ぼうっとする頭。思うように動かない身体。この状況を一言で表すならば『体調不良』。
 目だけ動かして見た時計を見る限り現在は昼を少し過ぎた頃で、家族はとっくに、仕事や遊びに出かけている。本日は、一般的には休日という日。親は普通の社会人と少々休日がずれているので、休日に家にいないのは当たり前。俺と違い社交的な兄弟は、休日は遊びに行くというのが通例で、休日家に一人きり、というのはもう慣れきっていた。一人の時間をたっぷりと楽しめる事に何の不満もなかった。ただ、こういう時は少しばかり困る。
 これほど体調が悪いのは、久しぶりだった。朝はまだマシだった。体調の悪さは感じていたものの、立ち上がるのにさえ苦労する程じゃなかった。だから、出かける家族をのんびりと見送ったのだ。
 食欲はなかったものの、朝食を少しは食べて、薬に頼りすぎるとよくないと何かで見た事を思い出して、薬を飲まずに布団に入った。今思えば、あの時ちゃんと薬を飲んでおけばよかったのだ。
 つまりこの悪化は、自業自得な面も多々ある、というわけだ。
 ため息をついて、寝返りを打つ。苦しい、辛い。思うけれど口には出さない。口にしたら、それこそもっと苦しく辛くなりそうだった。
 朝食の量と時間から考えれば、多分胃の中は空だろう。けれど食欲なんて微塵も湧かなかった。薬を飲めば少しは楽になるのだろうな、と思う。薬を飲む為には、少しでも何か食べなければならないのだけれど。
 このままこうしていても駄目だ、とどうにか自分を叱咤し、なけなしの根性で布団から這い出る。壁に手をついてふらつく身体を支えた。大丈夫、どうにか歩ける。
 居間に行って、立ったまま何か食えそうな物を探す。一度腰を下ろしたら暫くは立ち上がれないような気がした。
 米は炊いてあるが、今の状況で茶碗によそって食べるのはまず無理だ。冷蔵庫を開けると、昨日気まぐれに買ったヨーグルトが目に入った。これなら何とか食えるだろう、多分。



 もそもそとヨーグルトを食べて薬を飲んで、すぐに部屋で横になった。一眠りすれば、多分少しはマシになるはずだ。そう思って固く目を閉じる。
 だが、目を閉じるとそれだけ苦しさが際立つような気がしてくる。こんな調子では眠れそうにない。段々と吐き気までこみ上げてきた。だが、今薬を飲んだばかりで吐いたりしたら、意味がなくなる。ぐっと堪えて、唇を噛み締める。どうせこんな苦しさも辛さも、一過性のものでしかない。自分にそう言い聞かせて。
 気持ち悪い。それでも耐えるしかない。
 じっと我慢する。どれだけ時間が経ったのかなんてわからない。苦しんでいるときの時間の感覚なんて曖昧すぎる。
 気持ち悪さは収まるどころか増す一方で、ぼやける思考の中でそろそろやばい、と頭のどこかが警鐘を鳴らす。
 寝てる間に吐いたら、いくらなんでも大変だ。最悪、薬は飲み直せばいい。
 震える手で身体を支えて起き上がる。ぐらり、と気持ち悪さが増した。先程よりも更に重く感じる身体を引き摺るように、部屋を出た。



 ほとんど入ってなかった胃の中身を殆ど全部吐き出すと、気持ち悪さは引いていった。代わりに、というか、身体に力が入らない。がくがくと震える手を壁について、ふらふらと立ち上がる。たいして暑くないはずなのに、大量の汗をかいていた。水分補給しないといけないかな、とぼんやり思いながらどうにか居間に続く扉を開けて、立っていられずに座り込む。ひやりとした床が心地よくて、そのまま横になって、丸くなった。
 気持ち悪さはだいぶ緩和された。どこかの窓から入り込んだらしい風は強くはなかったけど、汗をかいた身体にはとても冷たく感じられた。その冷たさが、どこか心地よい。身体のだるさは、まだあちこちに残っている。それでも何だか、辛さとかはあまり感じなくなっていた。立ち上がれる気もしなければ、立ち上がる気も起こらなかった。
 ぼんやりするまま、眠気を感じて素直に目を閉じた。



