たのしい、うれしい、しあわせ
くやしい、くるしい、なきたい
本を抱えて帰り、新設図書館に届けたのは、既に日も暮れた頃だった。これでひとまず一段落だ。一応報告でもしにいくか。
イルの部屋の扉を、とりあえず二回叩いてから開ける。目的の人物がいた。ついでに、別に目的でもない奴も。
「あ、リィンおかえり」
「ああ」
「リィン?」
眠そうに声をあげたのは少年、いや、『魔物』の方か。しばらく眺めて、状況を確認する。確認を終えて、『魔物』に歩み寄る。不思議そうに見上げてきたその頭を軽くどついた。
「わっ……」
「リィン、いきなりどうかした?」
イルが怪訝そうな顔をする。それで、ふと思い出した。
「イル、食堂が開いていない」
「あ、今日は早めに閉まる日だから。夕飯、まだ食べてない?」
「ああ」
「それじゃ、すぐ作るよ。フィアスく……フィアスは、寝てていいからね」
「ん……」
ぼうっとした『魔物』を置いて、部屋を出た。アレは仮にも『魔物』なのだし、放っておいてもいいのだろうか。まぁ、いいか。どうせ俺が困るわけではない。
スープと炒め物を出された。いつも通りの味だ。
「目標通り、仲良くなったようだな」
「ああ」
あっさりと首肯しやがる。本当にこいつは無茶苦茶だ。
「そうそう。ハザードも、ハルと仲良くやってるみたいだよ。上達が早いって、ハルが褒めてた」
「そうか」
割とどうでもいい情報だ。今後、俺があの少年の面倒をあまり見なくて済むという点は喜ばしいが。
「リィンの方は、どうだった?」
「特に異常もなかった」
「そっか。他の子も何人か行き来してるんだけど、そっちも問題はなかったみたい。旅慣れてる子が結構参加してくれたしね」
「だが、この調子だとあの量の棚を埋めるまで、まだかかるんじゃないか?」
「ゆっくりでもいいんじゃない? だって、急に増えても読みきれないでしょ?」
「そういう問題か?」
「え? 違うの? あ、そうだ。次の出発はいつにする?」
「いつって、決まってないのか?どこまで自由なんだ、お前は」
「だって、別に急ぎの仕事ではないし」
確かにそれはそうだが。
「それに、疲れてるのにすぐに行っても、大変だろうし。ちゃんと身体を休めてから行った方が効率もいいだろうなぁって」
「旅は慣れているから、さほど疲れてもいないが」
「あと、折角持ってきた本だから、読みたいでしょ?」
「ああ、それはあるな」
途中で何冊かは読んだが、それを上回る量を入手したので、まだ読書が追いついていないのは確かだ。一通り目当てのものを読んでから行く、というのも、悪くはないかもしれない。
「一緒にいたら、ハザードも喜ぶと思うよ。勿論、フィアスも」
「別にその辺りはどうでもいい」
「俺もリィンがいてくれると嬉しい」
「それは更にどうでもいい」
「うわ、リィン酷っ!」
いつもの調子で言って、それから笑った。何故笑うのか不可解だったので、頬を引き伸ばしておいた。
「い、痛いって! 酷いな、リィンは」
「いきなり笑う奴に言われたくはないな」
鼻で笑うと、それもそうかも、などとほざいて、真剣に思考し始めた。本当に、いつか誘拐でもされるんじゃないだろうかと思う。もしかしたら本人も周りも気付いていなかっただけで、一度や二度は誘拐されていたかもしれないが。
「フィアス、他の子と仲良くなれるかな」
「さあな、どうでもいい」
本気で、心の底からどうでもいいと思う。だが、こいつは無意味にそういう事に気を配るという不可解な性質を持ち合わせているので、『魔物』とはいえ心配でもしているのだろう。
「その内、人類みな兄弟、だとか言うんじゃないだろうな」
だとしても、『魔物』は人類というカテゴリーに入るのかわからないが。イルはきょとんとして、首を横に振った。
「うーん、できればみんなが仲良くしてくれた方がいいけど、そう簡単にできたら、神殿なんて要らないだろうしね」
一応、その程度には現実がわかっているのか。
「それに、俺は誰だって無条件に好きなわけじゃないよ。フィアスとは縁があったから、幸せになってもらいたいなって思うだけだし」
「縁、か」
「ああ。だって、誰だって親しい人と知らない人だったら、親しい人を選ぶんじゃないか?」
「それはそうだろうな」
どんな綺麗事を並べ立てたところで、友人と知らない人間を突き出し、どちらかしか救えないといえば、余程頭がおかしい奴でなければ友人を選ぶだろう。選ぶ人間にとって、友人と赤の他人は同価値ではないのだから、それは当然の事だ。それを非難する奴がもしいたとしたら、そいつは友人など世の中に存在しないのだろう。或いは、友人一人助けられない人間、と見放されるだけだ。
