妹の唯は少し前まで、全く霊感がなかった。それが突然、ボールを頭にぶつけられてから(きっかけがそれかはわからないけど)霊が見えるようになってしまった。その事で不安になったりしないのかとかなり心配もしたけれど、当の本人は、それを何とも思っていないようだ。
「おかわり」
 ずい、と茶碗を差し出す唯は、以前と全く変わらない。ご飯をよそいつつ、ため息をついた。
「唯、本当に大丈夫?」
「何が?」
「その、霊とか見えて」
「何度も聞かれて何度も答えたように、全く問題はない」
「そ、そう……」
 何事もないならそれが一番好ましい筈なのに、複雑な心境だった。もくもくと箸を動かす唯は、本当に何も問題ないように見えた。双子なのに、どうしてここまで違うのだろう。というか、一応俺が兄で唯が妹なんだから、本来なら俺が唯をちゃんと守れるようにならなきゃ駄目なのに、いつも守られてばかりだ。
 ため息をついて、俯く。口に運ぶ料理の味もよくわからない。不意に、唯が口を開いた。
「……いや、そういえば一つ変わった事があるかもしれない」
「え!?」
 突然の言葉に、顔を上げた。唯は、いつも通り無表情気味に首肯した。
「以前より、食欲が増した気がする」
「は……?」
「というわけで、おかわりよろしく」
 ずい、と差し出された茶碗を、ため息をついて受け取った。



 唯はお茶を飲んで、テレビを眺めている。鏡さんはいつも通りじっと座っている。唯が見えない内は、鏡さんとは会話をほとんどしなかった。誰もいないところに話しかけ続けているようにしか見えないからだ。唯も見えるようになった以上、普通に話しかけてもいいのだけど、何となく気が引けてしまう。
 唯は暫く画面を眺めていたが、やがて退屈そうな顔で立ち上がった。
「風呂入って寝る」
「そ、そう」
 そう言ってさっさと着替えを取りに部屋に向かってしまった。鏡さんと二人、居間に取り残される。
「……鏡さん、普段、唯と話したりします?」
「いや、あまり話さん」
 二人ともそもそもあまり多弁な方じゃない。俺が台所に立っている間は二人きりだけど、あまり話し声も聞こえない。
「優はどうなのだ?」
「え?」
「普段何を話している?」
 質問に、少し悩んだ。
「ええと……勉強の事とか、夕飯のおかずのリクエストとか……あと、悩みを聞いてもらったりとか」
 唯に悩みがないかと尋ねても、いつも「問題ない」の一言で返される。悩んでいない、というわけではないのだろう。ただ、俺には話す必要がないと思っている事だけは確かだ。俺はそんなに、信用がないのだろうか。
「……どうした?」
「いえ……ただ、自分が情けないなって」
 口に出すと、一層虚しくなってきた。肩を落として、湯飲みを眺める。
「俺……いつも唯に頼ってばかりだったから」
 思えば、いつも唯の後ろに隠れていた。友達に情けないと謗られても、親にみっともないと詰られても、唯は煩わしそうにしながらも許容してくれた。だから、ずっと甘えてばかりいた。このままじゃ駄目だとわかっていても、抜け出せない。誰もが強くなれるわけじゃないんだと、心の中で言い訳ばかりして。
「……いつまでもこのままではいられないってわかっているのに……」
 思わず漏れた呟き。ため息をついて、俯いた。不意に、背中に衝撃。驚いて振り返ると、そこには片足を上げた唯がいた。
「い、いきなり何するんだよ!」
 蹴られたのだ、と気づいて声を上げると、唯はすっと目を細めた。ただそれだけでとてつもない威圧感を感じる。怒られる、と思うと身が竦んだ。何で蹴られた側の俺が怒られるんだとか、色々思ったけど、もう本能に近い。じっと見上げていると、唯が一つため息をついた。