「何やってんだよ、だらしねぇな」
 呆れたような声。顔を上げると、苦笑する兄の姿があった。
「……ホントに体調悪いんだねぇ。でも、ちゃんと布団で寝ないとダメよ?」
 のんびりした口調は、近所に住んでる祖母のもの。
「全く……ちゃんと薬飲んだの?」
 少し怒ったような、そして少し心配そうな声。聞きなれた、母親の声だった。
「おいおい、生きてるか?」
 笑いを含んだような声。顔を覗き込んだのは、遠くに住んでる従兄。
「……」
 言葉を返す気力もない中、それでも頬が緩んだ。だって、今は



 ゆっくりと、目を開ける。まず視界に入ったのは、居間と廊下をつなぐ扉。数回瞬きをして、床の上で寝ていた事を思い出す。眠気がまだ燻る中で、とりあえず起き上がる。身体がかなり冷えているが、気だるさや気持ち悪さはほとんどなくなっていた。
「……寝よ」
 とりあえず寒いので、布団に包まろう。ふと思い出すのは、さっきの、夢。
 夢には願望が現れる、という話は、聞いた事があった。全ての夢がそういうものではないとは思うけれど、もし、さっきの夢が、俺の願望を反映したものだとしたら。
「……人恋しいって事?」
 この歳になってそれは、ちょっと恥ずかしいかもしれない。恥じてから、一人暮らしをしている大学の友人が以前言っていた事を思い出した。

「一人暮らししてて風邪引くとさ、このまま死ぬんじゃないかって思う時があるんだ。このまま死んで、誰にも気付かれないんじゃないかって。治った後は、『何考えてたんだろ』って笑えるけど……風邪引いてる間は、結構マジに思ってたんだよな」

 俺は実家暮らしだから、友人のその恐怖はわからない。ただ『一人暮らしって大変だな』と思ったくらいだった。でも今なら、その恐怖の一端くらいはわかるような気がした。
 体調が悪い時に一人きり。ただそれだけなのに、どうしてか不安になる。普段は心地よいとさえ感じる静寂に、心細さを感じる。
 静まり返った家の中。完全に無音じゃなく、冷蔵庫の稼働音とか、時計の秒針の音だとか、そういう普段は気にも留めない音が満ちている。それが逆に、寂しさのようなものを感じさせる。
「……」
 一度意識すると、不安になる。立ち尽くしている内にくしゃみが出て、早く身体を温めないと、と思い出した。
 歩き出した時、背後からガチャリ、と音がした。
「……あら? 起きてたの?」
 白いビニール袋を手に提げた母親が、きょとんと俺を見ていた。予想もしていなかった事態に、上手く対応できない。
「……え、ああ、まあ」
 曖昧な言葉を返して、時計を見る。もう夕方だった。母親は仕事が終わるのが早いから、この時間に帰ってこれない事はない。ただ、いつもは買い物だとか近所の奥さん達と談笑したりだとかで、帰りは陽が完全に落ちてからになる。
「まだ顔色悪いじゃない。休んでなさい」
「あ、ああ……早いね、帰り」
「だって、朝具合悪そうだったじゃない。だから急いで買い物だけ済ませてきたの。夕飯はうどんと雑炊どっちがいい? あんたは昔から具合悪いと食欲なくすから、消化にいいものがいいでしょ?」
「あー……じゃあ、うどんで」
「夕飯は早めに食べる?」
「……いつも通りでいいよ。一回寝る」
「そうしなさい。後で起こしてあげるから」
「いいよ、自分で起きれる」
 ぽんぽんと、交わされる会話。早く寝なさい、と追い立てられるようにして部屋に戻る。布団に入って、暖かさに少しほっとした。
 扉越しに、微かに母親が買ってきた物を冷蔵庫に入れているらしい音が聞こえてくる。暫くして、テレビの音も混じってきた。
 身体がだいぶ温かくなってくる頃には、また眠気が戻ってきた。目を閉じて、まどろみの中でぼんやり考える。
 やっぱり俺は、少し人恋しかったらしい。
 昔からの進歩のなさに苦笑して、眠気に身を任せた。多分、今度はあの夢は見ないだろう。そんな事を思いながら。



おわり

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