだ。煩いだとか面倒だとか散々言っていたけれど、今思えば、それならば早く起こして追い返すなりすればいいだけの話だった。照れ隠し、とまで言うつもりは、毛頭ないのだが。一度起きた笑いは、まだ収まらない。
どうやらあれは、リィンの一欠片の優しさであるらしかった。
おわり。
イルにだけちょっと優しいリィン、がテーマ。何だかんだ言っても唯一の友人なので。