「顔を上げて背筋を伸ばせ。まずはそれからだ」

 短く告げて、居間から出て行った。残された俺は、呆然とするしかない。
「え……と……?」
 困って、助けを求めるように鏡さんを見る。彼は、複雑な笑みを浮かべていた。いつも無表情に近いのに、珍しい。
「とりあえず、妹の忠告に従ってみろ」
「え……?」
「縮こまってばかりでは、何も変わらないと言いたかったんだろう、きっと」
 淡々とした声。それでもそこに、いつもよりもほんの少しだけ、温かみを感じたような気がした。
「……変われると思いますか?」
「お前次第だ」
 鏡さんは答え、そして珍しく、小さく声を立てて笑った。
「その前に、まずは顔を上げなければな」
「あ……」
 気が付かない内に、また俯いていた。意識して顔を上げて、ぐっと背筋を伸ばす。普段とは違う体勢は、それだけで少し疲れてしまう。肉体的に、というよりは、精神的に。
「……少しずつ、頑張ってみます」
「ああ」
 油断すると俯きそうになるけど、気を抜くと、肩を縮めてしまうけど。それでも、ほんの少しだけ無理をして、顔を上げて背筋を伸ばした。
 すぐに変われるわけじゃなくても。それが、小さな変化でしかなくても。
 それでも少しだけ、変われたような気になれた。



<おわり>


終わり方がやっつけ……
 この世に生まれて十数年。
 私は、『怖い』と思った事が一度もない。

 夜城唯。
 それが私の名前だ。両親は一応健在で兄が一人いる。だから一応は四人家族という事になっているが、基本的には兄と二人で暮らしているようなものだ。両親が忙しく全国を飛び回っているからだ。
 寂しいとは思わない。小さい頃からそうだったから、もう慣れた。むしろ、いない方が気が楽でいい。両親は、私にはよそよそしい。理由は単純かつ下らない。だがそれを説明するにはまず、私の両親の仕事について語らなければならない。
 両親は、所謂『霊能力者』というやつだ。心霊現象で困っている人間のところに行き、解決する事を生業としている。
 兄はその血をしっかりと受け継ぎ、霊感少年として学校で有名だ。肝試しに呼ばれては半泣きで帰ってくるなんてよくある事だ。見えるけど、祓うのはまだ苦手だからそうなるらしい。
 そんな兄に対して、私は全く霊感がない。誰にでも多少はある、だとかよく言われているが、私には本当に皆無らしい。そして霊も私には決して寄り付いてこないのだと、兄が言っていた。
 そんなわけで、両親は私にどう対応していいのか分からないらしい。父は見えると大変だから見えなくて良かったな、とフォローをしているつもりで無意識に見下してくるし、母は可哀相なものを見るように私を見る。
 馬鹿らしい、としか言いようがない。
 祖父母や親戚の中にも少しは見える人が多いが、私のように見えない人もいる。そういう人達は、決まって兄より私を可愛がる。何もないところを指差したり壁と話したりする子供は気持ち悪かったのだろう。私は当時から多少素直さには欠けていたが、それは両親の所為だという事になっていたので、私自身が何か言われる事はなかった。それはそれで鬱陶しかったが、とりあえず表面上は感謝しているように装っている。年の近いイトコ達とはわりと良好な関係を築いているので、それは唯一いい事かもしれない。
 そして、兄は見えるわりに怖がりなので、よく私に縋ってくる。私の後ろにいれば霊が寄って来ないんだそうだ。我が兄ながら情けないし鬱陶しいとは思うが、頼られるのはそれなりに優越感がある。
 そんな歪んだ環境で育った私が、歪まずに育てる筈がない。歳の割りに冷めているとよく言われる。そして、『度胸がある』とも。ついでに言うなら、大体私の周りにいるのは、何かと仲間外れにされがちな子が多かったりもする。私は頼られる側の人間である事が多い。それを思うたび、両親にざまぁみろ、と内心舌を出したりする。ちょっと空しい。
 そして私は『恐怖』を知らない。
 だから兄が怯える姿が不思議でしょうがない。あれが『恐怖』に怯えている姿だというのは分かるが、それがどうした、と思ってしまう。異常なのは私だと分かってはいる。でも、それでも不思議なものは不思議なのだ。
 結局、それはどうでもいい事なんだろうけれど。