「それに俺は、神殿のみんなは基本的に好きだし、神様達も好きだし、ずっと成長を見てきた色んな国の王族とかも仲が良いから好きだけど、世界の人間がみんな好きってわけじゃないし。リィンもそれは知ってると思うけど」
「そういえば、そうだったな」
色々と誤解されがちだが、こいつはそれ程人々の事を考えてなどいない。できれば幸せでいてくれればいい、くらいの認識で、普段は特に気に留めていない。ただ自分の周りの、近しい人間が楽しそうにしていればそれでいいそうだ。そうなるのも、無理はないのだろうが。
「セイとか、フィアスと仲良くなれそうな気がするんだけどね」
「根拠は?」
「勘みたいなものかなぁ」
普通なら、そんなものが参考になるか、だとか言えるのだが、こいつの勘は異様に当たる。これも神殿長の力の一つらしいが、その内未来予知でも始めるんじゃないだろうか、とさえ時折思う。
「ああ、それでね、リィン。仕事の話なんだけど」
「あ?」
「今度、この国に行ってもらおうと思ってる」
この国、と言ってイルが地図上を指し示した。小国というほど小さくはなく、かといって決して大国ではない、そんなありふれた国。だが、その国はよく印象に残っていた。
「あの国か……」
諸事情でイルの付き添いをした際、その国の君主と会った事がある。お飾りのような君主が多い中、あの君主は、まさに『君主』といった風情を持っていた。
「俺も用事があるから、一緒に行こうかなと思って」
「それが狙いか。折角フィアスと親しくなったんじゃなかったのか?」
俺もイルもいなくなったら、拗ねるんじゃないだろうか。アレはハザードよりはまだまともだが、ガキである事に変わりはない。
「大丈夫だよ。フィアスとハザード、ちゃんと仲良くなれたらしいから」
「ほう……」
これまでは、さほど親しくはない様子だった。ハザードはともかく、『魔物』の方はハザードの名を呼ぶ事もなく、突き放したような言動を取っていた。それが一応友好関係を結んだという事は、一応進歩に入る気がしないでもない。
不意に、イルが顔を上げた。数秒して、理由に気付く。不思議な足音。近付く気配。それが何者のものかは、考えるまでもなかった。
「ハザード、どうしたの?」
「あう? イル、見つけた。リィン、おかえり」
寝ぼけているのだろう、いつもよりも言っている事が支離滅裂だった。イルに歩み寄り、だらん、ともたれかかる。
「あのね、起きたら、まっくらで、びっくりして……」
「そっか、ごめんね」
「う……」
頭を撫でられ、ハザードが眠そうに目を閉じる。次の瞬間、雰囲気が変わった。
目を開けると、イルがいて、リィンがいた。どうしてここにいるんだろう、と思っていたら、説明された。ハザードがふらふら歩いてここにきたらしい。
「まだ眠いでしょう? お部屋に帰って休んでおいで」
「ん……」
もたれかかった身体は細くて、頼りない。頭をなでる手は優しい。
『おかあさん』じゃないけど、『おかあさん』に似てる。
頭をなでてもらうのが、ずっと昔も好きだった。
どうしようもなく、眠い。でもその眠さは、イヤなものじゃなかった。どこか、安心する。身体のどこかがあたたかい。
こういう時に寝ると、『夢』を見る。昔の夢。なつかしい夢。顔も忘れた『おかあさん』がいて、他の『こども』達がいた、あの夢。
多分、あの時、僕は『幸せ』だったんだと思う。
どうしようもなく眠くて、目を閉じた。笑う気配がする。
ここにいる限り、僕は『幸せ』を思い出す。それは、あの時と同じ『幸せ』じゃなくても。そして、同じように、失くした時の気持ちも、はなれてくれない。
こんなに暖かくて気持ちが良いのに、悔しくて、さみしい気持ちも、ずっとついてくる。
それでも、僕はもうここから逃げない。もう忘れない。ここを、壊させない。
――たとえばそれが、どうしようもないほど大きい、『後悔』とずっと一緒にいることになっても。
一人じゃないことが嬉しいと、初めて気付いた。独りが寂しいと、やっと気付いた。
そんな答えは、ずっと僕のそばにいたのに、ずっとずっと、気付かなかった。それはもしかしたら、『幸せ』だったのかもしれない。気が付かないままだったら、苦しくなかったかもしれない。
だけど僕はもう気付いた。だから気付かなかった頃には戻れない。
たくさん後悔して、それでも『僕』は『生きて』いく。
悔しいほど楽しくて
嬉しいほど苦しくて
泣きたいくらい、幸せ
―了―
くやしい、くるしい、なきたい
本を抱えて帰り、新設図書館に届けたのは、既に日も暮れた頃だった。これでひとまず一段落だ。一応報告でもしにいくか。
イルの部屋の扉を、とりあえず二回叩いてから開ける。目的の人物がいた。ついでに、別に目的でもない奴も。
「あ、リィンおかえり」
「ああ」
「リィン?」
眠そうに声をあげたのは少年、いや、『魔物』の方か。しばらく眺めて、状況を確認する。確認を終えて、『魔物』に歩み寄る。不思議そうに見上げてきたその頭を軽くどついた。
「わっ……」
「リィン、いきなりどうかした?」
イルが怪訝そうな顔をする。それで、ふと思い出した。
「イル、食堂が開いていない」
「あ、今日は早めに閉まる日だから。夕飯、まだ食べてない?」
「ああ」
「それじゃ、すぐ作るよ。フィアスく……フィアスは、寝てていいからね」
「ん……」
ぼうっとした『魔物』を置いて、部屋を出た。アレは仮にも『魔物』なのだし、放っておいてもいいのだろうか。まぁ、いいか。どうせ俺が困るわけではない。
スープと炒め物を出された。いつも通りの味だ。
「目標通り、仲良くなったようだな」
「ああ」
あっさりと首肯しやがる。本当にこいつは無茶苦茶だ。
「そうそう。ハザードも、ハルと仲良くやってるみたいだよ。上達が早いって、ハルが褒めてた」
「そうか」
割とどうでもいい情報だ。今後、俺があの少年の面倒をあまり見なくて済むという点は喜ばしいが。
「リィンの方は、どうだった?」
「特に異常もなかった」
「そっか。他の子も何人か行き来してるんだけど、そっちも問題はなかったみたい。旅慣れてる子が結構参加してくれたしね」
「だが、この調子だとあの量の棚を埋めるまで、まだかかるんじゃないか?」
「ゆっくりでもいいんじゃない? だって、急に増えても読みきれないでしょ?」
「そういう問題か?」
「え? 違うの? あ、そうだ。次の出発はいつにする?」
「いつって、決まってないのか?どこまで自由なんだ、お前は」
「だって、別に急ぎの仕事ではないし」
確かにそれはそうだが。
「それに、疲れてるのにすぐに行っても、大変だろうし。ちゃんと身体を休めてから行った方が効率もいいだろうなぁって」
「旅は慣れているから、さほど疲れてもいないが」
「あと、折角持ってきた本だから、読みたいでしょ?」
「ああ、それはあるな」
途中で何冊かは読んだが、それを上回る量を入手したので、まだ読書が追いついていないのは確かだ。一通り目当てのものを読んでから行く、というのも、悪くはないかもしれない。
「一緒にいたら、ハザードも喜ぶと思うよ。勿論、フィアスも」
「別にその辺りはどうでもいい」
「俺もリィンがいてくれると嬉しい」
「それは更にどうでもいい」
「うわ、リィン酷っ!」
いつもの調子で言って、それから笑った。何故笑うのか不可解だったので、頬を引き伸ばしておいた。
「い、痛いって! 酷いな、リィンは」
「いきなり笑う奴に言われたくはないな」
鼻で笑うと、それもそうかも、などとほざいて、真剣に思考し始めた。本当に、いつか誘拐でもされるんじゃないだろうかと思う。もしかしたら本人も周りも気付いていなかっただけで、一度や二度は誘拐されていたかもしれないが。
「フィアス、他の子と仲良くなれるかな」
「さあな、どうでもいい」
本気で、心の底からどうでもいいと思う。だが、こいつは無意味にそういう事に気を配るという不可解な性質を持ち合わせているので、『魔物』とはいえ心配でもしているのだろう。
「その内、人類みな兄弟、だとか言うんじゃないだろうな」
だとしても、『魔物』は人類というカテゴリーに入るのかわからないが。イルはきょとんとして、首を横に振った。
「うーん、できればみんなが仲良くしてくれた方がいいけど、そう簡単にできたら、神殿なんて要らないだろうしね」
一応、その程度には現実がわかっているのか。
「それに、俺は誰だって無条件に好きなわけじゃないよ。フィアスとは縁があったから、幸せになってもらいたいなって思うだけだし」
「縁、か」
「ああ。だって、誰だって親しい人と知らない人だったら、親しい人を選ぶんじゃないか?」
「それはそうだろうな」
どんな綺麗事を並べ立てたところで、友人と知らない人間を突き出し、どちらかしか救えないといえば、余程頭がおかしい奴でなければ友人を選ぶだろう。選ぶ人間にとって、友人と赤の他人は同価値ではないのだから、それは当然の事だ。それを非難する奴がもしいたとしたら、そいつは友人など世の中に存在しないのだろう。或いは、友人一人助けられない人間、と見放されるだけだ。