 まず白い天井が視界に入った。
 暫くぼうっとそれを眺めて、今まで私が寝ていたという事に気付いた。そして、そこが自分の部屋でない事を理解する。
「あ、目が覚めた?」
 ひょい、と顔を覗きこんできたのは、兄だ。私とよく似た、でも私より少し女の子に近い顔立ち。女装させたら似合うだろうな、と下らない事を思う。
 身体を起こして、やっとそこが病院だと気付いた。ついでに、後頭部がちょっと痛い。
「何で、私が病院にいるんだ?」
「覚えてない? 学校でボールが頭にぶつかって、倒れたんだよ。なかなか目を覚まさないから、打ち所が悪かったんじゃないかって慌てて救急車呼んで……あ、検査したら、別に異常はないって。でも大丈夫?」
「いっぺんに言わないでくれ。頭はちょっと痛いけど平気。それよりも、兄貴。覚えてない? って言われても、後頭部にぶつかって気絶したんじゃ覚えてるとかそれ以前に認識すらしてないと思う」
「あ、そうか」
 心底ほっとしたように兄が頷いた。この双子の兄はいつもこんな感じで、ちょっと抜けてるが、それもいつもの事だ。
「ところで、兄貴は学校は?」
「学校どころじゃなかったから……先生達も仕方ないって言ってくれたし」
「そうか。とりあえず今から戻ろう」
「……もう夕方だよ?」
「……そんなに寝てたのか?」
「うん」
「それじゃ帰ろう」
 立ち上がる。一瞬頭がずきずきした。兄貴が慌てて立ち上がった。
「大丈夫? 一応異常はなかったけど無茶はいけないってお医者さんが……」
「平気だ。というか、兄貴、ここにいて平気なのか? こういう所って多いんだろ?」
「う……」
 ちらちらと色んな所に視線を飛ばし、兄貴が縮こまった。そういえば、ここ、妙に人が多いな。
「さて、帰ろうか」
 学校での怪我だから一応学校側で払っておいてくれたらしい。後で請求されるかもしれないけど。
 妙に入院患者の多い病院を出て、家に向かった。

「ただいま」
「……ただいま」
 一応誰もいない家でも挨拶はしておく。兄貴はさも誰かがいるかのように言うが、もしかしたら兄には何かが見えているのかもしれない。
「兄貴、煎茶飲みたい」
「用意しておくから、部屋に戻って着替えておいで」
 素直に頷き、着替えに戻る。スカートは普段は穿かないしあまり好きじゃない。適当な服を纏って、まだ少し痛む頭をさすった。
 居間に戻って食卓を眺めて、眉を顰めた。兄はまだ茶の準備をしているらしい。台所にずかずかと乗り込む。
「兄貴、客人がいるなら言っておけよ」
「え? お客さん?」
「……違うのか? それじゃ、不法侵入者?」
「え? え? 何処に?」
「居間に」
 兄貴はぎょっとしたようだった。そしてびくびくと身体を震わせる。小動物みたいだ。
「どんなひと?」
「白い人」
 一言で表現するとそれだ。兄貴がことりと首を傾げた。
「っていうと?」
「髪も肌も白い。目も薄い色。白い着物着てる」
 今時珍しいが、もしかしたら心霊相談かもしれない。
 兄貴は、とても驚いた顔をしていた。
「え……?」
「何? やっぱり知り合い?」
「ていうか……ちょっときて!」
 兄貴はそう言って居間にばたばたと走っていく。私は勿論ゆっくり歩いてその後を追った。
 居間では、やはり白い人が、じっと座っている。
「この人?」
 兄貴が震える手でその人を示した。指を差さないだけ偉い。
「そうだけど」
 答えると、兄貴は頭を抱えて蹲った。そして白い人も、驚いた顔をしていた。失礼な奴だ。
「どうした?」
「……本当に、見えるんだね?」
「別に失明した覚えはないけど」
「そういうわけじゃなくて、あの……」
「私が見えるようになったのか?」
 白い人が静かな声で言う。『見えるようになった』。そう言われて、漸く思い当たった。
「幽霊?」
「厳密には少し違う」
「少し? だったら殆ど同じって事だな。ならばいいだろ?」
「ああ……」
「まずいな……見えるようになったのか……」
 兄貴が蹲ってうじうじとしている。
「何か問題があるか?」
「当たり前だよ」
「何でだ」
「だって、見えるって事は、唯にも集まってくるかもしれない。唯、対処法を知らないじゃないか。あ、でもそれは今から教えれば少しはどうにか……でも、俺はそんなのできるほど……」
「別にいい」
「そういうわけにはいかないよ……」
 泣きそうな顔をしていたので、とりあえず頭を撫でておいた。ふわふわの癖毛が気持ちいい。顔立ちは似ているのだが、こういった髪質などの細かい部分では違いがよく出ている。
「ここに来るまでに、他にも何か見た?」
「別に。ただ、いつもより人がちょっと多かった」
「……区別がつかないほどはっきり見えるのか……」
「どうでもいいよ。そんなに困ってないし」
「でも……」
「どうせ一日二日でどうにかなるものでもないんだろ」
「そうだけど」
 だったら気にしていても仕方ない。座布団を敷いてその上に胡坐を掻く。
「兄貴、お茶」
「あ、う、うん」
 兄貴の背中を見送ってから、白い人に目をやる。
「私は夜城唯。あんたは?」
「……キョウ。鏡と書いてキョウと読む」
「そうか。いつからここにいるんだ?」
「昔から、この家の守護に憑いている」
「先住民か。それはすまない。礼儀を欠くこともあるかもしれないが、とりあえずよろしく頼む」
「ああ」
 私は黙った。鏡というらしい霊も黙った。無口な方なのだろう。そういえば両親や兄が彼と話しているところを見た事もない。
「あの、お茶持ってきたよ」
「ああ、礼を言う。あんたもどうだ?」
「不要だ」
「お供えとかいるんじゃないのか?」
「時折貰っている」
「そうか」
 会話が終わった。兄貴の淹れる茶は美味しい。基本的に料理は兄貴の方が上手い。包丁で切り刻むだけなら私の方が上手いのだが。
「兄貴、夕飯は? 玉葱刻むなら私がやってやるが」
「いや、今日は焼き魚と味噌汁だから……あ、豆腐だけ切ってくれると嬉しいな」
「そうか」
 居間が沈黙に包まれる。耐えられなかったのは兄だった。
「えっと、その……何か、聞きたい事はある?」
「そうだな。味噌汁の具は?」
「あ、なめこと豆腐……じゃなくて、心霊の事に関して」
「特にない」
 きっぱりと言うと、兄貴が項垂れた。仕方がないので一つだけ質問する事にした。
「幽霊って触れるのか?」
「その幽霊によるよ。基本的に強い霊は触れる事ができる場合が多い」
「鏡殿は?」
「己で調節できる。例えばだ……」
 手を軽く振ると、湯呑みをすぅっと通り抜けた。その直後、湯呑みを持ち上げた。
「便利だな」
「……そうかもしれんな」
「基本的にここにいるのか?」
「ああ」
「そうか」
 こくりと頷き、そして合点した。
「だから、居間で着替えようとすると兄貴が必死に止めるのか……」
「いや、それもあるけど、女の子が居間で着替えようとなんてしないで……」
 兄貴が泣きそうだったので、とりあえず頭を撫でる。大体はこれで誤魔化せる。
「兄貴、そろそろ夕食の準備をしよう。豆腐を切る時に呼んでくれ」
「う、うん」
 ぬるくなった茶を飲む。湯呑みが空になると、兄貴が急須から注いでくれた。新妻に欲しい。
 部屋を沈黙が包む。だが、それはいつも通りの事だ。兄貴がいなければ私は一人だから、自然と静かになる。今日からはこの人が見えている。ただそれだけの違いだ。
「……優は汝を心配している」
「あ?」
 あぁ、そういえば兄貴の名前が優だったな。一瞬、誰の話をしようとしているのか分からなかった。
「で、それがどうした?」
「……やはり、ある程度の知識は必要だと思う」
「それが、何だ?」
「霊は、汝が思っている以上に厄介な存在だ。だから、用心をしておけ」
「ご忠告痛み入る」
 それだけ返して、新聞に目を落とした。
「唯、豆腐切ってー」
「分かった」
 いつもの日常だ。ただ、住人に気がついただけ。
 それだけの、変わらぬ日常だ。