「それに俺は、神殿のみんなは基本的に好きだし、神様達も好きだし、ずっと成長を見てきた色んな国の王族とかも仲が良いから好きだけど、世界の人間がみんな好きってわけじゃないし。リィンもそれは知ってると思うけど」
「そういえば、そうだったな」
色々と誤解されがちだが、こいつはそれ程人々の事を考えてなどいない。できれば幸せでいてくれればいい、くらいの認識で、普段は特に気に留めていない。ただ自分の周りの、近しい人間が楽しそうにしていればそれでいいそうだ。そうなるのも、無理はないのだろうが。
「セイとか、フィアスと仲良くなれそうな気がするんだけどね」
「根拠は?」
「勘みたいなものかなぁ」
普通なら、そんなものが参考になるか、だとか言えるのだが、こいつの勘は異様に当たる。これも神殿長の力の一つらしいが、その内未来予知でも始めるんじゃないだろうか、とさえ時折思う。
「ああ、それでね、リィン。仕事の話なんだけど」
「あ?」
「今度、この国に行ってもらおうと思ってる」
この国、と言ってイルが地図上を指し示した。小国というほど小さくはなく、かといって決して大国ではない、そんなありふれた国。だが、その国はよく印象に残っていた。
「あの国か……」
諸事情でイルの付き添いをした際、その国の君主と会った事がある。お飾りのような君主が多い中、あの君主は、まさに『君主』といった風情を持っていた。
「俺も用事があるから、一緒に行こうかなと思って」
「それが狙いか。折角フィアスと親しくなったんじゃなかったのか?」
俺もイルもいなくなったら、拗ねるんじゃないだろうか。アレはハザードよりはまだまともだが、ガキである事に変わりはない。
「大丈夫だよ。フィアスとハザード、ちゃんと仲良くなれたらしいから」
「ほう……」
これまでは、さほど親しくはない様子だった。ハザードはともかく、『魔物』の方はハザードの名を呼ぶ事もなく、突き放したような言動を取っていた。それが一応友好関係を結んだという事は、一応進歩に入る気がしないでもない。
不意に、イルが顔を上げた。数秒して、理由に気付く。不思議な足音。近付く気配。それが何者のものかは、考えるまでもなかった。
「ハザード、どうしたの?」
「あう? イル、見つけた。リィン、おかえり」
寝ぼけているのだろう、いつもよりも言っている事が支離滅裂だった。イルに歩み寄り、だらん、ともたれかかる。
「あのね、起きたら、まっくらで、びっくりして……」
「そっか、ごめんね」
「う……」
頭を撫でられ、ハザードが眠そうに目を閉じる。次の瞬間、雰囲気が変わった。
目を開けると、イルがいて、リィンがいた。どうしてここにいるんだろう、と思っていたら、説明された。ハザードがふらふら歩いてここにきたらしい。
「まだ眠いでしょう? お部屋に帰って休んでおいで」
「ん……」
もたれかかった身体は細くて、頼りない。頭をなでる手は優しい。
『おかあさん』じゃないけど、『おかあさん』に似てる。
頭をなでてもらうのが、ずっと昔も好きだった。
どうしようもなく、眠い。でもその眠さは、イヤなものじゃなかった。どこか、安心する。身体のどこかがあたたかい。
こういう時に寝ると、『夢』を見る。昔の夢。なつかしい夢。顔も忘れた『おかあさん』がいて、他の『こども』達がいた、あの夢。
多分、あの時、僕は『幸せ』だったんだと思う。
どうしようもなく眠くて、目を閉じた。笑う気配がする。
ここにいる限り、僕は『幸せ』を思い出す。それは、あの時と同じ『幸せ』じゃなくても。そして、同じように、失くした時の気持ちも、はなれてくれない。
こんなに暖かくて気持ちが良いのに、悔しくて、さみしい気持ちも、ずっとついてくる。
それでも、僕はもうここから逃げない。もう忘れない。ここを、壊させない。
――たとえばそれが、どうしようもないほど大きい、『後悔』とずっと一緒にいることになっても。
一人じゃないことが嬉しいと、初めて気付いた。独りが寂しいと、やっと気付いた。
そんな答えは、ずっと僕のそばにいたのに、ずっとずっと、気付かなかった。それはもしかしたら、『幸せ』だったのかもしれない。気が付かないままだったら、苦しくなかったかもしれない。
だけど僕はもう気付いた。だから気付かなかった頃には戻れない。
たくさん後悔して、それでも『僕』は『生きて』いく。
悔しいほど楽しくて
嬉しいほど苦しくて
泣きたいくらい、幸せ
―了―
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