―続―
 学校にも、やはり人が多い。だが、ここだと流石に生きている人間とそうじゃないものの区別くらいつく。均一な集団の中で、それらは明らかに異質だからだ。とりあえずそういう輩は無視しておく。対処法も知らないのに関わっても仕方が無い。特に変わった事もないまま、放課後になった。
「唯ちゃん、また明日」
「ああ、また明日。気をつけて帰るんだぞ?」
 学友である篠原純子と軽く挨拶を交わす。華奢で可愛い子だ。気弱だった所為か、仲間外れにされる事が多かったらしい。私はどういうわけか彼女に懐かれた。彼女の持つ物静かな雰囲気が好ましいから、それを苦痛に思った事は無い。
「大丈夫だよ。唯ちゃんはまっすぐ帰らないの?」
「兄貴を待たないといけないから。すまない」
「ううん、いいよ。それじゃ」
「ああ」
 いい子だ。同い年だが、そんな事を思ってしまう。
 その時、着信が入った。メールを確認すると、兄貴からで『遅くなるからどこかで時間をつぶしていて』と簡潔に書かれていた。
 時間を潰せるような場所、というとやはり図書室か。鞄を持って階段を下りようとして、思い出した。そういえば今日は図書室は特別清掃だとかで、放課後は立ち入り禁止になるらしい。
 それじゃどうするか、と思って、屋上が思い浮かんだ。この学校は珍しく屋上が解放されている。飛び降り自殺するような人間はいない、という自信の表れなのだろうか。風に当たってみるのもいいだろう。下りる筈だった階段を上る事にした。

 錆びた扉を力を込めて押す。途端に、風を感じた。
 こういうのは、なかなか好きだ。屋上を一人占め、なんてなかなか面白い。
 だがしかし、その思いは裏切られた。
 先客がいた。
 男子生徒で、フェンス越しにじっと景色を眺めている。こちらには気付いていない。
 しばしの思考。その末の結論が、気にしない事にしよう、だった。フェンスにもたれかかって空を見上げる。そういえば、屋上で告白、なんてシーンに出くわす可能性もあったのかなとぼんやり思う。そうだったら気まずいな。でも楽しそうだ。
「あの、あなたは……?」
 唐突に、声をかけられた。先ほどの男子生徒だ。こうして見ると、線が細いのが分かる。
「何だ? 屋上に来るなとでも?」
「いや、そんな事ないですけど……」
 それじゃどういう事だ。軽く睨むと、びくっと肩をすくませた。
 ふと、その制服が新しい事に気がついた。
 まだ一年なのか、と合点した。だから怖がられていたのか。
「何か?」
「あ、その、名前を教えてもらいたくて」
「……人に名を訊く時は?」
「あ、すみません。ショウジといいます」
「ふぅん、ショウジ。こちらは夜城だ」
 苗字しか名乗らなかったんだから、こちらも苗字だけでいいだろう。
「隣、座ってもいいですか?」
「ご自由に」
 空に視線を戻す。飲み物でも買ってから来ればよかったな。
「夜城さんは、どうして屋上に?」
「暇潰し」
「そうなんですか……」
「ショウジは?」
「僕は、空が好きで。じっくり眺めていたいなぁって思って……趣味みたいなものなんですけど」
 何故か少し恥ずかしそうに言った。
「あの、なんかすいません」
「それは恥じるような事か?」
「でも……よく、それは変だって言われるんです」
「誰に?」
「誰って・・・・・・友達とか。親も、もっとちゃんとした趣味を持てって」
「それがどうした?」
「どうしたって……」
 困惑したような声だ。私は空を見上げたまま、ため息をついた。弱いものいじめをしているような気分になってくる。
「別に、いいだろ。他人に認められないと、趣味だと胸を張って言えないのか」
「でも……」
 私は漸く男子生徒に視線を移した。空が好きだと言った彼は、じっとコンクリートの床を見つめていた。
「でも、変だって言われるの、辛いんです。僕は空を見上げるのがとても好きなのに、みんなにそれは変だよって言われると、僕はとても変なんだって思って、不安になるっていうか……」
 そういうものなのだろうか。私にはサッパリ理解ができなかった。
「そうか」
 それだけ言って、もう一度空を見上げた。
 今日は程よく白い雲が散っている。青い空に白い雲のコントラストが、見事だった。ぼんやりと、空を見上げ続ける。
「夜城さんは、空好きですか?」
「ああ」
 嫌いな人間は、あまりいないと思う。空模様によって違いはあるだろうが、空全般が嫌いだなどという人間には、今のところ会った事がない。
「空を飛べたらいいなって思った事はありますか?」
「学校に遅刻しそうな時は」
 滅多に無いが。
「そうですか……」
「お前はそう思うのか?」
「いえ、飛ぶのは、何だか怖い気がして」
「そうか」
 小さく見える黒い鳥が空を横切っていった。ぽつりと、呟く。
「地上から見える空が好きだからな」
 ショウジと名乗った少年が、こちらを見た気がした。視線をちりちりと感じる。仕方なく視線を落とした。
「何だ?」
「いえ……」
 口篭った。ついでにまた俯いた。
「空が好きなら、眺めればいいだろう。こちらもずっと見ているんだ。別に無礼にはならないだろうよ」
「そう、ですけど」
 ふと気付いた。そういえば、この少年は空が好きだと言った割りに、あまり空を見ていない。最初に見た時も、空というより景色を眺めていた気がする。
「夜城さんは、強い人ですね」
「何故?」
「だって、好きだとはっきり言える人だから」
「ショウジも言っただろう」
 すぱっと返すと、困ったような顔でこちらを見上げてきた。
「僕は、駄目です。さっきも謝ってしまいました」
「そうだったな」
 ショウジはじっと膝を抱えていた。
「僕は、好きなものを好きだと言う事もまともにできないんです。だから、僕は夜城さんが羨ましいです」
「そうか」
 それ以外どう言えばいいのか分からなかった。そんなものは人それぞれで当然だ。
 改めて彼を観察して、ふと、何となく違和感を覚えた。彼は、あまりに制服を着慣れていない感じがした。まだ春とはいえ、入学からはそれなりに経っている。
 だがそれ以上に、彼の態度が気になった。何となく、兄に似ているからかもしれない。
「変じゃないと思う」
 言葉が、勝手に口をついて出たような気がした。
 ショウジがきょとんとこちらを向いた。
 こうなったら、最後まで言っておこう。それが礼儀だ。
「別に、君が変だとは思わない。空を見上げるのが好きで何も悪い事などないだろう」
「え……」
「いいと思うぞ。空が好きでも」
 ショウジは、呆然としていた。
「少なくとも、私はそう思う」
「あ……ああ……」
 頭を抱えて俯く。やがて、ぼうっと視線を宙に彷徨わせた。
「そう……か。僕は……それが……」
 しっかりと膝を抱いていた腕が、床に触れた。
「誰かに……認めて欲しかった。……誰かが認めてくれたら、初めてちゃんと言える気がしたんだ……」
 うわ言のように呟いて、少しずつ足を伸ばした。視線が、徐々に上がっていく。
「ただ、怖かった……好きなものを好きだと言って否定されるのが……僕自身を、否定されているような気がして……寂しかった……」
 開いたままの目から、涙が落ちた。
「だから……いつの間にか、空をちゃんと見るのも怖くなった……」
 声が震えた。私は空へと視線を戻す。青い空は、先ほどと同じようでも少し違う。雲の大きさ、配置。飛ぶ鳥の数、種類。そして本当に微かな色彩の違い。
「同じ空などない。本当に好きなら、少しでも沢山見ておかないと損だぞ」
「そう、ですね……」
 微かに、笑うような声がした。
「僕は……変だといわれるのが、苦しくて、悔しくて、怖くて、しょうがなかった。誰かに、認めてもらいたかった。好きでもいいんだよって、言ってもらいたかった。それが、些細なことなのかもしれなくても」
 震える声が、徐々にはっきりしてきた。目だけを、ショウジに向けた。彼は、涙を流しながら、空を見上げていた。
「綺麗ですね、空……」
「ああ、そうだな」
「夜城さん」
 今度は体ごと彼に向けた。彼は泣きながら空を見上げている。
「僕、空が好きです」
「そうか」
 答えて、思わず笑った。
「私も空は好きだ」
「……ありがとうございます」
 一度、こちらを向いて笑った。頬には涙の筋が残ったまま。それでもその笑顔は、心の底から嬉しそうに見えた。
 すぐに視線を空に戻し、また笑った。
「空を見る事ができて……よかった」
 すぅっと、彼から色素がなくなった。
 紺色の筈のブレザーから、黒かった髪から、元々白かった肌から。
 そのまま、とけるように、彼は消えた。
 私はその様子を黙って眺めていた。何か声をかけるわけでもなく、何を思うわけでもなく。
 私はまた空を見上げた。
 喉は渇いていたが、兄から連絡があるまで、ここで空を見上げるのもいいかもしれないと思えた。

 兄貴と並んで、家へと足を進める。
「兄貴、霊って怖い?」
「え、いきなりどうしたの?」
 ぎょっとした兄に苦笑する。
「いいから、答えてくれるか?」
「あ、う、うー……やっぱり怖い、かな」
「そうか」
「あ、でも」
 焦ったように付け足す。背があまり変わらないので、縮こまって歩く兄は背筋を伸ばして歩く私を少し見上げる形になる。
「でもね、怖いだけじゃなくて、哀しい」
「かなしい?」
「うん。だって、残っているような人の中には、自分が死んじゃった事も知らない人がいて、知っていても悔いが残っている人もいて、怖い人もいるけど、でも、とても哀しい」
 拙い説明の末、恥ずかしそうに兄が俯く。その姿が、ショウジと重なった。
「だって、あの人達だって、俺達と同じ人間だった。気がつくまで、あの人達は生きている人間とあまり変わらないんだよ。寂しいとか悲しいとか、ちゃんと感じるんだよ」
 一生懸命に言葉を連ねる。少しでも意思を伝えようと。
「ううん、気がついてからも、そう。だって、悔しいと思うのも、羨ましいと思うのも、人間だからだと思うし……僕はそれが怖いと思うけど、でも、同じくらい哀しくて。人間の感情を、下手したら感情だけを、とても強く強く持っている彼らが、怖い。生きている人間よりも感情を強く表に出す彼らが、僕は怖い。僕は……本当は、人間が一番怖いのかもしれない」
 しゅんとして俯いた。その頭をぐりぐりと撫でる。
「私は、『怖い』というのはよく分からないけど」
 兄がきょとんと私を見上げた。
「『哀しい』というのは、少し分かるよ」
 兄は、泣くような笑うような、複雑な表情になった。私は視線を空に向けた。赤く染まった雲と、尚も青い空。
「空が綺麗だな」
「うん、俺もそう思う」
「そうか」
「だって、俺、空好きだから」
 そう言った兄貴は、きっと笑顔なんだろう。空を見上げたままでも、それは何となく判った気がした。

 二人でばらばらに「ただいま」と言って、私はすぐに着替えて居間に戻る。既に急須と湯呑みが用意されていた。座布団を敷いて胡坐を掻く。目が合ったので、先住民に軽く手を掲げて挨拶をする。
「見えるようになって、何か変わったか?」
「少しは変わったかもしれないな」
 答えながら新聞を広げる。
「……意外だな」
「少ししか変わらなかった事がか? 少しでも変わった事がか?」
 言葉を声にのせながら、紙面を目で追う。
「どのように変わった?」
「少しだけ、認識が」
 紙を捲る。暫く眺めて、一つの記事に目が留まった。
「……名前だったのか……」
「……?」
 きっと、現在の話し相手は訝しげな顔をしているのだろう。だが、そんな事はどうでもよかった。
 少年が登校途中に事故死したという記事が、そこに載っていた。原因はトラック運転手の不注意。事故自体は二週間ほど前に起きたらしい。昨日死亡するまで、少年は昏睡状態にあったのだという。
 『長岡正二』という名前が、線が細い少年の顔写真の下に書かれていた。
 まだ新しい制服に身を包んで、少年は意気揚々と家を出たのだろう。そして最期に空を見上げる事すら出来ずに。
「哀しいな」
 彼は、あれで満足したのだろうか。満足できたのだろうか。誰にも認められないまま生を終えて。それでも、好きな空を見上げて。
 彼の目には、空はどう映ったのだろう。私と変わらぬ空なのか、それとも――。
「哀しい、か」
 呟きに、紙面から顔を上げる。複雑な顔をして、先住民が言った。
「そうかもしれないな」
 私は何も言わず彼から目を逸らした。
 あの少年にとって空が、綺麗に、優しく映っている事を密かに願った。

 この世に生まれて十数年。
 大きな転換期だと思われるような出来事がつい最近あった。
 それでも――私は、『怖い』と思った事がまだ一度もない。


――了――